演目・松野カラ松の悲劇

(モブ出張ります)

これが自分の集大成だとその人は言った。


声の大きな人だった。演劇をやっているから当たり前だと思う、だけどそれにしたって、舞台に立つそのひとの声はよく通るし、すん、と体育館の奥の奥、まで響いた。バレー部のボールが床に跳ねる音に負けないぐらい、あの人の声は大きかった。とはいえ、日常生活でもそうだったかと言えば、そうでもない。髪を染めたり、耳にピアスの穴を開けたり、制服のリボンの長さを改造したり、スカートを必要以上に折ったりとか、そういうことをしていない、寧ろ地味なほうの人で、平時の声の大きさはそのイメージ通りなのだが。
その人は、おれより一つ上の先輩だった。どいつもこいつも、素人に毛が生えた程度でしかない演劇部員の中で、その人はまさしく、エースと呼べるほどの実力を持った人だった。おれは、今でも思う。あの人と釣り合える演技ができるのは、おれしかいなかったのだと。
あの人と同じ舞台に立つことは、おれにとっては決闘をしているようなものだった。そしておれは毎度負けていた。一度だって勝つことはなかった。



「文化祭の劇に、是非やりたいおはなしがあるんです」
その人は部活のミーティングでそう口走った。綺麗に伸びた背筋と、放課後は使われないレッスンルームの中で机を並べた部員たちの前で、凛然とした面持ちでそう言ったのだ。演じる脚本は、話し合いで決められる。だが、あの人がこのようにして、これがやりたい、とはっきり意思表示したのは、これが初めてだった。
「脚本はあるの? 台本の形にできる?」
「つくります。わたしが」
その人の意見を拒む人間はいなかったが、流石にその言葉には苦言を呈した部員が何名かいた。「それじゃあ流石に負担が」言うがその人は頑なに、自分に作らせてくれ、と言うのだ。

「これがわたしの集大成になります」

部員たちに頭を下げて、その人は言う。窓からさしこむオレンジ色の夕日が、その人の黒くしなだれる髪に反射した。机のうえにその人の影が落ちて、なんでだろう、そのときおれは、その人に見とれていたんだ。
結局誰も、その人を止めることはできなかった。一週間ほどで、その脚本は完成した。台本として渡されたそれを見て、おれはそっと息を呑んだ。悲劇と書かれたそのタイトル、主人公の男の役はおれがやるべきだと思った。



「松野くんがトゥーリンをやるのね」
黒板に書かれた役の名前とその下にある自分の名前をぼうっと見つめていると、あの人が話しかけてきた。横に書いてあるヒロインの名前の下には、もちろんその人の名前がある。
「……先輩は、主人公をやらないのですね」
てっきりおれは、この人と主人公の座を競い合うことになると思っていたのだ。度々あった、この人が男装して主人公であるヒーローを演じることは。
あの人が脚本として書いてきたのは、ある物語の中の一節、らしい。膨大な物語の中の、それでもほんの一部。人間の主人公が、その父親が魔王にかけられた呪いによって、その身に避けきれない不運を背負い込んだ、悲劇。あの人が演じるのは、その妹である。主人公がその顔も知らぬうちに生まれ、お互いにお互いが兄妹であることも知らずに恋に落ちる。
「この物語を演じることに意味があるの」
集大成、という言葉になにを感じたのか、部員のひとりが顧問に働きかけ、合唱部と共同して劇を執り行うことになった。

「ドラゴンや、敵のオークと戦うシーンは到底学祭の予算じゃ表現しきれないと思うんだ。だからそこを、コーラスで補う。オペラっぽくて、いいと思う」
あの人の演技が好きなんだ、だからきちんとしたもので終わらせたい。と、その部員は言っていた。
集大成。
あの人の言葉が、おれの脳内でリフレインした。
あの人はきっと、進学した先でも演劇をやるのだと思っていた。だって、すごい人なんだ。本当に。あの人は、あの人の才能は、本物だった。おれは一度だって勝てなかった。おれは漠然と、このままずっと、演劇を続けていくのだと思っているから、それなのにあの人は演劇をやめてしまう。だって、集大成って、そういうことだろう。

