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【考察】メイドインアビスとニーチェ その3

はじめに

 ライトノベルという存在に構わず、春休みを使いニーチェに触れ、アビスとの共通点を考察したこれらが僅かながらも人目に触れ、反響を戴けたこととても有難く思います。
 これら考察はアビスがニーチェに影響を受けているだろうという前提の上、こじつけていく形になっていますので少々強引なところがあります。そのことを頭の片隅に置いて読んでいただけますと幸いです。
 加えて、哲学と云うものはレスバ最強決定戦みたいなもので、先人の論を全否定する、一部流用して新たな考えを加える、時代に応じて変化させていく、そんなことが重要となっている訳です。
 ですから、メイドインアビスもニーチェ哲学自体を絶対としていないかもしれません。その時は新しいメイドインアビス哲学が興ったということにして皆さんで喜んで祝福しましょう。
 いつの日か「成長期の男の子は乳首だけ女の子なんですよ」が仰々しい哲学書に載る日が来るかもしれません。
 前置きが長くなりましたが考察に進みましょう。

箴言のような戯言

ニーチェ思想の行く末

 ニーチェの思想は強力なものである。というのは、道徳に囚われないことを是とし、己で価値を打ち建てていくことを説いたからだ。
 精神の変化の帰結として「幼子」、つまり、未だ社会に染まり切っていない自然に極めて近しい存在を選んだことからも分かるように、(誤解を恐れずに言えば)反社会的である。
 今でこそニーチェ思想と重なるようなことが社会でも囁かれ始めているが、その昔ニーチェはナチズムに影響を与えた危険な思想家と紹介されることもあった。
(社会に昏い私でもナチスに関する噂は耳にするので、彼らが行った様々な事象についての解説は省略させていただく。)
 なぜならば、先に挙げた「道徳に囚われないこと」「己で価値を打ち建てていくこと」は解釈の仕方によっては、殺人すらも肯定されるべきことになってしまう。これは全く間違えた事ではないのだが、ニーチェが言いたかったことの重点はあくまでも「定形の存在しない、”あくまでも”架空の善悪によって己を呪い、不幸に陥っていることをやめよう」にあって、決して「道徳の全てを否定し、無視し、踏み拉いて生きていけ」にはない。

 ところで、私はメイドインアビスを読んでいて時偶不思議に思うことがある。それは作中におけるボンドルドの描かれ方である。
 メイドインアビスに於いて最も反社会的な人物と云えばボンドルドである。アニメ一期に於ける鬱要素の約九割は彼に原因があり、夢見る子供を用いた人体実験、カートリッジの作成、挙げればキリがないくらい胸糞悪い野郎であった。作中で彼を差し置いて非道卿の座に君臨するに相応しい人物はいないといっても過言ではなさそうだ。
 もっとも、普通のマンガならば彼は徹底的に悪として描かれるべきであり、倒されるべき敵、つまりラスボスのような立ち位置にいることが多い。しかし、ことメイドインアビスに於いて彼は二面のボス的立ち位置な上、あまり否定的な描かれ方をしていないように感じる。特に、物語の主人公の心情は物語を代表づけるようなものであるのに、普通の主人公ならば徹底的に否定すべきような彼に対し、時に思想に同感する素振りを見せるなど、不思議な描かれ方をしている。また、精神を植え付けて増えた彼らをリコ達は根絶やしにしようとしなかった。一匹残らず駆逐してやるような主人公もいるのに対し少し奇怪に感じる。
 ここで、国語の問題ではないが、作者の意図として、彼を憎まれるだけの敵として登場させたくはなかったのではないだろうか。

 その意図を私は以下のように解釈する。
 メイドインアビスがニーチェの思想に則って描かれているならば、いつか作中にも、かの歴史の如くに非道を行うものが現れてしかるべきである。彼を作中で絶対悪として否定することは、基準からしておかしいが、主人公が彼を肯定することは読者の目に異様に映る。だからこそ、その異様さを無邪気さとして残しつつ、あくまでも人間——乗り越えられるべき何か——として存在させたのではないだろうか。

