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サトシとピカチュウの物語を見届けた話

1997年4月1日から放送の始まった、テレビアニメ「ポケットモンスター」シリーズ。四半世紀以上にわたって今なお道半ばにある歴史は、2023年3月24日「ポケットモンスター めざせポケモンマスター」最終話「虹とポケモンマスター!」にて、放送開始当時からの主人公・サトシの交代という大きな節目を迎えた。

すでに交友関係にある方はご承知のこととは思うが、私はポケモンが好きだ。めちゃくちゃ好きだ。そもそも“狭く深く”しかコンテンツを追えない性分ではあるが、その中でもほぼ物心ついた頃から現在に至るまで追い続けているのはおそらくポケモンくらいだと思う。カードゲームこそあまり触ってこなかったが、ゲームも、アニメも、いつも自分の周りにあって、もはや趣味というよりも生活の一部であり続けてきた。もしかするとこういうのを、ライフワークと呼ぶのかもしれない。

「主人公がサトシから交代する」という事実は、他の国民的アニメで見られる“キャストのバトンタッチ”や“新シリーズの開始”とはかなり意味を異にする。そもそもポケモンというコンテンツは、株式会社ゲームフリーク制作の任天堂ゲームソフト「ポケットモンスター」シリーズ(いわゆる“本家”)の存在が大前提であり、本家のシリーズ展開がその他のメディアミックスすべてを先導する。すなわち、テレビアニメとしてのポケモン世界は、本家ゲームの新作が発売されてはじめて、新たな冒険の舞台を描くことができる(オレンジ諸島などの一部例外は除いて)。
しかしポケモンのゲームとアニメの関係性で面白いのは、そのようにゲームの世界設定を基礎として作品世界を構築しているにも関わらず、アニメ主人公のサトシはゲームには一切登場しないオリジナルの存在なことである。初代「赤・緑」の主人公(レッド)をアニメ版主人公として再構築した存在ではあるが、本家ゲームの主人公は作品ごとに別人である一方、サトシは彼らの衣装要素を引き継いだりしながら、すべてのシリーズで地続きの同一人物として主人公であり続けた。しかしながらサトシとその仲間が育ちきったまま新天地に移っては“新シリーズ”としての作劇に不都合なため、一つの地方での旅が終わるとピカチュウ以外の手持ちポケモンをすべてオーキド研究所に預け、新しい地方へ冒険に出て新シリーズが幕を開ける、というお決まりのフォーマットが出来上がった。ここで“レベルアップでは進化できない”というピカチュウの本家設定が、期せずしてこの作劇に非常に好都合にはたらくことにもなる。ともすれば、ピカチュウがレベルアップで進化するポケモンだったなら、サトシの旅はカントーやジョウトで終わっていたのではという勘繰りすら生まれてくる。

あらぬ方向へ脱線しそうなので話を元に戻すが、何が言いたいかというと、アニメ視聴者の中には「シリーズは定期的に新しくなるが、主人公はサトシとピカチュウのまま」というお約束が出来上がっていた。そのお約束は本来のメディアミックスを考えればかなりアンバランスな形の上に成り立っていたけれど、主人公然としたサトシのキャラクター性、ピカチュウのマスコット的な可愛さと、電撃というバトル演出としての華の強さ、シリーズの長期化で盤石になってゆく2人の知名度、声優・松本梨香さんと大谷育江さんの並外れた演技力、それらが複合的に作用し合い、サトシとピカチュウは26年間、不動の主人公であり続けたのだと思う。

だからこそこの番組において、主人公の交代はあまりにも大きな意味を持つ。サトシとピカチュウは今やコンテンツ全体を代表する存在であり、キャストを入れ替えてこの先数十年続ける選択肢だって無かった訳ではないと思う。しかし、他の長寿番組とは違い、冒険活劇を基礎にするポケモンのアニメには明確な“縦軸”が必要だ。だからこそ、たとえ26年間永遠の10歳だったとしても、キャラクターには過去があり、未来がある。懐かしい思い出について語る場面だってあるだろう。それを話す声は、キャラクターと一緒にその時間を生きた声であってほしい。そんな、登場人物が“本当に生きた”時間を制作陣が大事にしたいと思ってくれたから、松本梨香さん演じるサトシとして、我々のカメラから外れることを選んだのかもしれないと、そんな想像をしてしまう。