校舎裏のじめついた場所で、台本読みをしていると、「苦戦しているね」とあの人が顔をひょっこり出した。
「はい」
素直に答える。先輩が言うには、おれは、憑依型らしい。その人物になりきって演じてしまう。けれど、そんなふうになるまでこの主人公に感情移入するには、おれはまずその作品の世界観やら何やらを全部把握しなければいけなくて。つまり、この脚本だけでは掴みきれないのだ。主人公の背景も、世界観も。そのことを伝えると、あの人はああ、と笑った。「しょうがないよ。なんせ壮大な物語だから」
そう言って、あの人はカバンの中から、一冊の本を取り出した。本と言っても、ほんとうに分厚い本だ。ハードカバーの、おれはこんな量の本読んだことない、というぐらいの。
「全部とまでは言わないけど、その脚本のもとになった章ぐらいは読んでみてもいいかもね。役作りの参考になるよ」
手渡された本は、ずしりとした質量を感じさせた。白いカバーは新品のそれだ。新しく買ったのだろうか。そう聞こうと顔をあげると、あの人はおれが聞く前に答えてしまった。
「わたしのを貸そうにも、読み込みすぎてボロボロになってしまったから。ほかの部員にも貸してあげてね」
「……どうしてこれが、やりたかったんですか」
ついて出た言葉に、自分でも驚く。こんなことを聞くつもりはなかったのだ。あの人は、少し呆けたような顔をして、それから、寂しそうに笑った。
「多分、わたしが生きているうちに、映像化とかされることはないだろうし、もしされたとしても、わたしはその世界に入れないから」
「演劇、続けないんですか」
「続けない」
言い切るあの人の顔は、未練なんてなにもなさそうに見えた。
「なぜ、あんたはすごい人なのに」
「すごい人はこの世界にいっぱいいるし、いっぱいいる中のすごい人の中でもわたしは、際立つものを持ってないから」
すごいだけじゃダメなのよ、実際。あの人はそう言う。それからおれのことを指差して、「わたし、松野くんが羨ましい」と言った。



「カラ松がすげえ分厚い本を読んでる」
家の隅っこで台本を読み込むが如くあの人から借りた本を読み込んでいると、見かねたおそ松がおれを指差し言った。怪訝な表情である。それもその筈だ。おれが読む活字なんて雑誌のコラムがいいレベルだ。だけどこれは読書ではない。この本は台本だ。すべて暗記して、頭に叩き込む勢いでいかなくては、おれはあの人に勝てない。
羨ましいと、あの人は言った。なぜ? おれはずっとあの人に勝ちたかった。決闘。才能と才能のぶつかりあい。おれは天才だし、あの人も天才だ。羨ましいだって? それはこっちのセリフだ。おれにないものを持ってるあの人が羨ましい。どうしたっておれはあの人に勝てない。なのにあの人はこれが集大成だと言った。
「カラ松くん」
「ん」
「怖い顔してるぜ」
眉間に皺寄せちゃや~よ、とおそ松がぐりぐりと親指の腹でおれの眉間を押す。ほんとうに押してる。痛い。
「……邪魔するなよおそ松。今役作りしてるんだから」
「お前の役作り期間はいつもいつも怖いけど、今回は特別怖いなぁ」
おかげでトド松が家に寄り付かないし、一松は引きこもりで逃げ場がないからストレスフルですね。茶化すようなおそ松の言葉に、おれははぁと息を吐いて本を置いた。「セリフ、覚えたんだろ? なに行き詰まってんの」見越したおそ松がおれの横に座って、いたわるような言葉を発した。
「先輩が、これを最後に演劇をやめると言ってな」
「ふんふん」
「下手なものには出来ない。いつも以上に力が入る。……けれどそれ以上に納得がいかない。おれと同じくらい、いやそれ以上の才能を持った先輩が、演劇をやめてしまうなんて」
「へえへえ」
「……今日の夕飯カレーが食べたいな」
「ほうほう」
「聞いてないだろお前」
「いや聞いてるよ。ビーフシチュー食いたいんだっけ?」
「聞いてないだろお前!!!」
冗談はおいといてさ、とおそ松は言う。
「納得もクソもなくない? 高校生最後の部活の晴れ舞台、それを集大成と称してなにが悪いんだ。そこで演劇をやめるっていうのも、その人の人生だし、寧ろ節目でまあそうだようなって思うじゃん。それよりも、才能があるからもったいないっていうの、すっげえ無責任な言葉だろ」
「無責任、」
「だって、才能だけじゃ食ってけない世界だろ」
わかったような口で、おそ松は至極どうでもよさそうに小指で耳の穴をほじくっていた。きったねえ。
『すごいだけじゃダメなのよ』
あの人はそう言っていた。おそ松みたいなことを言っていた。……悔しい。すごく悔しい。
「でさ、どんな話なの、今回のやつ」
「……詳しくは言えないが、悲劇だよ」
ロミジェリみたいな? とおそ松は顔を顰めた。まあ、似てると言えば似てるが。
「集大成に悲劇ねえ。喜劇でもいいと思うけど」
「おれは悲劇でよかったと思う。悲劇は得意だ。喜劇のほうが苦手なんだがな。ピエロ役とか、観客を笑わす演技とか、おれには難しい。悲劇はわかりやすいし」
それもそうなのかね、とおそ松は言う。よくわかってないようだったが、どのみち関係のない話だった。




