性と聖〜 福乳に与えられた役割と三浦文学のエロティシズム

 さて『泥流地帯』を読み解く上で私の前に立ちはだかる大きな壁。ストーリーだけでなく、複雑にこじれた耕作の恋愛観や女性感、さらには信仰に至るまで、もろもろ考察するに避けては通れぬ「福乳」つまり「福子の乳房」問題。

 なんというか、耕作が福子の青白い乳房の記憶をご神体の如く扱っておるのですが、私もそれに釣られているのか、これまで深く考えないように無意識に避けていたような気がします。といいつつこういったメジャーなネタに触れ始めたってことはネタが尽きてきたんでしょうかね。

 それはさておきここまで書いた段階で少し筆を休め、ちょっとガチで再読してきます。

 読んできました。やはり「福子の乳房」は正編のラスト、続編の冒頭と続けて描かれる極めて重要なマターであります。以前述べた耕作と市街でばったり再会した節子がけたたましい笑いを残して走り去るシーンと同様、綾子さんの強い思い入れを感じずにはいられません。
 まず本文中、どの箇所でどう描かれていたか整理しましょう。

福子の乳房の描かれ方

<泥流地帯>

(1)轟音の章(四) 泥海から引き上げた女性の体から泥をこそげ落としていると「泥にまみれた乳房が、一つぽっかりと」現れます

(2)煙の章(八) 最終章、武井と再会し吹上温泉で、福子を助けたことを拓一に伝えた時に感じた罪悪感と共に「こんもりと青白い乳房」のことを思い出します

<続泥流地帯>

(3)村葬の章(三) 村葬中、泥海から福子を救ったこと、泥をこそげ落としているとふいにぽっかりと現れた青白い乳房を思い出します。また、これまでの一ヵ月半、時折それを思い出し尊いものに感じている様子が描かれます

(4)移転の章(六) 拓一との何気ない会話中、泥の下から現れた、こんもりと丸い、しかし青白い乳房を目に浮かべます

(5)蕗のとうの章(五) 旭川の常磐公園で節子と語る場面、「福ちゃんが好きなのは耕作なのでは」という言葉に、福子からもらった白い石のこと、泥の下から現れた「青い胸のふくらみ」を思い出します。こらこら節子の前だぞ…

 以上、目につくところで5箇所。それほど頻繁に登場するわけではないのですよね。
 さて、この福子の乳房ですが、物語中でさまざまな役割を担っており、場面を追うごとにその役割は耕作の認識、解釈とともに少しずつ変化しているように感じます。

 それでは改めて、福子の乳房の存在の変化を追ってまいりましょう。

福子の乳房の「存在」の変化

(1)轟音の章(四)〜「単なるポロリ」
 ここでは単に衣服を剥ぎ取ってしまうほどの泥流の猛威を表すのみです。乳房を目にした耕作も「おっと」程度のリアクション。ちなみに続編では柄沢の小屋で〜と記されていますが、正しくは、というか正編では泥海から引き上げた直後、小高い場所(屋外)で応急的に泥を落としている最中、まさに生き死にの瀬戸際での出来事でした。それが福子であることはおろか若い女性であることさえわかっていませんし、まあ妥当な反応でしょう。

(2)煙の章(八)〜「エロきもの」
 罹災から3日後、憔悴した武井と再会し吹上温泉に宿泊した夜、福子が助かったことを伝えた際、拓一の「そうか、お前が福ちゃんを助けたのか」という言葉に、耕作は福子を泥水から助け出したこと、そしてその時目にしてしまった福子の「こんもりと青白い乳房」を思い浮かべ申し訳なく思います。
 誰も救うことができず自責の念に駆られる拓一、図らずも命を救いかつ自身も救われるという、福子との結びつきをいっそう深める経験をしてしまったことに後ろめたい気持ちを抱える耕作。被災後間もない時期ですし馬鹿真面目な二人ですから仕方ないのですが、放っておくと反省の無限ループに陥りそうです。
 いずれにしても被災当日は誰のものかもわからない、単なるポロリと見えちゃった「モノ」でしかなかった「乳房」が、柄沢の小屋でそれが福子のものであったことが判明した瞬間に昇華し「こんもりと青い」という具体的かつ官能的な表現を加え、見ちゃったことに罪悪感を抱いてしまう「エロいもの」に変貌していることがわかります。

