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私の発言 武田 光夫氏 “汽水”には面白そうなテーマが集まる

電気通信大学 教授 武田 光夫


武田 光夫(たけだ・みつお) 1969年,電気通信大学 電気通信学部電波工学科卒業。1971年,東京大学 大学院工学系研究科物理工学専門課程修士課程修了,1974年,同博士課程修了(工学博士)。同年,日本学術振興会 奨励研究員。1975年,キヤノン(株)に入社し中央研究所と本社光学部に配属。1977年,電気通信大学電気通信学部講師。1980年,同助教授。1985年,当時の文部省長期在学研究員として米国スタンフォード大学 情報システム研究所客員研究員。1990年,電気通信学部教授に昇任。現在,大学院情報理工学研究科教授。専門分野は応用光学と情報光工学。現在の研究課題は,光応用計測や光情報処理,結像光学と画像処理など。応用物理学会理事や評議員,日本光学会幹事長,SPIE理事などを歴任。SPIE Dennis Gabor Awardや応用物理学会量子エレクトロニクス業績賞(宅間宏賞)など多数受賞。OSA Fellow, SPIE Fellow, 応用物理学会Fellow。

“電波”から“光”へ

聞き手:本日はよろしくお願いいたします。先生は,学部ご卒業の大学は現在のご所属と同じ電気通信大学ですね。電通大に入学されたキッカケは何だったのでしょうか?

武田:小学生のころの鉱石ラジオ作りから始まった遊びが,中学生のころにはアマチュア無線(JA1HXX)になり,自作の送信機と受信機を使った外国とのモールス交信に夢中になっているような“無線少年”でした。高校まであまりまじめに勉強しないまま,趣味の延長のようなかたちで電通大に入りました。

聞き手:大学での専門分野は何だったのですか?

武田:電通大のルーツである電波通信学科に入って,外国航路の無線通信士として世界を巡ることにも興味がありましたが,人生の大半を海上で過ごすことにはためらいがありました。そこで,電波の「運用」ではなく「技術」に重点を置く電波工学科を選びました。

聞き手:光とのかかわりはどのようにして生じたのでしょうか?

武田:当時,電通大には上級のアマチュア無線通信士免許を持っている,今でいう「オタク」の人たちがいっぱいいました。わたしもその中の一人として大学に入学したのですが,クラスの中にはもっとすごい「超オタク」が大勢いたわけです。自分より無線の知識やモールス通信技能に優れた友人たちに囲まれてだんだん自信を失い,「プロの無線技術士になる」という当初の意志がしぼんできました。その一方で,初めて接した大学の数学,物理,電磁気学などの基礎科目に面白さを感じ始めていました。当時の電通大でこれらの講義を担当された先生方が,驚くべき情熱をもって学生を教育してくれたからです。

無線少年時代に交信した外国のアマチュア無線局のQSL(交信)カード(中央の「JA1HXX」 というカードがわたしのコールサイン)

 高校までは趣味にはまっていてまじめに勉強しなかったので,電通大に来て初めて学ぶことの楽しさを知ったような気がします。例えば,中学生のころに送信機を自作していたので,7MHzの周波数を水晶振動子で発振させてC級増幅器で波形を歪ませると,14MHzや21MHzなど2倍,3倍の高調波が取り出せることや,送信機のタンクコイルに1ターンランプを近づけるとランプが今にも切れそうなほどキラキラ輝くことなどは体得していました。しかし,なぜそうなるか理解できないままに,それらの現象を利用していました。それが,フーリエ級数や電磁気学を学ぶことによって納得できるのが,手品の種明かしを見るようで面白かったのです。佐藤洋先生の電磁気学の講義には特に深い感銘を受け,他学科でしたが特別に願い出て,卒業研究の指導を受けさせていただきました。そして,だんだん所属する電波工学科の本流から外れて,物理学に関係した分野の大学院に進みたいと考えるようになりました。
 佐藤先生に進路をご相談したところ,「これからは光が面白そうです。“光”と“情報”が結びついてくるでしょう。東京大学の小瀬輝次先生(生産技術研究所)のところはどうでしょう」とおっしゃっていただきました。そこで,小瀬先生の研究室を受験することにしました。その時は光学のことは何も知らずに,とにかく尊敬する先生の助言に従って“電波”から“光”へ転向することにしました。佐藤先生は東京大学理学部の物理を卒業され,統計力学などをご専門とし,そこから情報理論などの情報分野に移られた方です。ですから,“物の科学”の物理と“事の科学”の情報の両方に通じた先生でした。その後,わたしが光(物の科学)と情報(事の科学)の交じり合う汽水を自らの居場所に定めることになったのは,今思えば,佐藤先生の黙示によるものなのかもしれませんね。