「『黒の剣はわが愛する人、わが夫でした。わたくしが行くのはあの人を探すためだけです。ほかになにが考えられましょう』」
瞳を閉じたままあの人は言葉を紡ぐ。狭い教室の中に響く声が鼓膜をつんざくようだった。だが不快な音ではない。心臓を揺さぶられるような声だ。
鏡があればいいのにといつかあの人は言っていた。どこに? と問えば、どこにだって、と笑って返す。おれはてっきり、演技をする自分を見て、もっとその演技を高めたいと考えているのだと思っていた。客観視した自分の姿を見るのはかなわないから。
竜と戦うシーンに入る竜のセリフは合唱部のコーラスになる。実際は生演奏になるが、練習のときはそうしてられない。あらかじめ録ってもらったデモテープを流しながら練習を行った。
あの人演じるヒロインが竜のもとに辿りついたときには、おれ演じる主人公は死にかけた竜の横に横たわっていた。竜の血によって傷つき倒れたという設定である。おれの手をやさしく取り、おれの役の名を弱々しく呼ぶあの人の声。デモテープに録られた竜の歌声が耳に響く。


―――これはこれはニーニエル。フーリンの娘御よ。終わる前にまた出会うたな。
―――喜んでもらおう、そなた、ついに兄者を見つけられたぞ。


……顔を伏せていては、あの人の演技が見られないことにひどく惜しいと思う。竜の歌声に息を呑むあのひとの些細な息遣いひとつひとつが、すべて演技だった。作品だったのだ。




――――「集大成なの」



文化祭当日。楽屋代わりの教室の中で衣装に着替えたおれたちは、それぞれ台本を読み返したり、誰かとはなしたり、思い思いの時間を過ごしている中、あの人はじっと、置いてある鏡を見つめていた。
「先輩」
「、松野くん」
背後から声をかければ、振り向くことなくあの人はおれの名を呼ぶ。鏡ごしに見ているのだろう。
「なんであの時、おれを羨ましいって言ったんですか」
もっとほかに聞きたいことはあったはずなのに、出た言葉がこれだ。ああ、しょうがない。昔からなにか考えて言葉を発するのが苦手だったのが、ここでアダになるなんて。
あの人はからりと笑った。なんだぁそんなこと、と。
「きみは思ったことないかな。あ、いまのおれ、すっげえいいぞ、とか、これ、座席から見てたら、すっげーかっこいいんだろうな、とか、鳥肌もんの演技だ、とか、さ……」
「……いや、えっと、あんまり……演技してるときは、演技に熱中してるから」
「ははは。そうだよね。わたしも基本的にそうなんだけど、熱中しすぎると、どっかちがう意識の向こうで、別のわたしが、演技してるわたしを見てるの。そんなとき、目の前にいるのはきみ、松野くん。一番の観客席だわ。実際あるらしいのよね、VIP席とか、プレミアム席で、観客が舞台のセットのひとつに組み込まれるっていう演出。松野くんは、それだったわ」
「……」
「あのとき、演劇続けないのかって聞いてくれて、ありがとう。でもね、わたし、演者としてのわたしの一番のファンが、わたしなの。わたし自身。そのわたし自身が、もうわたしに興味がないみたい」
舞台を降りる。
その意味を、おれはそのときようやく理解した。
あの人には、観客しかいなかった。演じきった後に沸き起こる拍手しか、あの人を支えるものがなかった。これから狭いコミュニティを抜け出して、外の世界に出る。そのときにあの人は、拍手がもらえるのかどうか、恐ろしかったのだ。

