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大宮盆栽村の変遷(4/4) ~まとめと今後~

大宮盆栽村の変遷シリーズ最終回です。
前回、前々回の記事では、個別の盆栽園の変遷を調べてみましたが、今回は盆栽村の全体像をまとめ直した上で、私見を述べます。

盆栽園は大戦で大幅に減り、その後は逓減中

盆栽園は最大で35園(1936年)あったとされていますが、1947年の「盆栽村春季陳列会」に参加した園は14園(+不参加の園もあったかもしれません)、1973年の『五十年のあゆみ』の時点で11園となっています。

このほかにもいくつか参考になる資料を基にグラフをつくりました。最初の記事でも書いたとおり、盆栽村の盆栽園の数え方は定義がまちまちなので、精緻な数字ではありません。

盆栽園の推移(独自調査)

最大35園から今は6園になったと聞いたときは、てっきり最近(昭和後期から平成にかけて)どんどん廃業が進んだのかと思っていましたが、戦後の時点ですでに半減していたというのは意外でした。戦後は逓減、なんとか持ちこたえているという感じでしょうか。

藤樹園の前に掲げられている地図には11園が掲載されている。『五十年のあゆみ』(1973年)の内容と一致。

戦後の開園は殆どない

『100年のあゆみ』の「歴史Map」には合計で36園の記載がありますが、9割近い31園が戦前・戦中の開園であり、戦後の開園は5園にとどまります。(一光園は1945年開園。開園月が不明だったため、戦後に分類)

一光園跡地(植竹幼稚園近く)

盆栽園は家業みたいなところがありますので、やはり新規参入者がいないと全体の数を維持するのは難しいと思います

余談ですが、奏デル盆栽は歴史Mapに載っていません。理由は不明です。

盆栽園の敷地面積は減少が続く

国土地理院の空中写真をベースにし、ゼンリン住宅地図を参考に敷地の変化を見ていきます。(一部推測です。ご容赦ください。)

1945年頃

戦争の混乱で多くの盆栽園が廃業したそうですが、それでも多くの緑が残されています。

1945~1950年撮影の国土地理院空中写真

1980年頃

右上の蔓青園、右下の九霞園など広大な敷地があります。

1979年撮影の国土地理院空中写真(1980年のゼンリン住宅地図を参考に盆栽園の敷地を反映)

1990年頃

蔓青園(右上)、芙蓉園(中央下)が小さくなっています。左下には苔香苑ができています。

1987年撮影の国土地理院空中写真(1991年のゼンリン住宅地図を参考に盆栽園の敷地を反映)

2000年頃

蔓青園、九霞園の面積が減少しています。九霞園の一部は盆栽緑地広場になっています。

2003年撮影の国土地理院空中写真(2000年のゼンリン住宅地図を参考に盆栽園の敷地を反映)

2015年頃

留芳園(左上)と寛楽園(中央)が閉園になっています。九霞園もさらに小さくなっています。苔香苑もなくなりました。

2015年撮影の国土地理院空中写真(同年のゼンリン住宅地図を参考に盆栽園の敷地を反映)

現在

現在の盆栽町です。青が1980年、赤が2020年の盆栽園ですが、かなり面積が減っていることが分かります。

最新のGoogleマップ(青が1980年、赤が2020年の盆栽園)

盆栽園の数だけでなく面積の減少も盆栽村としての雰囲気が損なわれていく原因の一つかと思います。
本当は面積を概算でも出したかったのですが、力不足でそこまでは至らず……。直感的には、1/3くらいでしょうか。

空中写真をスライドショーにしてみましたのでよければご覧ください。

盆栽村を存続・発展させるには

盆栽村の存続・発展のためには、盆栽園の数と面積の両方を維持していく必要があると思います。

さいたま市は盆栽園が減少している理由について、次のように説明しています。

盆栽業の停滞や盆栽園主の高齢化ライフスタイルの変化などにより、盆栽園の数は減少傾向にあります。

100年の歴史を持つ「大宮盆栽村」を次の世代に繋げたい!|ふるさと納税のガバメントクラウドファンディングは「ふるさとチョイス」 (furusato-tax.jp)

正直、クラウドファンディングとして資金を募るのであればもっと原因を分析してほしい気もしますが、こうした現状を踏まえた市の対策は以下のとおりです。

盆栽師の活躍の場の創出や、若い世代へのPRをすることが重要であると考えております。

100年の歴史を持つ「大宮盆栽村」を次の世代に繋げたい!|ふるさと納税のガバメントクラウドファンディングは「ふるさとチョイス」 (furusato-tax.jp)

どうでしょうか?無事、盆栽業界が盛り上がったとしても盆栽村の存続・発展には長い道のりになりそうです。盆栽師が活躍して若い世代に盆栽ファンが増えたとしても、盆栽村の盆栽園が残らなければ意味がありませんので。