聞き手:初めて行く東大の大学院はどのような感じでしたか?

武田:わたしが大学を卒業した1969年は,まさに大学闘争のさなかでした。電通大でも機動隊導入があり,卒業式が無くてどさくさの中で卒研発表もせずに卒業してしまいした。進学した東大でも,安田講堂に学生たちが立てこもってそれが陥落するような状況です。東大の人たちは卒業が5月になり,進学した物理工学専攻には外部から来た人間はわたし一人しかいませんでした。4月からの2カ月間は授業も無く,研究室では先輩の有本昭さんが熱心に研究されている傍(かたわ)らで,することも無く毎日漫画を読んでいました。さすがにその時は小倉磐夫先生にしかられましたが(笑)。
 2カ月遅れで東大の学部から学生が進学してきてようやく授業が始まり,本郷の田中俊一研究室の石原聡さんや谷田貝豊彦さんとGoodmanやPapoulisの本の自主輪講を始めました。大学闘争の影響かどうか分かりませんが,翌年からは黒田和男さんや渡部俊太郎さんをはじめとする優秀な人たちが本郷から生研の小瀬・小倉研究室に多く進学してきて,研究室は大変活気に満ちていました。研究室の定例の火曜輪講会には,理化学研究所の斉藤弘義先生,早稲田大学の大頭仁先生,ニコンの靏田匡夫さんなど外部の著名な研究者や,ドイツから帰国したばかりの理研の山口一郎さんなど気鋭の若手の方が数多く参加され,熱心な議論を交わして大変刺激になりました。当時の小瀬・小倉研究室で知り合った方々には現在に至るまでいろいろとお世話になっています。

計算機ホログラムから結像評価へ

聞き手:大変失礼な言い方で恐縮ですが,進学当時は光学がご専門ではなかったのに,国内外で最先端の研究室に入られて,いろいろとご苦労があったのではありませんか?

武田:おっしゃる通り,当時のわたしは光学の知識が何もなく,電磁気学のマックスウェル方程式や電波伝播の波動方程式を知っている程度でした。その代わりに,情報系の計算機や信号処理などについては多少の知識があったので,その点は物理工学科の学生たちと違っていました。小瀬先生も当時,「武田に何をさせようか」と悩まれたのではないでしょうか。「君は計算機のことは知っているようなので,計算機ホログラムをやってみたら」とおっしゃって,わたしの修士論文のテーマは計算機ホログラムになりました。

聞き手:計算機ホログラムとは,どういったものでしょうか?

武田:光を干渉させて3次元画像を記録するのが普通のレーザーホログラムです。一方,計算機内部で物体を数値的に定義して,そこから出てくる波を計算し,さらに参照光も計算して干渉縞をコンピューター内で作るのが計算機ホログラムです。計算結果の干渉縞を当時はフィルムなどに記録して,それにレーザー光を当てると記録した物体を再現できます。また,さまざまな任意の波面を出すこともできます。Lohmann先生の論文を読んで,「これなら僕もできるだろう」と思って計算機ホログラムを作り始めました。

東大生研の実験室で友人たちと(左から千原正男,武田光夫,占部伸二,渡部俊太郎,久 保田敏弘,黒田和男,飯島俊幸[敬称略])

当時のコンピューターでは,たかだか64×64画素程度のホログラムを作るのにも大変時間がかかりました。ホログラムを米Calcomp Technology社(当時)の機械式プロッターでガリガリと描くのですが,計算機使用時間は1~2時間程度しかもらえないので描画が完成せず,縁だけ描かせて後は自分の手で塗りつぶすというような,文字通り「手作りホログラム」でした。しかし,指導してくださった助手の久保田敏弘さんや先輩の有本昭さんといっしょに,レーザー光を当てて意図した絵が出てくるのを見たときには「面白い!」と思いましたね。

聞き手:博士課程ではどのようなことをご研究されたのですか?

