見出し画像

大宮盆栽村の変遷(2/4) ~現存する盆栽園~

前回の記事では、大宮盆栽村にいくつ盆栽園が残っているのか簡単に調べてみました。

今回は現存するそれぞれの盆栽園の歴史を調べ、できるだけ敷地の変化について注目してまとめます。


今回の記事で登場する主な盆栽園

Open Street Map(盆栽園の位置は大まかです)

蔓青園(1925年~)

1925年に加藤留吉が開園。盆栽村移転の中心となった園の一つです。

蔓青園

ゼンリン住宅地図や国土地理院空中写真で確認すると、現在の敷地の裏手(北西側)まで盆栽園が広がっているようにみえます。『大宮盆栽村クロニクル』(2008年 宮田一也 著)によれば、「盆栽を見に下の畑に降りる」(1945年)との記述があり、この辺りを指していると思われます。
しかし、2000年から2010年頃にかけて大きく敷地が減少、分譲住宅やマンションに変貌しています。

蔓青園の敷地跡に建つマンション

また、都市計画図では敷地の真上を指扇宮ヶ谷塔線が走っており、このまま計画が進められると蔓青園だけでなく大宮盆栽村全体への影響が心配になります。
今のところ盆栽町内の用地取得はあまり進んでいない印象ですが、市の道路部門、文化部門、産業部門ではどういうスタンスなのでしょうか?さいたま市としてどう考えているのでしょうか?

さいたま市都市計画図(赤枠=蔓青園は筆者追記、黄色が指扇宮ヶ谷塔線)

参考:出身者など

浜野元介(藤樹園)、小笠原伸二(青風園・染谷地区)、金子昇(一青園・染谷地区)、最近では平尾成志(成勝園・西区西遊馬)らも蔓青園出身者。
九霞園(村田久造)の開園にも影響を与える。
親類には、加藤秀男(八雲蔓青園・染谷地区)、加藤文子(奏デル盆栽・盆栽町→那須)らがいる。

九霞園(1929年~)

1929年、盆栽村に転居してきた村田久造が、蔓青園に出入りするうちに盆栽に目覚め開園。吉田茂や西ドイツ大統領らも訪れた盆栽町を代表する園です。

九霞園

『大宮盆栽村クロニクル』では、「敷地は1200坪以上もあって、他の盆栽園に引けを取らないどころか、一番広いくらいだった」「茅葺きの四阿、茶室、そして園内を走る水路なども相まって、一種独特の芸術的な景観を作り上げていった」「九霞園は盆栽村の中にあって絶えず異彩を放ち続ける存在となった。」などの記述があります。

しかし、『盆栽村-大宮盆栽村開村80周年記念誌-』(2002年 野村路子 著。以下、「80周年記念誌」という。)では「事情があって、敷地は少なくなり。シンボルだった茅舎も池もなくなった」と記載されているとおり、現在ではその敷地はかなり小さくなっています。
ゼンリン住宅地図をみると、2000年時点で土地の一部が盆栽緑地広場(後述)(1,220 ㎡)となり、その後も戸建て住宅やアパートが建つなど年を追うごとに大幅に減少しています。

九霞園の敷地跡に建つ戸建て住宅

大宮盆栽美術館が行っている盆栽村の調査でも九霞園の資料が頼りになっているようで、盆栽村の発展になくてはならない盆栽園だったと思われます。現在では正直なところ存在感があまりなく、少し寂しい気持ちになります。

令和5年度 大宮盆栽美術館展覧会事業等について
4 調査研究活動
(1) 大宮盆栽村の開村 100 周年記念事業(R7 年度)に向けた調査研究
①村の歴史と文化について(資料調査、関係者ヒアリング、展示計画)
九霞園資料調査
R4 年度に所蔵資料の悉皆調査を概ね終了し、目録を作成(継続)。
8mm フィルムのデジタルデータ化を実施(新規)。
(以下略)

令和4年度第2回 さいたま市大宮盆栽美術館運営委員会

盆栽緑地広場について

盆栽緑地広場はさいたま市の公園だと思いますが、その名のとおり広場になっていて、特に遊具などはありません。
(仮称)盆栽アカデミー基本構想及び基本計画」(2015.5)によれば、「イベント開催時の臨時展示場を想定する」「盆栽公苑構想に基づき整備した計画当初の使い方に戻し、臨時的、一時的に使用することが望ましい」などの方針が示されていますが、その後も特にイベント等で使用されている様子はありません。
また、同計画によると「産業道路側からの夜間照明のため、盆栽の常設や栽培には不適」とされています。

盆栽緑地広場 盆栽園だった名残を感じます。
(仮称)盆栽アカデミー基本構想及び基本計画

藤樹園(1929年~)