最終話「虹とポケモンマスター!」。カスミ、タケシと別れ、マサラタウンに帰ってくるサトシ。シリーズを通して何度も見た光景だが、この帰り道すら見納めだと釘を刺されている気にもなる。翌朝、朝日に向かってドードリオが鳴き、飛び起きてパジャマのままオーキド研究所に向かおうとする。言わずもがなシリーズ第1話「ポケモンきみにきめた!」のオマージュだ。新人トレーナーに渡されるフシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメの健康チェックに立ち会う予定が、ヒトカゲだけが姿を見せない。すぐに探しに向かうサトシ。深い穴から出られないヒトカゲを見つけ、当たり前のように自らも飛び込み助け出そうとする。ポケモンのために己の身を厭わない、26年間我々が見てきたサトシの姿勢。ヒトカゲを救出したところで初代ライバルことシゲルと再会、旅立ちの頃とは違う柔和な関係性が印象に残る。ポケモンワールドチャンピオンシップスでのサトシの優勝を称えつつ「チャンピオンになったキミは、どこまでポケモンマスターに近づけたのかな」と問いかけを残し去っていく。もはやライバルという関係性を超越し、すでに互いを認め合っている2人。その上で“サトシの物語”の核に対して問題提起ができる存在はシゲルしかいない。一方、前々話のピカチュウ捕獲失敗で、またしても仲違いしていたままのロケット団。しかし内なる想いは3人とも共通で、示し合わせをせずともトキワの森にて個々でピカチュウを狙っていたところ鉢合わせてしまう。再び団結しサトシ達を襲う。そして名乗り。26年間聞いていた彼らの口上も聞き納めだ。ピカチュウを捕えられ、窮地に陥ったところに颯爽と助けに現れたのは、なんとあのピジョット。シリーズ第3話「ポケモン!ゲットだぜ!」にて仲間になり、第83話「マサラタウン!あらたなるたびだち」でポッポたちの群れを守るため残されたピジョットが、ファン念願の再登場を果たした。ロケット団を撃退し、再びサトシの仲間になったピジョット。「めざせポケモンマスター」編で往年の仲間との再会を描いてきた、その最後の取りこぼしを24年ぶりにようやく回収した。
故郷で仲間のポケモンたちと平穏なひと時を過ごすサトシ。しかし依然頭の隅にはシゲルの問いかけが残っている。ある日出掛けた先で雨に降られ、雨宿りをするサトシとピカチュウ。初代オープニングとよく似た道を駆け、「そこに空があるから」のエンディングで見たような木陰に入る。野生のポケモンたちが雨を凌ぎに集まってくる木の下で、サトシはピカチュウに「俺、世界中全部のポケモンと友だちになりたい。それがきっと、ポケモンマスターってことなんだ」と語る。雨が上がり、空にかかった虹を見上げる2人。ボロボロになった靴を置き、新品の靴を履いて我々の知ることのない旅に出るのだった。

チャンピオンになったサトシの旅路に一区切りを設けるのと同時に、これまで幾度となく描かれてきた旅立ちの意味を再定義する。「サトシの物語」として、あまりにも芸術点の高すぎる最終話だった。我々の観測し得ない場所で、きっと彼らはこれからも、未知なる地方へ足を運び、まだ知らないポケモンに驚き、鍛えた技で勝ちまくり、仲間を増やして次の街へ行き、時に世界の命運に立ち向かいながら、ポケモンマスターを目指す旅を続けていくのだろう。確かにこれまで我々が観てきた「サトシ」という存在に、そんな確信を改めて持たせてくれる。締めくくるための最終回ではなく、続いてゆくための最終回。観る前は何とも言えない喪失感があったけれど、不思議なことに観終えてしまった後のほうが寂しさが薄れている。最後の場面でサトシの後ろで咲いた花は、もちろん「つぼみがいつか 花ひらくように ユメは かなうもの」の歌詞にかかっているが、満天の桜に包まれた卒業式に参列したかのように、晴ればれとした気持ちで2人を送り出すことができたと思う。

商業戦略という視点から見れば、サトシとピカチュウというコンビが主人公でなくなることは、きっとリスクの大きな変革でもあるのだろう。「ゲームをプレイしたことはないけれど、サトシとピカチュウは知っている」とか「ポケモンってピカチュウが主人公なんでしょう?」とか、そういう声はよく耳にする。四半世紀、子ども向けゲームソフトから始まり、今では国民的コンテンツにまで成長した、ひとつの結果とも言える。「よく知らないがキャラクターの存在は知っている」という層がこれだけ広く存在し、認知を得ているというのは、並のことではないだろう。

それでも主人公を代えるという選択をとったのは、ポケモンが「友だちである」ための作品だからではないかと思うのだ。

サトシがピカチュウを貰い旅立ったのは1997年4月1日。今サトシと同じ10歳の子どもがアニメを観ているとするなら、そのスタートは本人の生まれる16年前に遡らなければならない。自分の生きた10年分遡ってもまだ足りない。下手をするとその子の父親、母親と同い年かもしれないのだ。たとえサトシの側が永遠の10歳でいてくれたとしても、自分の生きた倍以上の時間旅を重ねてきた存在を、子どもたちは本当に“対等な友だち”だと思えるだろうか。

ポケモンのゲーム史については諸説あるが、ゲームボーイというハード機自体が流行を終えようとしていた頃に登場した、というのは有名な話である。野生のポケモンを収集し図鑑を完成させる、というメインタスクの達成には、別バージョンとの“通信交換”が不可欠だ。違うソフトで遊んでいる誰かを探す、通信ケーブルを持っている誰かを探す。どのポケモンを持っていないかを照らし合わせて、互いのポケモンを差し出す。一緒に旅したポケモンについて語らい、そして戦わせる。昨日の敵は今日の友で、今日の友は明日も友だち。ポケモンというコンテンツが本当に目指しているのは、ゲームを介した「友だちとの出会い」の提供なんじゃないかと、私は思う。

