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マンションポエムと高台に住む人

家のポストによくマンション広告のチラシが入っている。いつもあまり見もせずにすぐ捨ててしまうのだが、キラキラ輝く街並と豊かな自然の中にマンションのCGパースがやたらと鮮明すぎて、少し違和感を持っていた。

郊外の暮らしはほっとする

私は今埼玉の郊外に住んでいるので、郊外向けの客層に合わせて『ファミリーで住みやすい』『自然が豊か』『買い物が便利』『コスパが良い』という謳い文句をよく見かける。高級感というよりは、ほっとするような、肩ひじ張らない暮らし、という感じのコンセプトが多い気がする。

『高台』というパワーワード

ある日、知人と仕事の打ち合わせがあって都内でお会いした。前の週にも1回会う約束をしたが、台風が来ていたためキャンセルし、日程を変更してもらった。
都内の川沿いも浸水の被害が出ていたので、彼女のご実家が大田区ということで、被害がなかったか心配して質問してみた。

私:「ご実家は台風の被害は大丈夫だったんですか?」
彼女:『ええ、高台なので。』
私:「高台。」?

『高台』ということばを聞いたとき、まるで何かを祝福するように、どこかの教会の鐘が鳴り響いたように感じた。そして大空に解き放たれた白い鳩たちが飛んでいく。
憧れて見上げるであろう『高台』。豊かで静寂でラグジュアリーなライフスタイル。日当たりの良い、南向きの大きな窓とそよ風に揺れる木々。

場所を特定する地名を使わず、やんわりとエレガントに表現するにふさわしい受け答え、それが『高台』だと思った。

私:「そうですか。それは良かったですね、安心しました。」と答える。

彼女は本当に田園調布あたりの真性の『高台』に住んでいるのかもしれないが、あえて遠回しに土地の形状を指し示してきたあたりに、なかなかのセンスの良さを感じた。
そして『はい。』ではなく『ええ。』と少し控えめに、そしてさりげなく『高台』というパワーワードをぶち込んでくるあたりが、とてもブリリアンスだと思った。(ブリリアンスってw)

『高らかな台地に住まう』という選択。

彼女と別れてからも、なぜかその『高台』というキーワードが頭から離れなかった。彼女の気品というか、プライドというか、育ちの良さをさりげなく、そして確実に提示する『高台』。
きっと私たちはそんな『高らかな台地に住まう』ことがステータスで憧れなのだ、という価値観がいつの間にか心の中に植え付けられているのかもしれないと思った。

それは不要不急の幻想でフィクションである

しばらくしてコロナ禍になり、世の中の様子が一変した。今までの暮らし方や働き方、様々な価値観や生き方を見直したり、反省することも多かった。

ある日、『タワーマンションを作りすぎた』と反省する建築家のネット記事を読んだ。コロナ禍になり高層マンションや都心の場所のブランド化、行き過ぎたヒエラルキーはもう不要不急の幻想でフィクションであると。そんな夢物語を謳っていたけれど、結局格差社会は広がっていく一方だと、半ば諦めを嘆くような内容だった。

そんな幻想が自分のものになると信じてマンションを買ってしまった人たちはもっとかわいそうだと思った。

私の友人も都内の暮らしに見切りをつけて、沖縄に移住した人がいる。

タワーマンション、都心や場所のブランド化、高級志向、色々な価値観って時代とともに移り変わるし、過度に膨張したり萎んだり、定まらないものだと痛感した。そしてエレガントに見えることも急に陳腐に思えたり、ドヤって大きく謳えば謳うほど哀愁を醸し出し、逆に興味をそそられる。

『洗練の高台に上質がそびえる』

気になって『高台』『マンション』で検索すると、『マンションポエム』という不思議なキーワードが出てきた。

『洗練の高台に上質がそびえる。』高級志向のマンション広告なんかにキラキラ輝く文字で載っているキャッチフレーズがまるで『ポエム』と、少し小馬鹿に?揶揄する感じで取り上げられていた。

このキャッチフレーズを見たとき、エレガントな彼女が言い放ったあの『高台』というキーワードと確かに合致した。

そう、きっと彼女はその洗練された上質な暮らしを、高らかにそびえる台地を舞台に、私という人間は育まれてきたのです、と表現したかったに違いないと思った。

彼女を小馬鹿にするような文章になってしまってますが、きっと誰しもが1回くらいはそんな上質な暮らしを夢見て、そして憧れている(いた)人は多いと思う。
私も都内をぶらぶら散歩しながら、お屋敷を眺めながらそんな妄想をよくしてみたりする。(お手伝いさん、ベビーシッターさん、御用聞きの人なんかがよく出てくる)

夢は嘘でも夢のまま、もし嘘でも気付かずそのまま信じていたい気もする。もう彼女の育ちとか家柄とかそんな事実はどうでも良くて、どんな価値観で育ち、どんな夢を信じているのか、そちらの方が重要で興味深いと思った。

価値観が変化し多様になっていく

しかしコロナ禍で豊かな暮らしはこうである、という価値観は変化し、多様になっている。

マンション広告を色々見ていくと、そのマンションの建築物としての物の価値よりも、場所の物語性、ライフスタイルの演出、未来への可能性など、非現実的な事象にフォーカスされているものも多く、『価値』という物はどうにでも変形され変容されて私たちの心の中に入り込んでいる、と思うととても恐ろしいと思った。

プロローグが今、幕を開ける。

『人生をオペラに例えるなら、住まいはステージ、そこに住まう人々は歌姫(ディーバ)。シンフォニーを奏でてプロローグが今、幕を開ける。』

人生の高みを極めると、こんなキャッチフレーズに胸が高鳴るのかもしれない。何だか体がムズムズしてくるが、私はこんなことばに目をキラキラさせて寄ってくる人たちが実はとても好きだったりする。

ホームレスであることの優雅さと気品

別の日、私はおよそ10年ぶりぐらいに上野公園に行った。10年前公園をよく通り抜けて学校に行っていたが、ホームレスの方達への炊き出しがよく行われていた。

その日も昔と変わらず炊き出しが行われていて、相変わらず沢山のホームレスが並んでいた。
私もお金と家がなくなったらここへ来ようと思っていたけれど、変わらず支援している人たちがいて少し安心した。

少し離れたところでホームレスの男性が椅子に座っていた。よく見ると背筋をピンと伸ばして、静かに食後の飲み物を飲んでいた。都内の公園の一等地でゆっくりお茶を飲む。ホームレスでありながらも、その佇まいになぜか優雅さと気品を感じた。

エレガントな彼女が演出する気品と、気品からは程遠いであろうホームレスの醸し出す気品と、何が同じで何が違うのか、もうよく分からない。

ホームレスの男性にこの気品溢れるマンションポエムを朗読してもらったら、もっと滑稽で面白くなりそうだな、と思ったりする。

という感じで、ものごとを高いところから、そして低いところからの両側から検証してみると、色々と面白さを発見できた。そしてもう高い、低いという比較基準も古くなっているのかもしれない。

結局『高台に住まう』とちょっと言ってみたかっただけ

私もいつかはタワーマンションと思いつつ、ネカフェ難民、上野公園で野宿、ふらふらとその日暮らしになっているのかもしれないし、もう未来はどうなるか誰にもわかりませんが、つらいときはエレガントな彼女のように、優雅にお茶を飲むホームレスのように、気品とプライドだけは忘れずに生きていきたいと思います。




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