黒点

 ボンドルドの探窟隊が祈手(アンブラハンズ)と呼ばれていることは皆様もご存知の上だろう。
 アンブラハンズのアンブラには影や「黒点」の意味がある。黒点とは太陽の温度の低い部分であり、名の通り太陽表面に浮かぶ黒い点のことである。
 さて、太陽と云う語は「ツァラトゥストラ」の中でも度々登場する。考察その2でも書いたが、ニーチェは没落する者、贈り与える者の比喩に太陽を用いた。
 アビスに置き換えて考えるならば、没落する者、つまり探窟家は太陽の語をもって語られるべきというわけだ。
 そこで、ボンドルドに視点を戻すと、ボンドルドは太陽としての側面を持ちながら、道徳の側面から「闇」や「影」として語られる。ボンドルドを示すにあたって、太陽の内の闇として黒点は至上な的確さを持っているのではないだろうか。

夜明けの花

 メイドインアビスに於いて、夜明けの花=プルシュカ、であることは皆様もご存知の上だろう。夜明けは黎明であり、黎明卿の娘である彼女にはピッタリの名前だ。
 だが、先の太陽の比喩をもってして語れば、夜明けは又異なった意味を持つようになる。
 没落する者を太陽と重ねる場合、夜明けは没落の始まり、または没落する者が己の所にやってくることを示すだろう。
 作中に於いてプルシュカのもとに訪れた没落する者はリコである。リコは太陽として輝きを放ちながら、下へ下へと降りてゆく。その道中で出会う人々は、リコの輝きにあてられて自ら没落へと望む。プルシュカもその一人で、リコの冒険の話を聞いて自らも没落することを望んだ。
 ここまでプルシュカについての夜明けを書いた。だが、もう一つの夜明けについても書かなければならない。それはボンドルドの云う夜明けである。
 彼はプルシュカを犠牲にして祝福されることによって、夜明けを見ようとした。またそれを次の二千年に踏み入る準備だとも表現している。
 つまり、二千年という時間はアビスの夜明けから日没までの時間のことではないだろうか。今までの比喩の通り、没落の始まりが夜明けで、没落の終わりが日没となる。その2の内容と組み合わせれば、日没にこそ黄金郷は現れる。その後、一時的に世界は夜になるが、また回帰することによって夜明けが訪れる。これこそが二千年の問題の結論ではないだろうか。

神は死んだ

 ニーチェは著書「ツァラトゥストラ」の冒頭で「神は死んだ」と描いた。それは今までキリスト教が絶対的だった世界への目覚ましのような一言であった。
 ニーチェの謂う神の死とはどういうことか。それは神が信じられなくなったこと、即ち神の価値の崩壊である。現実世界で言えば、聖職者の悪事による不信や、自然現象に基づいた科学が聖書の記述と矛盾し、より信憑性の高い科学に人々が価値を置いたことである。
 メイドインアビスで言えばオーゼンの指摘が鋭い。

 奈落の底は未知だからこそ 畏怖れられるからこそ 神たりえるんだ
 簡単に行って帰ってこれたら 遺物の価値もアビス信仰も足下から揺らぎかねないのさ
『奈落の至宝』が目録に載っていないのはね 見つかっていないからじゃない存在しちゃいけないからさ

(つくしあきひと 著「メイドインアビス②」竹書房)

 つまり、アビスと云う神への信仰は「未知」が存在すること、それによる畏怖があることによって成り立っている。
 この二つはリコさん隊によって簡単に崩され得るものである。後者に至ってはオーゼンの言う通り、レグの存在が鍵となる。また、ファプタもそれに該当する。次に、前者についてはリコ達が冒険することによって崩れてしまう。科学者の探求が此の世の不思議を暴いてきたように、リコ達が此の世を「未知」を「既知」に変えることで神の正体が暴かれてしまう。それに加え、今までは呪いによって封じ込めてきた秘密が、今回に限ってはレグやファプタによって地上に容易にもたらされる可能性がある。
 今のアビスはこれまでに比べて、最も死に近い状態にさらされていると考えられる。

