見出し画像

【考察】メイドインアビスとニーチェ哲学 その1

はじめに

みなさんはニーチェを知っていますか?

「名前を聞いたことがある」ぐらいの認識でも構いません。
ただインターネットに蔓延るみなさんなら、この言葉を知っているのではないでしょうか。

怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。

(ニーチェ 著・木場深定 訳「善悪の彼岸」岩波文庫 P138-139)

みなさんには「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の方が馴染みあるでしょう。
最早一種のネットミームとなっているこの言葉ですが、実はニーチェの言葉なのです。

さてここでメイドインアビスに目を向けてみましょう。注目すべきは一巻のライザの封書での文言です。

先程から じっと私を観察している
馬鹿め お前も私に見られているのだよ…

(つくしあきひと 著「メイドインアビス①」竹書房 P114)

なんだか先ほどの言葉を思い出しませんか。
因みに「深淵」は英語で「abyss」、即ちアビスです。
どうでしょう、気になってきましたか?

気になったなら私と共に深みへ進みましょう。好奇心に勝るものはありません。

ニーチェ哲学概説

序文

 敵を知るにはまず味方から、ということで、まずニーチェの哲学について解説することとする。とは言え、私も最近知った浅学の身であり、また文学に関して菲才であるため、解釈違いを起こしているかもしれない。従って、内容を鵜呑みにはしないよう注意していただきたい。
 また、特定の宗教に対して否定的な見方をするが、あくまでもニーチェの考えであり、私の所属する団体とは無関係であることをここに示す。
 出典ガバガバは許して。。

ニーチェ哲学の基本

 ニーチェの哲学の中の重要語として、まず「ニヒリズム」「末人」「永劫回帰」「超人」を挙げる。
 詳しくは、河出文庫から出ている『「最強!」のニーチェ入門 幸福になる哲学』が平易で分かりやすかったので興味があれば参考にして欲しい。

 前提としてニーチェはキリスト教と教えから生じた道徳的価値観などを批判した。
 道徳や価値などの「見えないし触れないもの」が絶対的なものではない(例えば日本では「いただきます」というのが善いとされているが世界ではそうではない)ことは明らかである。これらは地域や時代によって人間が生み出した非自然的なものである。しかし人間は道徳に反した時、自責の念に駆られる。このように「慣習的に押し付けられた非自然的なものに囚われて苦しむのをやめよう。」という主張をニーチェはしたのであって、「人を殺せ」と言ったとかそういうわけではない。

・ニヒリズム
 ニヒリズム(虚無主義)は、「既成の秩序や価値観を否定し、あらゆるものを無意味とする考え方。」である。
 さて、昔、キリスト教は深く信仰されていた。従って、「神様が人間をつくった。だから人間には生きる意味がある」と考えられていた。
 しかし、科学の発展と共に、地動説や進化論が唱えられ、またそれが科学的に正しいとされ、キリスト教は少しずつ信頼を落としていった。このまま時が進めば、キリスト教を信じなくなる時代が来るはずである。そうしたら「神は死んだ」も同然であり、「生きる意味」は無くなってしまう。
「生きる意味」が無くなってしまったら、何もかもが虚しいだけのニヒリズムに陥ってしまう。

・末人
 ニーチェは、「生きる意味」が無くなって、目標や夢もなくひたすらに時間を潰す人生を送る人間のことを「末人」と表現した。

・永劫回帰(永遠回帰)
 永劫回帰、即ち「始まりから終わりまでをずっと繰り返し続ける世界」はニーチェが考えた最悪の世界である。
 人生一度きりと考えると今この時間にも唯一性が生まれ、頑張らねばと思えるかもしれない。しかし、永劫回帰の世界では、頑張ってもいずれは元通りの状態に回帰してしまう。私たちはそこに「生きる意味」が見出せるだろうか。
 永劫回帰があるかどうかは別として、まさしく最悪の世界である。

・力への意志
 力への意志は強さを求める生物本来の欲求である。
 ニーチェは「今の自分を乗り越えて、より高みを目指したい」という意思を持ち、己で価値を作り出し、それに向かい生きていくことが重要であると考えた。

・超人
 超人とは「今この瞬間」を肯定できる人間のことである。
 永劫回帰の運命(人生に意味がない事)を真っ直ぐに受け入れて、それでも人生を肯定できる人間が超人であり、虚無主義の世界をも雄々しく生きていける。

