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本を読んで知識を蓄積することについて

私は読書後に本のレビューを書いていますが、レビューを書き始めると「驚くほどに本の内容を忘れている事」に気がつく事が多いです。記憶というものは風化するものですね。ほんと。

ここから得られる教訓としては「良くも悪くも読んだ内容は忘れる」「知識を身につけるためには再読が必要」「ただ、印象深い内容はそれなりに覚えている」という事ですかね。

「学校教育で数少なく覚えている事こそが、教育の意味だ」なんて話もありますが、読書においても全てのことを覚えていることは難しく、読んで一つでも残ったことが自分の知識に蓄積や教養につながるのかも知れません。

ちなみに、知識の蓄積というと、アニメ「一休さん」の話を思い出します。とある寺に派遣される一休さん。その寺の井戸には、釣瓶(桶)がついていますが、驚くことに釣瓶の底が無かった。

和尚様から「この釣瓶を使って水を溜めろ」と言われる一休さん。底がないから水はたまらないと一休さんは嘆くが、和尚様からは「黙ってやれ」と言われる。こんな作業はムダだと思いながらも繰り返すと、何故か水が溜まってくるから不思議。

釣瓶の縁に付いた水が徐々に溜まってわずかながらの水が得られていた、というのがオチなんだけど、この話をはじめて見たときは「なんて無駄なことをさせるんだ」と心底、思いました。

ただ、この話はよほど私に取って印象深い話だったようで、事ある毎に思い出します。なんでここまで心に刻まれたのか、を色々と考えてみたのですが、要は、身になる知識を修得するという行為は、コレと同じなんじゃないか、という事実に思い当たったりしました。

一見ムダだと思う作業の繰り返しの中で、真に得られる知識が徐々に溜まっていく構造がありそうです。ムダだと思っていても、長い目で見ると意味があるというというか。

一方で、どんな井戸から水を溜めるのか、はきちんと考える必要はありそうです。ムダを承知で手を動かしても、たまった水が必要無い種類のものだとすれば、意味が無い努力になってしまいますからね。

いずれにせよ、反復することで知識が身につくことは間違いないし、一見ムダだと思うことにも意味があるという事なんだろうな、と思います。

読書についても同じで、同じ本を繰り返し繰り返し読むことで、その本のエッセンスが徐々に体に蓄積されていくと思います。

もちろん、いろんな本を読んで、様々な知識を雑多に入れることにも意味はあると思いますけどね。

いずれにせよ、簡単に知識は蓄積されないと思って、愚直に読書をするのが良さそうです。

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