武田:計算機ホログラムの延長線で研究を続けられれば良かったのですが,当時はコンピューターの性能に限界があり,なかなかやりたいことが実現できませんでした。「計算機ホログラムの研究で果たして学位論文が書けるのか?」とずいぶん思い悩んだ時期でした。そのころ,小瀬先生は文部省の長期在外研究員で米国アリゾナ大学にいらっしゃっていて,博士1年のわたしと後輩の修士1年の鈴木章義さんは,先生の留守の間に研究テーマから研究計画まですべて自分自身で考えなければいけないという状況でした。2人で顔を合わせては一緒に悩んでいました。小瀬先生も心配されて,「必要なものがあるのなら言ってくれれば何とかするよ」とおっしゃってくださったのですが,結局,悩んだ末にテーマを変えることにしました。

聞き手:新しいテーマはどのようなテーマだったのですか?

武田:新しいテーマは,レンズの結像性能を評価することでした。OTF(Optical Transfer Function:光学伝達関数)やMTF(Modulation Transfer Function:OTFの絶対値)という概念で,今はほとんど日常的に使われていますが,当時はその測定器がアナログ方式からデジタル方式に変わる節目の時期でした。海外では正弦波格子を用いてアナログ的に検出していた方法に徐々にデジタル計算機による計測法が入ってきていました。わたしは通信の符号理論に基づいて設計した多重スリットを用いたデジタル方式によるOTF測定法の原理を考えました。
 しかし,その有効性を確かめるために試作機を作ろうと思っても,多重スリットの製作のための半導体露光装置と走査のための精密位置決め装置が必要で,とても大学で作れるものではありません。当時,キヤノン(株)の中央研究所では山口意颯男さんや小瀬研究室の先輩の朝枝剛さんたちがエッジスキャン方式のOTF測定装置を開発していました。小瀬先生がこれらの方にお願いしてくださり,その結果,博士課程の2年の後半から3年になる時に,大学に籍を置きながらキヤノンの中央研究所で部屋や装置を使わせてもらって実験するようになりました。今でいう学生の“インターンシップ”に近い感じですね。これらの研究者の方たちから指導を受けながら装置を作り実験をしたところ,考え通りの結果が出たので,それで学位論文を書きました。
 今になって考えると,修士課程の時にやっていた計算機ホログラムの研究を発展させることができなかったのは,当時のわたしの視野が狭かったからだと思っています。計算機ホログラムは今では非球面の検査など干渉計測に使う光学素子として広く用いられています。しかし,当時のわたしには計算機ホログラムを3次元画像のディスプレイ素子としてしか見ることができず,それ以外の応用があることに気がつきませんでした。アリゾナ大学のWyantさんや学生時代からの友人の谷田貝豊彦さんは,計算機ホログラムの非球面原器に利用する可能性に気付き,光計測への応用に成功しました。谷田貝さんは計算機ホログラムの優れた研究で学位論文を書いています。博士課程では,こうした経験を通じて自身の視野の狭さやペシミズムを反省し,少しですが研究者として成長することができました。

キヤノンで学んだこと

聞き手:学位を取られた後はいかがなされたのでしょうか?

