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「病」を人生のどこに位置づけるのか? 〜ALS×人生会議、のインタビューに答えていて思ったこと〜

今、時代は
高齢社会、多死時代、人生100年時代。

昭和の時代は、病気が見つかれば病院へ、そして治して帰ってくる。
病気になったら、治るか死ぬか。
でも、今は、治る病気でも死ぬ病気でもない、
「治りも死にもしない病気」
つまり付き合っていく病気がとても多くなっています。

そう、病気と一緒に生きていく時代になりました。
障害と共に人生を歩む、時代なんです。
withコロナ、なんて言葉もありますが。

病気は病院に置いてくる、時代から、病気とともに歩む時代、なわけです。

緩和ケア、や、ホスピスケア、障害者のケア、在宅医療、など
新しく必要とされている医療のカタチはそれを叶えるものとして生まれて来ているのではないでしょうか。

しかし、このどれもが、医療側から生活の方に浸透して来たもの。
まだまだ、生活の視点、人生の視点は足りず、
結局、家を病院化してしまったり、人生の楽しみを医療が縛ってしまったりしている現状もあります。

この調子で、医療からの浸透が、本当の意味で生活や人生を支えるものになるのを待っていればいいでしょうか?

「治らない病気」「これ以上良くなることはありません」
と言われて病院から帰るときの絶望感が、まだまだとてつもなく大きいとしたら、

まだまだ、この「病気は治るもの」という、イメージが強いのかもしれません。

だから、治らない病気。障害を持って生きる。という状況は
とても特殊で特別なものになってしまう。
そして、人々の意識だけでなく、社会制度や仕組みも、
病気は治すもの、という前提の社会保障費の分配が行われている気がします。

「病」も、生老病死、と流れる人生の1パーツとして、
生活の視点から「病」をどう扱うかの議論を、ゆっくりとでも良いので始めていくべき時が来ているのではないでしょうか。


「残念ですが、来年はまた一つ、歳をとるでしょう」
「申し上げにくいのですが、150歳まで生きるのは無理でしょう」
と言われても、傷つく人はいない。

それくらいの距離感で「老」や「死」と向き合うイメージで
「病」も生活の中で扱うような雰囲気

もちろん、突然の病気や難病に、そんな呑気なことが言えないこともわかります。

必死になる、分断する、戦う。

その一方で、

流す、受け入れる、付き合っていく。

どちらもあり、な雰囲気作りが必要なのだと思います。


医療チームが、生活ど真ん中であるはずの「老」や「死」まで
病院で管理しようとしてしまった時代の反省として。

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