サトシの「全部のポケモンと友だちになりたい」という答えは、テレビ本編の時空ではないものの、実はすでに一度出している。2017年に公開された20周年記念映画 「劇場版ポケットモンスター キミにきめた!」。サトシとピカチュウの出会い、旅立ちを本編とは似て非なる次元で再構築し、一本の完結した映像作品とした本作は、制作陣が20年かけて出した「今日まで作ってきた“ポケモン”とはこういうコンテンツです」という一つの回答のような手触りを覚える。

作中でサトシは、なぜバトルをするのかという問いかけに「友だちになりたいからだ」と答える。ここでもサトシは、世界中すべてのポケモンと友だちになりたいという夢を語っている。「キミにきめた!」以降、一本ごとにほぼ完全に独立した世界観の劇場版シリーズでも主人公であり続けるサトシとピカチュウは、もはやアニメ版主人公という枠を飛び越え、ポケモンコンテンツ全体の支柱的な概念に近くなっている。そこでメッセージの発し手となるとき、彼は「ポケモン」という作品自体の代弁者とも言えるだろう。

そして「ポケモン」とは、破壊の文化であると私は思っている。新シリーズが出るごとに我々プレイヤーをあっと驚かせる仕組みづくりは、毎回“ここまでの常識”を打破することによって形成されている気がする。初代「赤・緑」しか存在しなかった頃、いったい誰があく・はがね・フェアリータイプの登場を予見しただろうか。ポケモンを2匹、3匹同時に戦わせられるようになると思っただろうか。戦闘中のみ起こる進化や、一度しか使えない技で戦況をひっくり返せると想像できただろうか。まさかポケモンが巨大化したり、自在にタイプを変えられる日が来ると予想しただろうか。

そして、いったい誰がサトシとピカチュウの冒険を見られなくなると、想像していただろうか。

我々視聴者が“当たり前”だと思うからこそ、その当たり前を超えて驚きを与えてゆく。思い返せばポケモンとは、いつもそういう作り方をしていたはずなのだ。
しかしながら今回についてはまったく予兆がなかった訳ではない。ポケモンワールドチャンピオンシップス開幕時の異例とも言える雑誌インタビューなどのタイアップ。アプリゲーム「ポケモンマスターズEX」へのサトシの登場。すべての地方を舞台にしたテレビ本編での数々の過去キャラクターとの再会。そして無敗の王者・ダンデを打ち負かしての優勝。
なんとなく「いつもとやり方が違うぞ?」という感触はシリーズ放送開始時からずっとあった。サトシ優勝の速報が渋谷に流れ(る演出をし)たとき、その予感は自分の中でより確かなものになった。
「もしかして、過去の視聴者を呼び戻して、サトシを見送らせるための準備をしているのではないか?」と。
そうして始まった「めざせポケモンマスター」編。ポケモンハンターに追われ傷ついたラティアスとの出会いを縦軸に、懐かしのカスミ、タケシと旅をさせ、派手なシナリオや劇的な演出ではなくいつものエピソードで「あぁ、サトシってこういう奴だったよな」と再確認させる。そして同じくハンターに深手を負わされたラティオスとは、一時的に結託するものの、終ぞ人間に心を許してくれることはなかった。この積み上げが最終回で「ポケモンと友だちになる」ことの途方もなさと、サトシにとってのその重要さを、我々に認識させる裏付けになっていた。
ゆっくりと支度をし、少しずつ心の整理をつけながら、かつて一緒に彼を応援していた人も、今なお応援しつづけている人も集まってきて、穏やかな気持ちで参列し、再び旅立っていく彼を、これまで旅の仲間がそうしてきたように、笑顔で見送る。そんな平和な卒業式を執り行ってもらったような気持ちでいる。ポケモンとして“破壊の文化”の矜持を貫きながらも、26年分のファンが笑顔で別れを告げられるよう、最善の形に準備をしてくれた公式には感謝しかない。

そしてその卒業式は、ポケモンが“今の子どもたち”と改めて友だちになるための通過点のような気がしてならないのだ。これから始まる新主人公、リコとロイの冒険は、きっと現代の10歳の少年少女たちにとって「自分の物語」になってくれるのだと思う。そうなってくれることを、切に願っている。
自分が10歳だった時と比べ、ポケモンはコンテンツとしてとてつもなく大きくなったように思う。昔からのファンは年齢を重ね、新規層の子どもも取り入れつづけた。アプリゲーム「ポケモン GO」は社会現象にすらなり、それまで一切ポケモンに触れてこなかった年代すら引き入れた。今や日本を代表するキャラクター、そして多様性の象徴として、2025年の大阪・関西万博のスペシャルサポーターにも、「ピカチュウ」ではなく「ポケモン」として就任している。
もう「サトシとピカチュウ」に頼らねばやっていけないほど、弱いコンテンツではない。
だからここで、もう一度ポケモンというアニメを、今の子どもたちのものにするべく、新たなスタートを切るのだと思う。

私たちもサトシと別れ、風といっしょにまた歩きだすのだ。

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