また、盆栽園の面積については、クラウドファンディングの中では触れられていません。
各盆栽園も事情があるでしょうから難しいところかと思いますが、相続税や固定資産税などが課題で土地を手放さざるを得ないというような話が以前は出ていました。

さいたま市議会会議録(平成15年9月9日)抜粋
(関根信明市議)盆栽特区構想ないしは盆栽村、盆栽園にかかわる相続税、固定資産税の減免、優遇措置、補助金等、保存のための対策、盆栽村としてのさらなる発展を早急に検討いただければと考える次第です。
(さいたま市)基本的には、国において税金の免除、あるいは補助金交付についての特区については受け付けておりませんので、御提案の相続税の減免については大変難しいものと考えております。

さいたま市議会会議録検索システム

したがって、盆栽園が土地を手放さざるを得なくなった時に、市が買い上げ、新規参入者に提供(貸与?)するといった方法もあるのではないでしょうか。
また、盆栽園跡地だけでなく盆栽町内には活用の余地がありそうな公有地がありますので、こうした土地を活用して新規参入(開園)を促すような施策にも期待したいです。

たとえば、蔓青園出身の平尾成志氏(成勝園・西区西遊馬)や、最近話題のTRADMAN’S BONSAIが盆栽町に拠点を設けていたらどうなったでしょうか?(賛否両論ですかね??)
時代を遡れば、藤樹園出身の巨匠・木村正彦氏が伊奈町ではなく盆栽町に園を作っていたら……、銀座森前の森前誠二氏が羽生市ではなく盆栽町に雨竹亭を作っていたら……などと妄想してしまいます。

また、蔓青園の項でも書きましたが、都市計画道路(指扇宮ヶ谷塔線)が盆栽園にかかっていて市自らが土地を削りに行っています。市としてどのように考えているのでしょうか?かなり由々しき事態な気がします。

【再掲】さいたま市都市計画図(赤枠=蔓青園は筆者追記、黄色が指扇宮ヶ谷塔線)

活用できそうな公有地

活用の余地がありそうな公有地を挙げていきます。

OpenStreetMap

1.駐車場用地(寛楽園跡地)
寛楽園の項でも書きましたが、塩漬け状態です。盆栽村の中心、四季の家の近くという好立地ですが、個人的には駐車場にするというのはしっくりこないです。

駐車場用地

2.盆栽緑地広場(九霞園跡地)
九霞園の項で書いたとおり、広場としてはあまり活用されていない様子です。

盆栽緑地広場

3.森於菟邸跡地(大宮盆栽美術館敷地)
元々は森鴎外の息子である森於菟の家があった場所です。
余談ですが、同氏の著書、『解剖台に凭りて』を読むと当時の盆栽村の情景が浮かんできます。

各戸庭広く樹木茂り皆何何園という名称を持っていて盆栽花卉を育てているので家も人も清々しい。

解剖台に凭りて』(1934年)
森於菟邸跡地(無機質なフェンスで囲われています。)

その後、1990年代後半には大宮文学館を建設する構想がありましたが、さいたま市に合併してからはその構想はなくなり、今は大宮盆栽美術館の培養所として使われているようです。
2015年の「(仮称)盆栽アカデミー基本構想及び基本計画」では、盆栽アカデミーの用地として整備する予定だったようですが、その後動きはありません。

(仮称)盆栽アカデミー基本構想及び基本計画

4.さいたま市水道局 北部水道営業所(旧県南水道大宮営業所?)
盆栽美術館の計画時には候補地のひとつとして話題に上っていたようです。詳細はわかりませんでしたが、浄水場のような水道設備と直接関係する施設ではなく、単なる事務所のような感じであれば移転のハードルもそれほど高くないでしょうか?

さいたま市水道局 北部水道営業所

5.さいたま市立漫画会館
1965年築、1966年開館です。盆栽村に住んでいた北沢楽天の邸宅跡地だそうですが、老朽化も進んでそうなので例えば大宮門街に移転するとか……どうでしょうか。

さいたま市立漫画会館(地域の方が小さい盆栽を飾っています。いいですね。)

6.関東財務局官舎(大宮盆栽住宅)
平成19年に財務省が開催した「国有財産の有効活用に関する検討・フォローアップ有識者会議」による「国有財産の有効活用に関する報告書」では、大宮盆栽住宅は平成23年度以降に廃止予定となっていました。
その後方針転換されたのでしょうか?今のところ具体的な動きはないようですが、そう遠くない未来に建替えか廃止になると見込んでいます。民間に売り払われて味気ない分譲住宅になる未来は避けたいところです。

大宮盆栽住宅

7.自治人材開発センター(土呂町)
大宮盆栽美術館に隣接する公務員の研修所で、現在は彩の国さいたま人づくり広域連合の施設ですが、土地と建物は県の所有のようです。(参考:彩の国さいたま人づくり広域連合在り方検討会議第3回会議資料