舞台を降りる。

鏡を見つめたままあの人は、それから一回だって振り返らなかった。いい舞台にしましょうね、と笑ったのだ。





「『困ることはないのだよ。何も今でなくていいのだ。わたしがお前に名前をあげよう。お前をニーニエル、<涙乙女>と呼ぶことにする』」
「『ニーニエル』」 
ニーニエル、あの人の手を取る。おれはなにも知らない。ニーニエルが自分の妹であることなんて。そんなことも知らずにおれは、目の前にいる娘と恋に落ちた。竜のかけた錯乱の呪いのせいだ。だがそのことには永遠に気づかないのだ。盲た娘はその声の主が兄であることを知らない。
「『グラウルングが、かの竜がブレシルの国境にまで来ている。あの長虫はテイグリンの西岸近くに横たわっているのだ。どうすればいいんだ、トゥランバール』」
「『全力を挙げてグラウルングと戦っても無駄だ。狡智と幸運によるほか勝目はあるまい。わたしが国境まで竜を探しに行こう。お前たちは逃げるがいい』」
「『ブランディア、おまえはハレスの家の者としてその役目を果たせない、なんとハレス家のつらよごしよ!』」
竜討伐のためにニーニエルに別れを告げる。暗くなる照明のなかであの人が沈痛な面持ちで己の胸に手をあてた。涙は流さなかった。あの人の悲痛な思いが痛いほど伝わるようだった。



コーラス隊が竜の断末魔を歌う。ソプラノの甲高い声が耳をつんざく。まさしく断末魔。唸るようなバスの歌声。おれはその中でセリフを言う。
「『やあやあ、モルゴスの長虫よ! ようこそまたも出会ったな! さあ死んで暗闇に入るがよいぞ! フーリンの息子トゥーリン、かく仇を討ったるぞ』」
影となって映し出された竜につきたてたはりぼての剣を引き抜く。そこで黒いビニル袋を裂いた竜の血が降りかかった。毒の血である。焦がすように痛む手を抑えながらおれは舞台に倒れこむ。トゥーリンは気を失ったのだ。


しばらくして、ニーニエルがやってくる。彼女は最愛の夫が倒れているのを見つけ、すぐに近寄った。竜がそれに気づき声を発する。コーラス隊の歌声がまたも鼓膜を揺すぶる。



―――これはこれはニーニエル。フーリンの娘御よ。終わる前にまた出会うたな。
―――喜んでもらおう、そなた、ついに兄者を見つけられたぞ。
―――さあ兄者のことを教えてやろう。

―――暗闇の刺殺者、敵に対しては欺瞞者、友に対しては信義なき者、身内には禍、これがフーリンの息子トゥーリンじゃ!