(3)村葬の章(三)〜「尊きもの」
 ここでは『続泥流地帯』に場面を移していますが、なんと村葬中に堂々と「ぽっかり乳房」を思い返しています。そしてこの日に限らず時折思い出していることも明かされますが、いつもの耕作であれば「僕はなんて破廉恥な想像をっ!」などと頭を抱えて悶絶しそうなものですが、そんな様子は全く見受けられません。
 これは、この1か月半の間に耕作の中で「福子の乳房」の位置付けが大きく変わっていることを意味しているのだと思います。
 「それは耕作にとって、こよなく尊いものに思われた」
 「決して犯してはならぬ聖なるものに思われた」
 耕作の脳裏に深く刻まれた乳房の記憶。おそらくその映像とともに触れた感触も思い出していたことでしょう。が、これでは耕作が罪悪感で押しつぶされてしまいますし、日々の暮らしにも支障をきたしてしまいます。この「エロいもの」から「尊いもの」に脳内変換したプロセスはとても重要かつファインプレーだったのでしょう。この辺りは後でもう少し掘り下げようと思います。

(4)移転の章(六)〜そして、信仰へ
 この場面では夕食中、母・佐枝に抱いている何とも言えない違和感、よそよそしさに思い更けていた耕作がそれを誤魔化すように福子の話題を上げた際、「泥流に流された」という拓一と福子の共通体験を意識するとともに、福子を背負った感触と例の乳房を思いだします。が、以前のように何か思いを巡らすこともありません。まさに呼吸をするように福子の乳を思い出しています。
 ここまできて遂に「福子の乳房」が「尊いもの」からさらにもう一段階、何というか…言語や思考を超越した存在にまで昇華しているような気がします。これって…もはや信仰?

(5)蕗のとうの章(五)〜白い石から青白い乳房へ
 旭川の常磐公園で節子と継母ハツとの面会中、「福子には好きな人がいるらしい」「それは耕作なのでは」という節子の言葉を受け、福子からもらった白い石のことや、あの日見た胸のふくらみに想いを馳せます。節子の前で何思い出してんねん、という気もしますが、前述の通りすでに信仰の域に達していますのでいつ心に思い浮かべようが耕作の勝手です。
 なおこの場面での重要ポイントは「白い石」と「福子の乳房」が並べられていることだと考えます。兄には伏せたい、だけど嬉しい「福子との絆」という共通点で結びついているこの二つの事柄は、一方では信仰(心)の暗喩としての役割も共有していると思うのです。
 泥流によって耕作の信仰(福子の希望)であった白い石を失い、その直後に福子の乳房が現れたことは、物語の進行、耕作と福子の成長とともにその(信仰の)象徴が石から乳房に、無機物から有機物(語弊ありますかねこれは)にバトンタッチされたことを示しているのではないか、と感じます。


 さて、福子の乳房の存在、その変遷について考えてまいりましたが、ここからが考察です。

 山津波によって全てを失い、絶望の淵で耕作の首にひたりと当てられた死神の鎌を振り払った福子の乳房。もちろんその瞬間には乳がどうのとは関係なく、打ち上げられた瀕死の女性を救う行動(動作)そのものが、耕作から泥流に身を投じるという選択を排除させたわけですが、止めただけではなく耕作をしっかりと「こちら(生)側に」戻らせたのはやはり、胸の泥をこそげた時にぽっかりと現れた「青白い乳」の存在です。

 泥流は家族の命だけでなく、裏山で一命をとりとめた耕作から「生きる理由」さえも奪っていきました。泥流に飲まれ見えなくなる拓一を呆然と見送った後の耕作は生ける屍。吸い寄せられるように滾る泥流に身を投じようとします。

