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聖母マータアムリタナンダマイとの出会い  〜インドの神聖な霊性にふれる〜

30年程前、フリーランス通訳の仕事が軌道に乗りはじめた頃のことだった。私は私生活の中で自分ではどうしても抜け出せないつらい思いをしていた。そんなある日、私の恩師で友人でもあるサンフランシスコのペニーに紹介されたというある女性から手紙が届いた。

それはバークレー大学理工学部を卒業した後、南インドの聖母マータ・アムリタナンダマイ(以後アマチまたはアンマと呼ぶ)のもとで霊性修行をしているという30代はじめのアメリカ人クスマだった。

手紙によれば、彼女の師アマチは、第五回ワールド・ツアーを事前に控え「私の日本の子供たちが心の中で苦しみ泣ているから、私は彼らに会いにいかねばならない」と突然言いだしたという。そればかりか、弟子のクスマに、日本へ行ってダルシャン(*1)のプログラムを準備してくるように依頼したという。ところが、依頼を受けたクスマにとって日本はまったく縁のない未知の国だった。 そこで、彼女は知り合いを通じて一握りの日本人たちに支援を求めることにした。そのコンタクト先のひとりが私だった。

当時の私はサービス精神旺盛というのだろうか、助ける側になるとどうもやりすぎて最後には疲れ果ててしまうという傾向があった。それを自覚しながらも、ぺニーの紹介ということもあり、とりあえず少しだけなら協力しましょうと引き気味の返事を返した。一方クスマからは、他の人たちにも連絡をとっているので、わずかでも協力を得られれば助かりますという返事がきた。

こうして突然、私は全く面識のないクスマと、インドから聖母がやってくるという状況に遭遇することなった。それまでの私はどちらかといえば西洋思想よりで、インドの有名な聖者パラマハンサ・ヨガナンダやクリシュナムルティの本さえ読んだことがなかった。だから多少好奇心にもそそわれながら、準備のために来日を予定しているクスマと手紙のやりとりがはじまった。

彼女はさっそく聖母アマチを紹介する小冊子や写真を送ってきた。それらが示す世界は、インドのスピリチュアルな伝統に無知な私にとって、なんとも縁遠いエクゾティックな印象があった。しかし、当のアマチが椰子の木の下の地面で瞑想をしている十代の頃の白黒の写真を初めて目にした時、何か不思議と心惹かれるものがあった。

クスマの来日がまじかに近づいてきた頃、彼女は連絡をした一握りの日本人たちの誰からもまだ返事がないことを知らせてきた。私は英語でふつうにコミュニケーションができる唯一の相手だったらしく、私とのやりとりの比重は自然と増していった。その過程で、私はいくつかの疑問にかられた。

師の一言で、クスマは何の躊躇もなく見知らぬ国日本にひとりでやってくる。それもプログラムをオーガナイズするという使命を持って…。そんな無謀なことがどのように可能なのだろう? 私自身も小さな会をオーガナイズしたことがあるが、それは決して簡単なことではなかった。聞くところによれば、アマチは小学校3年生程度の教育しか受けておらず、日本という国があることさえ知らないはずだという。その日本になぜ来ようというのだろう? 彼女の日本の子供たちとは一体どんな人たちのことなのか?彼らが苦しんで泣いているなんてどうして分かるのだろう?

後から知ったのだが、クスマ自身は十代のころから人類愛に目覚め、世の矛盾や不幸に心を痛め、その延長上で神聖な愛の体現者であるアマチに出会っていた。そして南インドのアマチのアシュラムで7年間修業を積む間、彼女はアマチが時たま途方もないことを言いだしたり、要求したりすることに気づいた。しかし、それにはそれ相応の意味があることが後々に明らかになることも彼女は承知していた。だから、今回アマチからの依頼に関してクスマは何の疑いも不安もっていなかった。そればかりか、アンマの恩寵のもと必ずや実現すると確信をもち、彼女はできることをただやろうとしていたのだ。