―――だが、彼の犯した最悪なる黄医は、そなたがわが身の裡に感じようぞ。


息を呑み、ニーニエルはおれを見下ろす。そのとき彼女は全てを思い出したはずだ。自分が何者であるか、そして兄の名がなんというのか。
あの人の顔が見たかった。あの人の演技が見たかった。あの人の観客として、一番の席で! だがちがう、おれはあの人の観客ではない。あの人と同等に渡り合い、決闘し合う、演者、共演者にすぎない。トゥーリン・トゥランバールは気を失っている。そこに松野カラ松の意思は存在しない。


「『さようなら! 二重に愛するお方よ! ア トゥーリン トゥルン アンバルタネン、運命によって支配された運命の支配者よ! ああ、死ぬのが仕合わせです!』」


あの人の声は、よく通る。体育館の中は、観客でひしめき合っていたはずだ。それでも、ほんとうに、よく通る。いい声だった。あれが彼女の断末魔だった。さいごの叫びだった。あの人の演劇人生は、これで幕を閉じたのだ。
だが劇は終わらない。悲劇の幕を下ろすのは主人公だ。目を覚ましたトゥーリンは、ニーニエルの死と、彼女の正体を、ブランディアという男から聞かされる。しかしトゥーリンはそんな与太話を認めるわけがない。怒りに狂い、ブランディアを斬殺したトゥーリンは、森へ逃げ込んだ。
そして彼は、森の中でエルフにであった。トゥーリンのことをよく知り、またトゥーリンの家族のこともよく知るエルフである。エルフは彼に、彼の妹と母親が、彼を探してエルフの領地から出たことを聞かされる。そして彼はようやく、事の次第を悟ったのだ。


「『これはまったくひどい冗談だ!』」


―――喜劇、いや悲劇だ。


「『あなた方の用向きも呪われてあれ! ―――これだけが足りなかったのだ。これで夜がくる』」


こみ上げてくるものは悲哀、絶望、恐れ、怒り。全ての負の感情である。舞台の端から端まで歩く足が、ひどく重い。ハリボテの剣が重量をますように思える。なにもかもが、重い。涙は出なかった。

「『やあやあグアサング! 汝は汝を揮う手のほかはいかなる主も持たず、忠誠心も知らぬ。汝はいかなる血にも怯まぬであろう。それ故、汝、トゥーリン・トゥランバールを受けるや。速やかにわが命を奪うや』」

剣を抜いておれは言う。コーラス隊はひゅう、と息を吸い込むのを遠くの意識で聞きながら、あっ、とおれは思った。 今、自分はトゥーリンだ。トゥーリン・トゥランバールその人だ。
『熱中しすぎると、どっかちがう意識の向こうで、別のわたしが、演技してるわたしを見てるの。 』
あの人の言葉が、耳を掠めた。今ならわかる、その言葉が。おれは今、二人に分裂しているようだ。トゥーリンになっているおれと、そんなおれをどこか遠くの意識で見ているおれ……。
刀剣の言葉をコーラス隊が歌い、おれは地面に刀剣の柄を突き立て、その切っ先に身を投じた。崩れ落ちるおれを舞台にひとり残し、照明が暗転する。


そのときおれは、あの人が言っていた、『鏡があればいい』の言葉の意味を、なんとなく理解した。そしてふと、思ったのだ。鏡が欲しい、と。



―――集大成だった。




手鏡を見る。そこに写る自分は、自分が知る限り世界で一番の演者だった。人生という舞台で華々しく活躍する、演者。おれの中で一番だったあの人は、もう演劇をやめてしまった。だから繰り上がって、おれが一番になる。
あの時は苦手だった喜劇も、今では哀れなピエロの役だって演じられる。不幸を背負いこみ、それで観客を笑わせるのだ。見る側がそれが哀れだと言えば、悲劇になるが。そうなってもおれの独壇場。あの頃と同じで悲劇は得意だから。

「鏡があってよかった」

映り込む自分を見てほっと笑う。演者が最高に輝いている瞬間を見れないのは観客にとって舞台を見に来ている意味がないのだから。
あの人は自分の集大成を見ることが叶わなかった。それはほんとうに可哀想なことだ。だけどおれはこうして鏡を見ているうちは、いずれ訪れるおれの演劇人生の集大成の舞台を見逃すことはないだろう。


まあ多分それは、おれが死ぬときになるんだろうなぁと、意識の向こう側で考えた。




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