1929年、蔓青園で修行した浜野元介が開園(※『大宮盆栽村の誕生-100年のあゆみ-』(2021年 さいたま市大宮盆栽美術館。以下、「100年のあゆみ」という。)では1928年、『大宮盆栽村クロニクル』では1931年)
1969年から一般の方向けの盆栽教室を開いていて、庶民派の盆栽園といった印象があります。今ではYouTubeの盆栽Qのメイン会場(?)のようになっていて、ご存じの方も多いかもしれません。

藤樹園

ゼンリン住宅地図等を見る限り、敷地の増減は確認できませんでした。
なお、1980年のゼンリン住宅地図ではすぐ近くに「清華盆栽園芸」があります。その後は、藤樹園と浜野歯科の駐車場となり、現在は浜野歯科専用の駐車場となっていますが、藤樹園との関係があるかはわかりませんでした。

浜野歯科医院専用駐車場

出身者

木村正彦、鈴木伸二、黒須輝夫(松雪園)らを輩出。

芙蓉園(1939年~)

1939年、内海華園で修行した竹山房造が開園。内海華園の内海源之丞が急逝したため、九霞園、蔓青園に出入りした後、独立して開園したもので、雑木盆栽で有名な盆栽園です。

芙蓉園

ゼンリン住宅地図等によれば1980年代後半に敷地がおよそ2/5程度減少し、跡地にはアパート(元々は社宅)が建っています。

余談ですが、以前は盆栽Qによく登場していましたが最近ではあまり見なくなりました。

芙蓉園の敷地跡(木の裏がアパート)

清香園(1943年~)

1943年、山田釜次郎が東京から移転(疎開)(1853年創業)。
想像ですが、他の盆栽園とは違ってやむを得ず移転してきたという感じでしょうか?

清香園

彩花盆栽教室を開催していますが、盆栽町の本校だけでなく、大宮そごう、そごう横浜、表参道、池袋東武、日本橋三越、新宿京王、千葉そごうでも教室を開いていて他の盆栽園とは異質な印象を受けます。
ゼンリン住宅地図等を見る限り、敷地の増減は確認できませんでした。

隣接する盆栽四季の家(1984年開設)はひょっとしたら元々清香園の敷地だったのかとも思いましたが、確認できた範囲では特段関係なさそうです。

盆栽四季の家

松濤園(1974年~)

1974年に小室覚太郎が「趣味を本業に」して開園(『80周年記念誌』では1970年開園)。比較的小規模な盆栽園です。

松濤園

1980年のゼンリン住宅地図では、かえで通りの南寄りに立地していて、藤樹園と同じくらいの敷地があったようです。(その後、この土地は「苔香苑」となり、現在は住宅となっています。)
大宮盆栽村のホームページでは「その昔、広大な敷地で盆栽園を営んでいた」と記載されており、この時期のことを指すと思われます。

松濤園があったと思われる場所(その後、苔香苑)

1991年のゼンリン住宅地図では、大宮公園駅前のカフェますや隣に「盆栽鉢松濤園」があり、ここに一度移転したようです。その後、1995年~2000年頃には現在の位置に移転しています。

『80周年記念誌』では他の盆栽園と同様に掲載されていますが、前回の記事に書いたように現在では盆栽村の盆栽園の数に含まないことが多いようです。

松雪園(1977年~)(北区東大成町)

1977年、藤樹園で修行した黒須輝夫が「盆栽村では土地を手に入れることが難しく」(『80周年記念誌』)、東大成町で開園。
盆栽町に所在していませんが、大宮盆栽のHPに記載されるなど、大宮盆栽村の盆栽園として数えられることが多いようです。

盆栽大野(1984年~)(見沼区片柳)

1984年、東京都杉並区から移転し開園。
『80周年記念誌』では、「染谷周辺の盆栽園」として掲載されていますが、住所は片柳です。
染谷周辺の盆栽園は、他に一青園、青風園、八雲蔓青園が掲載されているのですが、いずれも蔓青園の出身者による盆栽園(全部「青」がついていますね!)であり、染谷ではなく片柳である盆栽大野との繋がりはなんとなく薄い印象です。

大宮盆栽のHPなどには記載がありませんが、2024年大宮盆栽ウィークにおける100周年記念展示(@氷川神社)では他の盆栽園と並んで展示があったように、その区分の仕方はよくわかりません。(前回記事参照)

まとめ

盆栽町に位置する6園のうち、蔓青園、九霞園、芙蓉園、松濤園の4園で敷地面積が減少していました(特に九霞園の減少幅は大きいです)。

盆栽園の面積の減少は町全体のイメージにも影響があったのではと推察します。単に盆栽園を残すだけでなく、一定の面積を確保することも大事なのではないでしょうか。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

次の記事で現存しない盆栽園についてまとめた上で、さらにその次の記事では面積の変化を地図に落とし込むなどしてまとめてみたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?