彩の国さいたま人づくり広域連合 自治人材開発センター

ちなみに、盆栽村が生まれた頃には埼玉県種畜場があった場所です。(参考:『解剖台に凭りて』(森於菟))

盆栽村の冬は東京より寒い。私の新居は林に囲まれていて隣家に遠く、特に北方は廣く低地の田畠が開いて半町ほど向こうの丘には鶏や豚を飼う埼玉縣種畜場が見える。

『解剖台に凭りて』(1934年 森於菟)

2020年には大宮盆栽協同組合が「自治人材開発センター敷地を有効活用した盆栽関連施設の充実について」という要望書を県と市に提出しています。(残念ながら、要望書自体は見つけられませんでした。)
現時点では、敷地の東側に盆栽美術館を拡張したいと考えているようで、2022年に開催された令和4年度第1回さいたま市大宮盆栽美術館運営委員会では具体的なイメージまで提示されています。

新藤信夫市政ニュース(令和2年12月)
令和4年度第1回さいたま市大宮盆栽美術館運営委員会会議資料

私としては、想定されている拡張エリアだけでなく、研修所自体を移転してしまって土地全体を盆栽関係に活用するくらいやってしまってもいいのでは?と思います。建物自体も古そう(1960年~1970年代?)ですし、オンライン研修も普及してきているようなので、移転や廃止もあり得ない話ではないと思います。

その他空き家となっている住宅

分譲住宅は盆栽町の歴史と切っても切り離せない関係です。
分譲が始まった当初は自然環境の良さが強調され、何千坪単位の物件が売り出されていたそうですが、次第に比較的小さい宅地も登場してきたそうです。(2023年 大宮盆栽美術館 通常展「盆栽クロニクル-年代記-」展示から)
参考まで、戦前の新聞広告から一部抜粋します。

万人待望の大宮公園隣接の風致区・天与の保健郷!
「省線大宮 清大園 住宅地 短期 大分譲」
今回の大宮清大園こそは、実に理想的健康一等地にして而も東京上野へは省線でわずかに卅分の交通至便地であります。

1937年 郊外土地株式会社 新聞広告(『昭和の東京郊外住宅開発秘史』三浦展 著)

ただ、最近の分譲地は土地が細分化されすぎている印象があります。小さい分譲住宅などになる前に市が買い上げるとかできないでしょうか。

空き家になるよりは良いですが、緑が少なく小さい家が並ぶようになると盆栽町の雰囲気も損なわれてしまいます。

分譲住宅として売り出されている例 景観に配慮されてはいるようですが…
シートがかけられたままの空き地

まとめ

今回色々と調べてみましたが、大宮盆栽村の歴史に触れて、改めて盆栽村が存続・発展してほしいと感じました。
大宮盆栽村はさいたま市のみならず埼玉県としても唯一無二の貴重な財産だと思っています。私が挙げた方策には当然費用がかかりますが、さいたま市や埼玉県のイメージアップに繋がると思います。

余談ですが、もし最盛期の盆栽園の多くが残り、宅地化も今ほど進まず緑の多い環境が残っていたら、ひょっとしたら軽井沢のような町になっていたかも?などと妄想が膨らみます。(今でも稲荷神社近くの雑木林の前を通ると夏でも涼しい風が抜けていきます。ぜひ残してほしいです。)

現在、住民主体で「大宮盆栽村まちづくり協議会」が立ち上げられ、町の景観を残す活動が行われています。また、大宮盆栽美術館でも大宮盆栽村100周年に向けて盆栽村の歴史を調査しているようですので、その結果を楽しみに待ちたいと思います。

それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考:盆栽園と活用できそうな公有地等まとめ

盆栽園と活用できそうな公有地等

参考にした主な書籍等

  • ゼンリン住宅地図大宮市、さいたま市北区(1980年、1985年、1991年、1995年、2000年、2005年、2010年、2015年、2020年)

  • 国土地理院空中写真

  • 『大宮盆栽村五十年のあゆみ』(1973年 大宮盆栽組合)

  • 『盆栽村-大宮盆栽村開村80周年記念誌-』(2002年 野村路子 著)

  • 『大宮盆栽村の誕生-100年のあゆみ-』(2021年 さいたま市大宮盆栽美術館)

  • 『解剖台に凭りて』(1934年 森於菟 著)

  • 『加藤文子の奏デル盆栽ノート』(2004年 加藤文子 著)

  • 『大宮盆栽村クロニクル』(2008年 宮田一也 著)

  • 『昭和の東京郊外住宅開発秘史』(2022年 三浦展 著)

  • 雑誌『自然と盆栽』創刊号(1970年 三友社)

  • 盆栽町の形成過程と環境特性の持続要因』(2003年 増田圭吾、窪田陽一)

  • 大宮盆栽町における緑地構造と住民の意識(2007年 橋詰直道)

  • 九霞園ホームページ

  • さいたま市大宮盆栽美術館運営委員会ホームページ

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