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7月初旬の日記  

7月某日
仕事で後輩にプロジェクトの概要説明。構造上、教える教わるの上下になってしまうため、さも自身がすごいかのような錯覚を覚える。社会人ー学生、先輩ー後輩、PMーメンバー、いろんなところでその構造になり得るが、それがその各人の能力に従った構造ではないということは気を付けたい。教える側や指導する側は気持ちよくなりやすいが、それに安住するのは甘え。ガワで判断しない。

7月某日
趣味でぼんやり続けているプログラミングのやりたいことをいくつか思いつく。そんなことで容易くやる気が上がる。最初、金儲けや副業のチャンスだと考え、プログラミングを独学し始めた。それからやる気の浮き沈みがありながらも1,2年はぼんやりと続けている。当初のような金、金というわけではすでに無くなっているが、それでも続けてこれているのはできなかったことができるようになることや、分かることの根源的なおもろさが全て。これを金儲けに使ったほうがいいという囁きも聞こえるが、そうなると楽しみがなくなるというのも確かである。楽しみながら、それが金儲けにつながるというのが最高な状態であることには異論はないが、楽しさが先行した状態でなければいけない。もうしばらくは欲望のままに過ごしたいと思う。ただ、もういい歳。時間は待ってくれない。

7月某日
自然史博物館に行く。恐竜やクジラ、ワニの骨格標本がある、デカい。デカいとはあくまで人間に比してデカいだけで、彼らからしたら人間は小さいだけ。当たり前のようでどうも人間主体で考えてしまう。こんなにも多様な生物が本当にいるのかとも思う。子供のころに来たときよりも一層ダイナミックに、一層リアルに感じることができる。人新世とはよく言うが、あまりにも自分らのことしか考えないことにより、環境や他の生物を置き去りにしてしまっている。資本主義が需要による駆動をしてきた中で、忘れ去られたものは大きい。ただ、飯は食わないといけない。当然完全否定もできないし、したくもない。

7月某日
仕事で英語を使う羽目になる。英語の勉強は苦ではないし、覚えるだけ聞くだけでいい、究極的にいえば言語という特性上、慣れれば使えるようになっていく。そういう意味では、毎日触れるとか成長を感じるということに関してはハードルは低めのように感じる。ただ、一方で終わりが全然ない。というか学びというのは終わることなんてないのだが、一体いくつまでやれば満足のいくのか、英語への不安感は消えるのか。日本語と同じレベルでの運用ができるようになるのか。ただ、日本語も小学生のときと今とでは使う言語レベルが変わっていると考えれば、国語を猛烈に勉強をした記憶はないが、まあ着実に触れていれば一定の運用レベルにまで到達するのだろう。とはいえ、面倒なことに足を突っ込んでしまったという気持ちはうっすらある。それでも足を突っ込んだのでもう少し付き合ってみようとも思う。

7月某日
漠然とツイッターのタイムラインを追ってしまう。しんどい。
何も言えない自分と流れるタイムライン。
言えるものはそんなにない気がする。

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