 この時点で耕作の思考は全く働いていませんが、助けを求める微かな声に気づいた時、女性を泥海から引き上げた時、背に担いで柄沢の小屋まで重い足を引きずり歩いた時、それぞれの場面で一つずつ回路が繋がっていくように徐々に正気を取り戻し、引き上げた女性がどうやら若い女性であると気づいた時には、胸と下腹部の泥を落とすことをご遠慮できる程度には回復している様子です。
 さらにその女性が福子であると知ったとき、深い絶望の淵にあった耕作はかろうじて狭まっていた視界を、失っていた色彩を取り戻します。そして修平らとともに「今すべきこと(被災者の捜索救助)」のために立ち上がったのです。


 ちょっとここからは福子の乳房がもつ「役割」の視点で考えていきます。

福子の乳房が持つ「役割」

<耕作の命を救い立ち上がらせたもの>

 流されてきた女性が「立ち止まらせ」青白い乳が「引き戻し」福子が「立ち上がらせる」…この三つ(結果的にいずれも福子でしたが)の事象、プロセスはとても重要なものでありました。
 そもそもじっちゃんとばっちゃん、良子、拓一(そして恐らく姉の富も)を一度に失った耕作が前を向くことも立って歩くことも決して当たり前のことではありません。他の被災者(福子)を救助する過程がなければ耕作はあの時自ら泥流に身を投じていたでしょうし、仮に踏み止まっていたとしても、少なくとも野辺の送りの日、拓一が奇跡の生還を果たすまでの間は廃人のような状態だったでしょう。それまでの間に何か精神的に上向く要素もなさそうですから、自ら命を絶っていた可能性も高いでしょう。

 時の経過では(ましてや一晩や二晩で)決して拭い去ることのできない、耕作自身の死にさえ直結していたであろう絶望を、応急的ではあるのでしょうが福子(の乳)が吹き飛ばしました。瀕死の福子を助けるという行為で耕作自身が救われたというこのエピソード。精神的に、というよりはもっと実質的に、さらに言えば直接的に耕作の命が救われたと言えるのではないでしょうか。


<耕作に喜びと罪悪感を、拓一と耕作の間に秘密をもたらしたもの>

 奇跡的に生還するも誰一人救い出せなかった自分自身を責める拓一。
 もちろん福子が無事であったことは他に代え難い吉報なのですが、市三郎ら流された家族を誰一人として助け出すことができなかったことへの自責の念にかられている拓一にとっては「自分が福子を助けられなかった」という事実も(どうにもなりませんが)自身の不甲斐なさを責める上乗せ要素にはなるのでしょう。

 一方の耕作も、福子を救ったこと、裸であったこと、背負って運んだこと、どれをとっても(図らずも)福子と自分の関係性を深め、強める出来事に他なりませんので、兄に対して非常に気まずい思いを抱くのは当然といえば当然ですし、ましてや乳房を見てしまったなんてことは口が裂けても言えません。言う必要もありませんが。
 それでも一方ではやはり、幼い頃より福子に強い想いを寄せ続けていた(それが無意識かどうかという評価は読者ごとに異なるとして)耕作ですから、そこには何とも言えない心の充足感があったことでしょう。もちろんこれも拓一に対する後ろめたさを増してしまう要素の一つになっているのでしょうが。

 そしてその感情はそのまま、隠し事がすっごく嫌いであろう兄弟の間に深く大きな秘密としてその存在感を増していきます。繰り返しますが「兄ちゃん、おれ、福子のおっぱい見たよ」なんて言えませんし、人として言っちゃダメなのでこれは仕方ありません。


<「生きる」活力をもたらすもの>

 福子の乳房が物語の進行とともに「ぽろりと見えたモノ」から「福子の乳房」そして「尊いもの」、最終的に「信仰」という変遷を遂げていることは前述のとおりですが、まず女性の乳房が尊いもの、神聖なものに昇華する感覚はコレ、伝わりますよね?いわゆる「母なる云々」といった尊さとはまたちょっとベクトルの違う神聖さを持ち合わせてしまうのは男の子だけなんでしょうか?少し不安もありますがそれは「前提」として進めさせていただきます。
 これまで耕作自身によって、というか綾子さんによって「ぽっかりと」現れた「こんもりと」「青白い」乳房という、これでもか!と言わんばかりの修飾が施された「密かに恋焦がれた幼馴染のおっぱい」。