誕生日に死ぬ病

 まず、「ツァラトゥストラ」の第二部、鏡を持つ幼子の一節を引用する。

「どうして夢のなかであんなに驚いて、目をさましてしまったのか。鏡を持った幼子がひとり、わたしのほうに歩んできたようだったが。
『おお、ツァラトゥストラ——』と、その幼子はわたしに言った。『鏡のなかのご自分をごらんになればいい』。
 鏡を見たときにわたしは叫び声をあげ、こころは慄えた。そこに見たのは、自分ではなくて、悪魔のにがにがしい顔と、嘲笑だったから。
 ほんとうだ、この夢が何を示し何を忠告しようとしているか、わかりすぎるほどにわかる。わが教えが、危機のただなかにあるのだ。雑草が小麦の名を騙っている。
 敵は強大となり、わが教えの姿を歪めた。だから、わたしが最も愛する者たちさえ、わたしから受け取った贈り物を恥じるようになった。
 わたしは友を失った。失ったものを探しに行く時が来たのだ」——。

(ニーチェ 著・佐々木中 訳「ツァラトゥストラかく語りき」河出文庫 P137~138)

 察しの良い方ならば、なんとなくメイドインアビス中で登場する「誕生日に死ぬ呪い」と、これを関連付けることが出来たのではないだろうか。
 呪いの内容はこうだ。「誕生日に子供が死んでゆく。誕生日の朝に鏡を見ると首のねじれた自分がうつる」。 誕生日について明らかには出来ないが、幼子と鏡という二つの点が共通していることが見て取れる。異なるところを挙げるとするならば、「ツァラトゥストラ」では幼子が鏡を見せてくるのに対して、アビスでは幼子が鏡を見るという点がある。
 さて、ツァラトゥストラが鏡を見た時に映った悪魔の姿は、己の広めた教えが歪んで伝わっていることを示していた。引用箇所の下三行から、ツァラトゥストラの教えへの不信が募ってきていることも分かる。だが、メイドインアビス内での彼ら(幼子)は教えを広めていることなどしていない。本当に苦しむべきなのは没落する者である探窟家たちであるはずだ。
 では、次にこれを「ただ・・宗教が崩れてきていること」を示す現象だとしよう。すると、レグのアビス逆走やリコ達の探窟によってアビスの宗教的側面が崩れかかっている現在に於いて、起こるべくして起きた事象だと言える。
 また、このあと「ツァラトゥストラ」では歪みを正すためにツァラトゥストラが山を下りて再び教えを説くのだが、もしアビスが再び教えを説くとしたら何をするだろうか(もしそんなものが存在するのならばだが!)。
 六巻のオーゼンの話から、病の原因が分からず仕舞いであったことが読み取れる。お祈りガイコツたちが祈ったのは、架空の神様か、それとも姿を現したアビスの神様か。分かるのは物語が進んでからだろう。

枢機卿

 アビスを探窟する白笛たちは往々にして「〇〇卿」と呼ばれる。殲滅卿、不動卿、黎明卿、etc…。
 だが、人知れず白笛になったリコには未だ定着した呼び名がない。作中では子供卿やデコメガネ卿などとプルシュカから言われるが、結局の所はまだまだ暫定的である。
 そこで一つ私が候補としてあげたいのが小見出しの通り「枢機卿」である。枢機と謂えば、「枢機の輪」「枢機の姿」「枢機へ還す光」のようにメイドインアビスの中では度々登場する語である。噂によれば「枢機=アビス」と考察されているらしく、それを踏まえるならば「枢機卿」という名はアビスを踏破した者に与えられる称号としてピッタリなように思われる。
 また、現実世界にも枢機卿は存在していて、カトリック教会で教皇につぐ最高の行政職であるらしい。そういえば、レグとリコは蛇(ベニクチナワ)によって木の下で出逢うなど、なにやらキリスト教的に見える描写もある。
 メイドインアビスの考察はニーチェだけでなくキリスト教の面からも進めていくのが面白いかもしれない。
(このお話は英語の語源辞典で偶々目にはいった枢機卿という言葉から戯れに広げただけなので特に深い考察もなく仕舞いにする。)

まとめ ~その4のかわりに~

校長の長話みたいな

 ここでは今まで長ったらしく書いてきたことの総括として、得られた結論から、これからのメイドインアビスを大胆に予想する。もし、外れていたとしても皆様がエンタメとして楽しんでくれていれば、私にとっては十分な価値たりえるものである。是非最後まで見届けて戴きたい。