武田:大学に就職しようと思っていたのですけれども,自分の好みと合うところがなく,日本学術振興会の特別研究員としてそのまま小瀬研究室で1年間,先生のテーマでMTFの効率の良い計算方法などをやらせていただきました。やり残していたことがその1年で整理でき,論文として発表できたので,今は大変良かったと思っています。

聞き手:翌年,キヤノンにご就職されていますね。

武田:日本学術振興会の特別研究員は2年間の任期で定職ではないので「今後どうしようか」と思っていた時, OTF測定機試作の際にお世話になったキヤノンの朝枝剛さんから「こちらに来ない?」と声をかけられました。小倉先生や小瀬先生から「光技術者は現場を知らないといけない」と言われていましたし,わたしも現場を一度見てみたいという思いがあったので「会社にいくのも良いのかもしれない」と考え,特別研究員の任期を1年残したまま,4月にキヤノンに入社させていただきました。

 当時は博士で入社する人はあまりいなくて,会社の人事の方もどう扱っていいのかよく分からないという状況でした。同期入社の桑山哲郎さんと新入社員の研修を受けました。普通,新人は工場実習を受けるのですが,わたしは中央研究所の松本和也さんの研究室に配属となり,“実習そのものが開発”ということになりました。そこでは,田中信義さんと机を並べて一緒に白色干渉膜厚計の開発をしました。通常の白色干渉計では試料との光路差補正を鏡の機械的移動で行うのですが,この干渉計は,ウォラストンプリズムで偏光波面にティルトを導入して光路差を空間座標に変換し,同時並列計測することによって可動部無しに膜の奥行き構造や膜厚を測定できるものです。現在のOCT (Optical Coherence Tomography)の先駆けとなる技術要素を多く含んでおり,当時としては実に先進的な技術だったと思います。
 「Canon Thickness Gauge」という製品名で商品化されたのですが,田中さんとわたし,松本さんの連名による一連の米国特許があるものの学会誌に掲載した論文が無いために,他の論文からほとんど引用されることはありませんでした。後に桑山哲郎さんがチームに加わり,Applied Opticsへの投稿を準備したようですが,忙しくて果たせなかったようです。この経験を通じて学んだのは,「学会で認知されるには,やはりしかるべき雑誌に論文として発表しなければだめだ」ということです。この開発で新人のわたしをリードしてくれた田中さんは,後にキヤノンの専務になられました。光学とエレクトロニクスの両方に通じた大変柔軟な思考の持ち主で,リコーダーやフルートなどにも堪能だった田中さんからは,技術のほかにもいろいろなことを学びました。

聞き手:その部署には長くご在籍されたのですか?

武田:いえ,ある意味,“仮配属”のようなものです。よく覚えていませんが半年くらいだったかと思います。期間こそ大変短いのですが,密度の極めて高い期間でした。その後,“本配属”を決める際には,現場のことを学びたいと思って,レンズ設計の部署を希望しました。「光学部」という光関係の人たちを集めた大きなグループがあり,そこに配属していただきました。

聞き手:配属先ではどのようなことをされたのですか?

武田:カメラレンズ以外の特殊レンズを設計する光学第二設計室に配属になりました。そこで多くの優れた光学設計者の方から学ぶことになり,一流の光学設計者における個性の多様さを知りました。
 わたしは,上司の松居吉哉さんの名著「レンズ設計法」(共立出版)を何度も読み,簡潔にして論理明快,誤りの無い式,読みやすい透明な文章などに深く感銘を覚えました。この本には当時,自分でフォローした式チェックのメモや書き込みがいっぱいで,装丁も崩れてしまっていますが,今でも大切に持っています。こうした論理構成のしっかりした光学設計論は,大学で長い時を過ごした私にとっては大変心地よく受け入れやすいものでした。

キヤノンの白色干渉膜厚計(Canon Thickness Gauge TM-230)