 この、思春期男子にとって宇宙規模にエロい存在が、いつの間にか「尊いもの」に格上げされる。これはとても当たり前かつ重要なことです。
 男女が並んで歩くことさえ憚られたこの時代の、ましてや超絶純情思春期男子の耕作です。ことあるごとに福子の官能的な乳房が頭に浮かんでしまっては仕事どころか日常生活にも支障が出てしまうことは不可避です。「僕は破廉恥だ!恥ずべき人間だッ」なんてやってられませんよ、四六時中目に浮かんじゃうんですから。

 となるとやはり、神聖視するしかないわけです。ちょいちょい福子の乳房を思い出すのは僕がエロいからではなく聖なるものを心に浮かべているだけよ、と。これは私も耕作くんの思考を全面支持です。繰り返しますが「母なる云々」といった尊さとはまた別ですからね。

 物語序盤、朝日に向かって手を合わせていた祖母のキワに拓一が「何で太陽ば拝む」と尋ねました。拝んでも拝まんでも太陽は照り続けるし、向こうから拝んでいる者の姿は見えまい、と子供らしい疑問を投げかけますがキワは、
「誰にも見えん所でも、真心こめて生きるこった」と諭します。
 私はキリスト教に限らず宗教全般に関して知識も含蓄もありませんが、このセリフには信仰の本質が詰まっているような気がします。何を崇拝しているのか、どんな教義なのかではなく、自分自身がどうすんのか。拝む対象が太陽ではなく、月であろうが山であろうが釈迦であろうがイエスであろうが、キワは同じように毎朝手を合わせて拝み、万物への感謝の見返りとして、その日を生きる活力を得て心を満たしたことでしょう。
 太陽を拝んで活力を得る。白い石を握りしめて活力を得る。白い乳房を思い浮かべて活力を得る。ベタですが感謝して生きること、その気の持ち方そのものが今日を、明日を生きるためのエネルギーであり羅針盤となりってところが信仰の本質なんじゃないかと思っています。あくまでもいち無宗教者の信仰観ですが。

 三浦作品としては特にキリスト教色の薄い(たぶん)本作品。露骨に「主をなんたら」と表さない代わりに白い石や青白い乳房が信仰あるいは信仰心のメタファーとして物語に織り込ませているのではないでしょうか。

<三浦文学特有のエロティシズム>

 誤解を恐れずに申しますとこの『泥流地帯』は三浦文学の代表作とはいえ『氷点』や『塩狩峠』に比べると圧倒的マイナー作品。滅多に読者にお会いしませんし生身の人間と感想を共有することは極めて稀なのですが、ネット上のレビューなど拝見しますとこの福子の乳房の場面に「恥ずかしながら(不本意にも)興奮しちゃった」という声が散見されることにちょっと驚きます。

 いやここは堂々と興奮して良い場面です。豆腐屋での背比べ(節子の柱ドン)、神社祭や村民集会での密着シーンなど、主に耕作と節子にその役割が任されてはいますが、本作の所々に散りばめられた読み手に触感や体温を感じさせるような、エロくて甘酸っぱくて美しい独特な性描写の一つです。そうそう、雪に残った福子の跡に拓一が身を投げ出すシーンなんかもそうですよね。
 ともかく綾子さんがエロく描いているんだから読み手はエロく感じるのは当然であり綾子さんもそう意図しているはずです。そうでなければ「こんもりと青白い乳房」なんて言わずに「でろりんちょと地につきそうな乳」とかで良いわけですから。胸を張って興奮してください。

 といいつつ、この時期の三浦作品における独特のエロス表現というのはなんとも独特というか、すこぶる良い意味での男子中学生的であるというか。私などは綾子さんて中高生時代は男子だったんじゃ?と思うほどツボを心得た絶妙な描写だと思って心から感心します。

 何度か触れましたが本作品、『泥流地帯』という物々しいタイトルで見失いがちですが、内容は超絶ポジティブ、胸キュンとエロスも見事に織り交ぜられた実に明るい青春群像劇。どうか多くの人が手に取って、私のように生涯の愛読書として大切に読み込まれることを切に祈ります。



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