いよいよクスマが来日する日がやって来た。私たちは、その日の午後に打ち合わせを約束していた。私はクスマの姿を目にするなりすぐに好感をもった。彼女は白い清楚なシャッツとスカート姿で、長い赤茶色の髪を後ろで束ね、誠実さあふれる純粋なオーラを放っていた。初めての来日でカルチャーショックもあるだろうに、その聡明な顔には落ち着きのある穏やかな笑みがあった。

小さなキャリーバッグひとつだけでインドから到着したばかりの彼女には、その時点で滞在先がまだ決まっていなかった。しばらく会話をした後、私はさっそく彼女が泊まれそうなリーズナブルな宿を電話で当たってみた。が、どうしても適切なところはみつからず、結局は時間を節約するためにも取りあえず私の小さなマンションに宿泊してもらうことにした。その後、クスマが短い滞在中により効率よく動き回ることができるようにと、私の住まいはそのまま彼女の滞在先と活動拠点になっていった。

クスマを自宅に迎え入れた私にとって、それは7年間南インドのアマチのもとで霊性修業に専念してきた彼女の人柄や英知、エネルギーに触れるチャンスでもあった。彼女は、合間合間にアマチに関する霊的なエピソードや個人的な体験談を私に語り聞かせてくれた。それは、日本の日常にいながらにしてまるでインドの神聖な空間に誘われていくかのような体験でもあった。そればかりか彼女と一緒にいると、自分の精神が自然に清められていくかのようだった。一方で、見知らぬ国日本、それも大都会の東京で右も左もわからないクスマが懸命にミッションを達成しようとしている姿を、私は見て見ぬふりができなかった。

クスマの短い滞在中、私は国内ではまだ誰も知らない南インドの聖母アマチをまずは身近な友人たちやサークルに紹介しサポートを得ようとたくさんの知り合いや友人たちに電話をし、自宅でビデオ上映会を開いた。さらに、やはりペニーの紹介でつながったカウンセラー養成校/東京コミュニティ・カレッジのK校長先生のものとに支援をお願いに行ったり、会場探しに奔走したりと、クスマと私はいつの間にか二人三脚でプログラムを準備する活動に取り組んでいた。一方、来日前にクスマがコンタクトをした人たちは、カレッジのK校長先生以外は誰ひとり関心をしめさなかった。

私はクスマの師への完璧な信頼と、その信頼から来るひるむことのない集中力と行動力に驚かされた。そこには不安や疑いが入る余地がまったくなかった。一方、同行している私のマインドには、そんなことはできっこない、やっぱり駄目よね、おそらく誰も興味をもつ人はいない、などとネガティブな声が後から後から湧き上がってくるのだった。それは無理もない。現実的にみて、誰も知らないインドのグルの会をどのホールが受け付けてくれるというのか、誰が保証人になるのか、どうやって人を集めるのか。しかし、クスマはアマチの恩寵(*2)のもと、必ずやプログラムは開催されると確信していた。だから、やれることはすべて全身全霊でやって道を切り開こうとするのだった。そうはいえ、都内のホールを、組織か団体の保証人なしに借りることは現実的には不可能に近い。さらに、インドで当たり前に通用することの多くは、このルールの多い日本では通用しないのだ。

そんな状況下で理解を示してくれた人が一人だけいた。それは前述の東京コミュニティカレッジのK校長先生だった。先生は人間をよりホリスティックにとらえるカウンセリング・アプローチを教育に取りいれていた先見の明のある教育界のパイオニアだった。カレッジで講師をしたことのあるペニーの紹介もあり、さらにクスマ自身からアマチの幅広い人道的活動の説明を受けて感銘した先生は、なんと、協力しましょうとおっしゃってくれたのだ。そのカリスマ的な後援のおかげで野口英世記念会館という立派なホールを借りることが可能となった。そればかりか、先生の一言で、カレッジの生徒さんたちが会場でサポートをしてくれることになったのだった。

クスマの帰国後も、私は引き続き手ずくりのポスターをあちこちのインド料理店に張りに行ったり、ニューエイジの本屋さんにパンフレットを置いてもらったり、友人たちに口コミでまわりに知らせてもらったりと、数人の友人たちの協力のもと広報活動を続けていった。そのような矢先、インドのアシュラムに戻ったクスマからある相談を受けた。