最終結論彼女

 私はメイドインアビスを考察するにあたって、二つのことを前提とし、そこから論理を展開した。以下の二つである。
・本作はニーチェの思想の影響を受けているとする。
・アビスを神様だと仮定する。
 まず、ニーチェとキリスト教の考えから、信仰対象であるアビスが人々の内に暗々裏に善悪の価値観を強いたと考えた。価値観を形づける説明として、一般に目に見えぬが力場の存在をアビス内に定義した。すると、成れ果て村の存在についても説明がついた。
 また、ニーチェの謂う没落を探窟家と重ねることで、彼らは贈り与え、来たるべき大穴を穿つ者のために積み重ねた者たちと考えた。つまり、メイドインアビスの最終目標は超人の創出になる。(没落する者と超人は概念的に異なる)
 次に、この超人は誰かという問いが生まれた。解は単純にリコとする。
 リコはアビスの底を見ることや、母に出逢うことに価値を置いてはいるが、それよりも冒険自体に価値を置いている。後者の冒険自体に価値を置くことは、前者における明確な唯一性や終端のある目標と異なり、永劫回帰にも耐えられる強固な目標である。また、冒険自体の新たな目標(価値)は己で決めていけることから、自ら回る輪と言える。
 最後に、アビスの七層にある「枢機の輪」は(永劫)回帰の円環である。物語の最終地点でリコは、この輪に対し人生をもう一度と望むことによって回帰が行われる。これが2000年問題の一つの解釈の仕方である。
 これらをアビス世界の時系列と結びつけ、太陽の比喩を用いて説明すると、以下の順序で時代がめぐる。
0.先住民によるアビス信仰が始まる
1.アビスに呪われたであろう奴らが発見され、黄金郷の存在が知られる
2.アビスを探し出し、没落を始める者たちが現れる(夜明け、1と2の間でもいいかもしれない)
3.没落は積み重ねとなり、超人の創出へと向かって行く
4.リコ誕生、冒険を始める
5.アビスの内部が明かされるにつれて、神としての価値が薄れていく。アビスの暴走でガイコツ乱造
6.大いなる正午によって、力場が消える(正午)
7.没落の終わり、黄金郷の現出(日没)
8.回帰を欲する
9.世界に夜が訪れる(力場が再び形成される)
→0に戻る
 これが私の暫定的な結論である。2000年の繰り返しを太陽の周期に重ね説明できたのではないかと思う。とはいえ祝福や呪いについて等、不完全なものも多い。
 ただ私も学校が始まり忙しい故、長文を書くのが大変になった。従って、一度打ち切りとする。また、物語が進み未知が明かされたときは考察を始めると思うので、そのときはよろしくお願いしたい。

最後に

 メイドインアビスの考察をするにあたって、今回はニーチェ哲学の側面からこじつけました。私なりに解説書やインターネットなどを見て解釈を進めましたが、なにしろ難しい言い回しが多く、言葉を捉え違っているかもしれません。情報の正確性を求めるならば実際に本を読むことをオススメします。

 考察にあたって参考にした書籍を紹介します。もし興味があれば本を手に取り、考察してみてください。私なりに読んだ感想も書いていますので参考にしていただけると幸いです。

「ツァラトゥストラかく語りき」/ニーチェ

ニーチェ自身の代表作です。

読んでみて:とにかく難しい。泉鏡花の作品くらい読みづらい。訳者によってそれぞれ癖があるので、評価をみて決めてください。kindleの試し読みで見た限りですが岩波文庫は文体が易しいと思います。私は金銭面でこちらを選びました。

「最強! 」のニーチェ入門/飲茶

読んでみて:平易な言葉で説明されていて分かり易い、とてもおすすめの一冊です。ここでニーチェの全体像を掴んでからツァラトゥストラを読むと理解しやすいと思います。

ニーチェ入門/竹田青嗣

読んでみて:高校入試の説明文くらいの難易度の本だと思います。先ほどの「最強のニーチェ入門」での理解を補強するのにとても役に立ちました。

史上最強の哲学入門/飲茶

読んでみて:哲学がどのように発展してきて、ニーチェがどのような立ち位置にいるのかを良く知ることができると思います。「ツァラトゥストラ」以外のニーチェの本(ニーチェの考え方が学べるが非常に難しい)を読もうとするなら、欲しい一冊です。

※私がここに書いたニーチェ思想に関しては、解釈による誤謬が存在するかもしれません。どうかその時は大目に見てください。また、解説書などでしっかりと概念を補填することを勧めます。
 あと、ニーチェの考え方はとても面白いので、全く関係なくても一読してみてはいかがでしょうか。

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