武井隆司はキモいのか、キモくないのか 〜泥流地帯考察〜

 もう少し武井の話をしてもいいですか?

 結果的に耕作に中学を諦めさせ、富を数年とはいえ姑地獄に落とした武井ですが、もちろん彼に悪意などありません。これも義母のシンと同様、無意識の罪ってやつなのでしょう。
 そういう意味で物語上多くの役割を担ってきた武井ですが、物語の最終章、「汽笛」の第一節の終わりに久々に石村家を訪れます。回想以外では『続泥流地帯』冒頭の「村葬」の章以来の登場でした。
 初読みではどう評価すればよいのか解りかねるシーン。ひっそり戸口から入ってきて、もぐもぐと何か言って、もぞもぞと帰っていきます。

 シンプルに気持ち悪いです。
 石村家には自身の再婚と歌志内(三浦文学のホットスポット)への転出の報告に訪れたのですが、この場面でなぜ武井のキモさ(申し訳ない)が必要なのか、非常に興味深いので考えてみます。
 ちなみにこの場面は昭和三年の夏。災害からまる二年が経過しています。富も生きていれば二十六歳、武井も二十七~二十八歳といったところでしょう。まだまだ上昇気流にのった若者です。

 未曽有の大災害で妻を失った若い男が、二年後に再婚し新天地に向かう。非常に気の毒ではありますが不自然なところはありません。性別が逆でも同様でしょう。
 「やあ拓ちゃん、耕ちゃんしばらく……。ご無沙汰してしまって申し訳ない。なかなか心の整理がつかなくてね。お義母さん初めまして隆司です。富のことは……」的なあいさつがあっても良さそうです。
 しかし武井は数年ぶりに訪れた石村家で、しかも義母の佐枝とは初対面なはずですが(私が武井を転入者と決めつけているのは前述のとおりです)、ろくに挨拶もせず用件だけ伝えてもぞもぞと帰っていきます。
 武井自身は特にコミュニケーションに問題がある人ではなかったはず。それどころか、あの石村富さんが惚れたほどの男。この振る舞いには必ず理由があり、「なぜキモかったか(重ねて申し訳ない)」の答えもそこにあると思われます。

 ここで少し、この場面での武井の心境を考えてみます。
 読者側の視点では、武井なりに富を愛し大切にしてきたことは間違いなさそうですし、武井が富の死を防げたわけでもありません。
 「歌志内の炭鉱」というのも、もちろん稼ぎは良いでしょうが、硫黄鉱山と同様、しなくて良いならしたくない危険な重労働です。それなりの覚悟をもって、新しい家族と生きていく決心をした上での訪問なはずですから、武井には恥じることも責を負うこともないと思われます。
 とはいえ、物語を俯瞰している読者と違い、登場人物自身はそうもいきません。
 武井は富に苦労をかけたことも、結果として死なせてしまったことも自分の責任として抱えてきたでしょうから、富の死、無沙汰、新しい嫁、新しい暮らし、どれをとっても石村家に対しては大きな後ろめたさを感じているはずです。

 もちろん、最愛の妻を亡くした心情は察するに余りありますが、こちら(石村家)はこちらで、その愛妻の育ての親である市三郎とキワ、義妹の良子が亡くなっていることを考えると、まる二年の無沙汰はいくらなんでも長すぎますので、自ら敷居を高くしたことは否めません。
 ともかく、少なくとも胸を張って「やあどうも、しばらく!」というノリは絶対ないですよね。
 とにかく必要なことを伝え、一秒も早くその場を離れたい気持ちだったのではないでしょうか
 察するに戸口から顔を覗かせたとき、「ご無沙汰してしまって…」などの挨拶はあったのでしょう。「もぐもぐ」と。
 ここも耕作視点の描写ですから、耕作が聞き取れない言葉は文字にしてもらえないわけですが。

 また、「今度、俺、嫁ばもらって、歌志内の炭礦(たんこう)に行くもんだから」というセリフ。
 明瞭に発した言葉はこれだけですが、どうも「行くもんだから」の後にはさらに続く言葉がありそうです。これももぞもぞと聞き取れませんが。
 私の受け止めは「~行くもんだから、けじめつけによ。いつまでも下向いてたら富に怒られちまうから…」的な。
 この直前の場面、拓一の田んぼにはとうとう苗が根付きます。雑草とりに苦戦することにも大きな喜びが感じられる、まさに復興が次の段階に入った瞬間です。
 この場面に続いての武井のエピソードですから、田んぼも人間も「アフター泥流」に向けて歩を進める、ということを示した場面だと受け取ります。

 しかし、呆然と見送った石村家の三人の受け止めもさまざま。無言の佐枝、「そうか、よかったな」と呟く拓一、不遇だった富の暮らしを思い返し何か釈然としない耕作。
 もちろん石村家からすると、富に苦労させ、死なせ、ろくに顔も出さなかった男の口から「新しい嫁さんもらうぜ」的な言葉を聞いたなら「うーん」となるのは仕方のないことです。
 いつもなら全てを見通しているっぽい佐枝も、さすがにこの件に関しては何とも言い難い様子です(実際、よくわからないでしょうし)。しかしこの三者三様のリアクションも、登場人物としてはそれぞれ正しい反応といえるのでしょうね。

 結論というか、例によって勝手な決めつけなのですが、この場面の武井は精一杯の誠意を見せていたし、決してキモくはなかった……はずです。

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