アマチがどんな方であるかを日本の人たちに紹介するために、その生い立ちと教えをまとめた少冊子を和訳し出版する必要があるが、どうしたらよいだろうというのだ。そんなことを言われても、誰が翻訳し、出版するのか? プログラムの開催はもう1ヶ月後に迫っている。ただ、この段階で私はもう後には弾けないほどインドとアメリカのツアー・オーガナイズ・チームと共にプログラムの準備に関わっていた。私は戸惑った…。まわりのどこを見渡しても、それを今すぐ着手できるのは私しかいなかい。ただ、私は通訳で、翻訳者ではない。翻訳に自信はないし、一体誰がそれを校正し、どのように出版すればよいのか? だが、ためらっている暇はなかった。ここで穴をあけるわけにはいかなかった。当時ワードプロセッサーさえ持っていなかった私は、とりあえず以前クスマから送られてきた英語の小冊子を作文用紙に手書きで訳しはじめてみた。

文章は決して洗練されたものではなかったが、それは英語のテキストから得たイメージとクスマから聞いていた話を、心のスクリーンに映し出しながら自分の言葉を通して綴る作業となっていった。同時に、アマチが神意識を体現していった壮絶な生い立ちや、そのシンプルかつ深遠な霊性の教えを自分の心に刻み込み、アマチを間接的に知る体験になった。

その一方、私には自分が自信を持てず不安にかられると、誰かに依存的になったり、人から何らかの承認を求めようとする傾向があった。ただその時は、周りには承認を与えてくれる人も、頼る人も誰一人いなかった。翻訳の途中で、校正をお願い出来そうな人たちに頼めば、見事に全員から肩透かしをくらった。まるでアマチの恩寵の導きのもと、ネガテイブな思いに屈せず、自分で責任を持ってやり抜く力や自信を育むための修行でもあるかのように…。最初はどうして誰も助けてくれないのか、とみじめな気持ちになったものの、そのように視点を変えると、そういうことか~と笑えさえした。真剣にやるしかない。全力を尽くしてあとは天に、おっとアマチの恩寵にお任せ、と…。とはいえ、翻訳作業は一発勝負の通訳と違って、時間がかかり根気のいる私の苦手とする作業だった。

しかし翻訳をやっと終える段階になると、たまたま電話で話した姪が翻訳文を一度読んでくれることになった。なんとありがたいことか。やはり、第三者の目を通すことは翻訳には必要なプロセスなのだ。そしてテキストが完成すると、今度は近所に住む友人のフランス人デザイナーFが偶然のタイミングで装丁を協力してくれることになった。さらに知り合いの紹介で良心的な印刷屋さんが見つかることに…。こうして結局約1ヶ月たらずで、窮地に追い込まれ無理と思っていた300部の邦訳の小冊子が出来上がった。

アマチは十数人ほどの高弟や弟子、帰依者らを伴って来日するという。それはそれでいいのだが、収容数500席の会場には一体何人の日本人が集まるのだろう?その状況がまったく見えない中、プログラム開催の一週間前にクスマが再来日し、プログラムの最終準備が始まった。

まずは、K校長先生のご厚意で、彼女の住む赤坂の高級マンションの一階に常設されたゲストルームをアマチの宿泊先としてお借りすることができた。随行者たちの宿泊先には、そこから徒歩3分内にある利便性のよいアジア会館が予約できた。ただ、ここでの一番の問題は、どこでアマチや彼らのための特別なインド料理を調理するかだった。彼らは外食をしないのだ。しかし、これもまたK先生のご好意で、先生のご自宅のキッチンとダイニングルームをお借りすることになった。アンマのお部屋に用意する必要のあるという冷蔵庫は、友人から小型冷蔵庫を借り、その他の調度品と一緒に小型トラックで運び込むことになった。さらにプログラム用の備品や大量のバラの花も、知り合いや友人に協力をお願いして調達することができた。一方、ご一行を成田空港で送迎するための大型バスも予約しなければならなかった。アマチの送迎には友人が自分の父親の自家用車を借り運転もしてくれることになった。K先生は、ご自分のカウンセリングの生徒さんたちに会場の整理係を割り振った。そればかりか、生徒さんたちのまわりで聖母の祝福を得たい人たちにぜひ参加するようと勧めてくれた。その中には、生徒さんたちからカウンセリングを受けているご家族や身体や知的障害者の大人たちや子供たちも含まれていた。