 また、永劫回帰を乗り越えるためにニーチェは、その人生を肯定できる程のたった一つの出来事があればいい、と言っていることも注目したい。(ここの表現については後程)
 たった一つの出来事はなんでもいい。ただそれだけのためにもう一度人生を繰り返したいと思えられればなんでもいいのだ。
 因みに、肯定はニーチェの本で「|然り≪ヤー≫」と表記される。パワーにヤー……。もしや、なかやまきんに君もニーチェに影響を受けたのだろうか。

メイドインアビスとの関連

 ここまで語ってきてなんだが、まだ全てを貫くような理論は完成していない。ただ、暫定的ではあるが確信を持てる物を紹介していく。
 また、現在刊行されている10巻までの内容を知っている前提で記すのでネタバレには気を付けて欲しい。

お祈りガイコツと永劫回帰

 お祈りガイコツと言えば、アビスの探窟家が遭遇する奇妙な大量変死体群である。彼らは2000年ごとに大量製造されているらしく、それは六巻最後で明かされた。また五巻のボンドルドの発言から、祝福は次の二千年へ踏み入る準備であることが確認されている。呪いと祝福の考察は目下遂行中として、確実に世界が2000年ごとに回帰しているのは明らかだろう。
 ここで注意したいのはニーチェの永劫回帰はまるっきりそのままが繰り返されることで、メイドインアビスでの回帰はガイコツたちが地層のように存在していることから不完全な回帰ということである。しかしながら、このような可能性も指摘できる。作中で、アビスには二つの船(一層と三層)が取り込まれているが、これらが現存する過去のワズキャンたちの船であり、その他は壊れてしまったのかもしれない、と。

命を響く石と永劫回帰の克服

 命を響く石を加工したものが白笛である。命を響く石は誰かの犠牲なくしては成しえず、メイドインアビスの残酷さを改めて確認した読者も多いだろう。
 さて、ここで先ほどの永劫回帰を乗り越えるためのたった一つの出来事についての表現について、竹田青嗣 著の「ニーチェ入門」からの孫引きとなるが引用させていただく。

私たちの魂がたった一回だけでも、弦のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件づけるためには、全永遠が必要だったのであり——また全永遠は、私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである。

(ニーチェ 著・原佑 訳「権力への意志」)

 ここから分かるようにニーチェはたった一つの出来事を、魂のふるえ、と表現した。命を響く石はここから影響を受けたのではないだろうか。
 逆に考えればプルシュカはあの姿になっても、あの瞬間は幸福であり、回帰すらも然りとしたと言える。

成れ果てと末人

 メイドインアビスの既刊の大部分を占めるのが成れ果て村編である。六層にある成れ果て村には文字通り成れ果てた元探窟家たちが暮らしている。また、かつてナナチは自分自身を成れ果てと称した。
 さて、末人とは「生きる意味」が無くなって、目標や夢もなくひたすらに時間を潰す人生を送る人間のことであった。探窟家にとっての「生きる意味」は奈落の底を目指すことにあって、村に囚われた彼らにとってはその目標は結実しないものとなっている。まだ、奈落の底を夢見たとしていても彼らは誰一人として村からの脱出を試みている風が無かった。即ちそれは既に諦めの——虚無の中にあって末人となんら変わりはないのである。
 また、成れ果て村にとってリコが高い価値を持つ理由をこう考えることはできないだろうか。リコは「まだ冒険が出来る憧れの肉体」であると。彼らの意志がまだ奈落の底に少しでもあるならば、その肉体に羨望を抱き価値を見出すのは必然であろう。
 ここでニーチェの著書「ツァラトゥストラ」から成れ果ての一文を引用する。

 高潔なものは、新たなものを、新たな徳を創造しようとする。(略)
 ああ、わたしは知っている。自分の最高の希望を失った高潔なる者たちを。そのとき彼らは高い希望を誹謗する者に成れ果てた。
 そのとき彼らはつかの間の歓楽にのめり込んで厚顔無恥に生き、その日ぐらしに生きてそれ以上を目指すことをやめた。(略)
 かつては彼らも英雄たらんとした。いま蕩児となった。彼らにとって、英雄は恨みと恐れの的だ。

(ニーチェ 著・佐々木中 訳「ツァラトゥストラかく語りき」河出文庫 P71-72)