開催当日の3日前には、アメリカから数人の帰依者たちがプログラム開催の事前サポートのために来日した。私たちは互いに紹介しあい、一緒にプログラム運営の即席チームを組んだ。彼らも、クスマと同じように誠実で純粋なエネルギーの持ち主たちで、私たちは即座に打ち解けあった。その時に分かったことは、彼らが皆自分たちをアマチの子供たちと呼び、彼女をアンマ(お母さん)と呼んでいることだった。

アマチ来日の前夜、クスマは師を空港でお迎えするためのお花のガーランド(首にかける花輪」を心を込めて作っていた。そして翌朝、そのガーランドの入った箱をもって、私たちは貸し切り大型バスに乗って成田空港に向かった。クスマはとてもわくわくしている様子だったが、私はめまぐるしい忙しさもあってか、これからどんな状況になっていくのか、アンマが一体どんな方なのかに思いをめぐらす余裕がなかった。

バスが空港に到着すると、私たちはいそいそと到着ゲートに向かった。そしてしばらくすると、ゲートから他の乗客たちに交じって真っ白いサーリーをまとった小柄なインド人女性がにこやかな笑みを浮かべながら出てきた。そのあとをインド人や西洋人の弟子たちが囲むようについてきた。その時、その場がぱっと明るい光に包まれるような印象があった。私はいつものようにビジネスライクに握手をして迎えようと、アマチの方に一歩踏み出ようとした。その瞬間、自分でも驚いたことに、私は手を差し伸べるかわりに両手を胸の前で合掌し、まるでエンジェルかドルフィンを見た時のように内側からあふれる笑みを浮かべていることに気がついた。先ほどの握手をしようとしていた自分とは違って、まるで別人のようにやわらく優しいエネルギーになっているのだ。その時、隣にいたクスマが箱からお花のガーランドを取り出した。そのまま、グルのもとに行って首におかけして歓迎するのかと思いきや、彼女はそのガーランドを私に手渡した。「あなたがアンマを日本に歓迎するのよ」とでも言うように…。

私はびっくりしながらも、今までの緊張したはりつめた自分ではなく、やわらかいハートのエネルギーと共に、目の前で微笑むアンマの首にガーランドをおかけした。そしてそのまま、白いサリーの胸元に抱擁され、祝福を受けた。
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アンマのこの日本初のプログラムには、どこからともなく300人ほどの参加者が集まってきた。ダルシャンと呼ばれるこの集いでは、ハーモニアム、タブラなどのインドの楽器と歌からなるバジャン(*3)の音楽が奏でられ、その心地よい音のハーモニーが会場全体に響き渡っていった。その音楽に包まれながら、参加者のひとりひとりが舞台の中央でにこやかに微笑む聖母の抱擁の祝福を受けた。多くの人の顔には晴れやかな笑みが浮かび、言葉にならない深みからの涙を流す人たちもいた。老若男女にかかわらず、すべての人が聖母の胸の中でまるで子供のように抱擁を受ける姿は何よりも感動的だった。

後から振り返ってみれば、私自身は聖母アマチとの出会いのおかげで、自分だけではどうしても抜け出せなかった心の苦しい状態からいつの間にか解放されていた。まるで、自分の意識がより高いレベルへと引き上げられたかのように。まるで蜘蛛の巣につかまっていた蝶が、そこから解放されたかのように…。

*1)ダルシャン  神聖な存在との出会う機会
*2)グルの恩寵  グルを純粋に信頼し委ねることで得られる神聖な力
*3)バジャン   祈りの音楽や歌  







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