追記
この一説は、高潔な者がキリスト教に染まり成れ果てたと考えるのが妥当でした。
誤解を与えてしまい。申し訳ありません。

ガンジャ隊とツァラトゥストラ

 「ツァラトゥストラ」の中の「僧侶たちについて」にこんな一節がある。

 彼らは大海原をただよっていて、島に上陸したと信じた。だが見よ、それは眠り込んでいる怪物だったのだ。
 いつわりの価値。虚妄のことば。それは死すべき人間にとって最悪の怪物だ。——そのなかに災厄が、ながいあいだ眠り、待っていた。
 しかし災厄はついに来る。怪物は目を覚まし、みずからの上に小屋を建てて住んでいた者を、喰らい、飲み込む。

(ニーチェ 著・佐々木中 訳「ツァラトゥストラかく語りき」河出文庫 P71-72)

 どうだろうガンジャ隊の境遇と、また怪物をアビスとするとアビスに起きる異変と同じように捉えられないだろうか。
 ただしここでの怪物はキリスト教を、彼ら(僧侶)はキリスト教を信仰する者たちを、小屋は教会のことを指す。従って、ガンジャ隊は合致しないように感じる。
 ただ、アビスを信仰の対象とみる人たちが存在することから、彼らから見ればその限りではないようにも思える。アビスをどのように位置づけるかは要考察のポイントだろう。

リコと超人

 YouTubeを見るとリコをサイコパスと表現する方々がいる。一言でいえばそれまでだが、それを「力への意志」「超人」と関連付けて考察してみようではないか。

 まず、リコがアビスの底に向かう理由について。(遺物の籠で蘇ったことによる本能的な衝動はもう少し考えてからにしたい。)
 物語中でリコの欲求(理由)はこう変化する。まず、「母に追いつきたい」。次に「母に会いたい」。最後に「母と冒険がしたい」。これらは明確な意思表示があった——リコの口から語られた——。また、成れ果て村」最終段階の欲望の揺籃をリコに宿す計画が語られるシーンでは、ナナチが「リコだけが死に瀕した時にもう一度冒険をと叫ぶ」と評した。
 即ち、リコは深淵に眠る価値ではなく、冒険自体に価値を見出している。

 次に、皆がサイコパスと評する、リコがたまちゃんにやられて毒を受け、腕を切り落とせと頼むシーンについて。
 なぜサイコパスと評されるか。原因はリコの態度にある。レグはリコが苦しんだことに対して、あの時ああすれば、と己を責めた。だが、リコは冒険が続けられることの喜びに加え、レグを責める事も無く、ただひたすらに今を肯定する。この肯定こそがサイコパスの所以であり、道徳感情に反することからくる人間の潜在的恐怖なのである。

 最後に、10巻にてワズキャンの最後の言葉である。ながったらしいので一部略して引用する。

この大穴を穿つにはヒトを超えなければならない(略)積み重ねだけがヒトをヒト以上たらしめる(略)
今…その末端にいるのが君たちであり そして道を決めようとしているファプタだ(略)
叶わない夢より恐ろしいものが黄金の先で待つ…せめて夢を叶えて絶望しておくれ

(つくしあきひと 著「メイドインアビス⑩」竹書房)

 ニーチェ哲学において超人はヒトを超えた存在である。そしてニーチェの著書「ツァラトゥストラ」では、超人は一朝一夕では誕生しえない、まず人類は超人の創出をせねばならない、ことが語られる。例えば、結婚は二人の創造するものが、二人を超える創造するものを得ようとすることだと言う。
 従って、積み重ねこそが超人の創出の過程であり、現時点でもっとも超人に近しいのがリコさん隊だという訳だ。
 また、ワズキャンの言葉の最後の意味として、夢を叶えた絶望とは目標を達成し目標が無くなったニヒリズムのことを指す。だが、リコはその言葉に対して、それはない、と答える。なぜならばリコの目標は日々の冒険の中で打ち立てられるものであって、アビスの果ては一つの通過点でしかないからだ。

 これらのことを総括してリコは「力の意志」と「超人」を意識して描かれていると考えられる。

最後に

 タイトルに「その1」とつけたように、これが完成ではない。従って、さわりの部分を浅く記しただけに過ぎない。ただここから作品の新たな見方が生じることを祈るばかりである。
 あと、途中で私の文体が変化したことに関して違和感を生じさせたかもしれない。私にとってはこちらが扱いやすいため用いた次第である。
 最後に出典がガバガバだが、レポートじゃないので許していただきたい。本当に許して

追記
その2が出来ました。こちらはもっとしっかり考察しています。

https://note.com/opuct_ya/n/n654015065131

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?