 一方,配属先では,直ちに製品として所定の性能仕様を満たすレンズ設計が求められていました。ラケットを握ったことの無い者が優れたテニスの教則本を読んだだけで,いきなりコートで試合をさせられるようなものです。コートで立ちすくんでいたわたしに実戦的試合の訓練と指導をしてくださったのが武士邦雄さんでした。素人のわたしが設計に行き詰まると,光路図や収差曲線を見て「次の一手」を教えてくれました。言われた通りにやると確かに新しい良い解が見つかります。「なぜこの一手なのですか?」とたずねると,「自分で考えろ!」と言って笑っているだけ。
 プロの棋士は次の一手を盤上の石の形で直観的に判断するといいます。武士さんのようなトップクラスの設計者は,光路図から良い解を直観的に見抜くことができるのだと思いました。それは口では説明し難い,ある種の美的感覚に基づくものではないかと感じました。確かに光路図の美しいレンズは性能が良く,公差も緩いのです。光学設計には,知性に基づく論理的思考と,感性に基づく芸術的直感の両方が必要なのだと悟りました。後に武士さんはすばる望遠鏡の主焦点レンズを設計し,その素晴らしい性能が日本の天文学に大きな研究成果をもたらしました。
 松居さんや武士さんのような卓越した光学設計者に師事することができたにもかかわらず,わたしは一人前の光学設計者になれないまま,キヤノンを去ることになりました。恩師の佐藤洋先生から専任講師として電通大に戻るようお誘いをいただいたからです。わたしとしては,いろいろ学ばせていただいただけで,少しも貢献せずに会社を去ることが大変申し訳なく思えました。2年間という短い期間でしたが,キヤノンに勤めたことは,わたしの技術者としてのものの見方や考え方に大きな変化を与えてくれた,大変貴重な経験でした。

“物の科学”と“事の科学”の間で

聞き手:大学にお戻りになって,どの学科にご所属されたのですか?

武田:所属は電波通信学科で,そこで電磁気学を教えることになりました。学科が昔の趣味の世界に近い“電波通信”なので,結像理論や光学設計をテーマにしてもなかなか学生は研究室を志望してくれません。一方で,情報系の科目の信号処理や画像処理については勉強している学生が多いので,光と情報を融合した研究テーマにしようと考えました。

スタンフォード大学滞在中に間借りしていた家

当時は光コンピューティングの研究の興隆期でしたので,「光計測」と「光情報処理」をキーワードにして,そちらに軸足を移すことにしました。そうすると,学生たちが研究室に集まるようになり,後のスタイルがそこで確立していきました。最初の大学院生だった稲秀樹君や小林誠司君と一緒にフーリエ変換縞解析法の研究を開始したのはこのころです。恩師の佐藤先生は電通大に電子計算機学科という学科を新設されて,計算機科学の分野の輪講会を開いていました。わたしもその輪講会に参加して,チューリングマシン,グラフや計算量理論,巡回セールスマン問題,ナップザック問題などの組み合わせ最適化問題という計算機科学を学び始め,“情報”の重みが増えていきました。

聞き手:海外でのご活動もあったと聞きましたが。

武田:もちろん海外の学会誌に論文を出していましたが,当時は1ドルが270円の時代で,今のように気軽に国際会議に出席できる時代ではありませんでした。わたしは無線少年時代から外国に興味を持っていたので,学生時代に名著「Introduction to Fourier Optics」で学んだ米国スタンフォード大学のJoseph W. Goodman先生のところで研究してみたいと思って,当時の文部省の長期在外研究員派遣制度に応募しました。運よく採択され,1985年の早春にスタンフォード大のGoodman先生のグループに加わることになりました。

聞き手:スタンフォード大ではどのようなご研究をされたのですか?

武田:当時は光コンピューティングやニューラルネットワークなどがブームになっていました。わたしはGoodman先生から,HopfieldとTankが巡回セールスマン問題をニューラルネットで解いたという論文を手渡されて,興味を持ちました。もちろん近似解です。論文を読んで原理はすぐに理解できました。佐藤先生の輪講会で得た知識からすぐに他の組み合わせ最適化問題への応用を思いつき,ヒッチコック問題などの輸送問題への解法を見いだし,論文として発表しました。また,ニューラルネットを光学的に実装するための光インターコネクションについても研究しました。こうした情報系の“事の科学”を研究する一方で,物理系の“物の科学”ではGoodman先生の統計光学の講義を取りました。テキストに使われた先生の「Statistical Optics」という本を通読し,いろいろ学ぶところが多かったので,帰国後に「グッドマン統計光学」という翻訳書を丸善から出版しました。

インタビューは苦手です

聞き手:学会関連でもご活躍されたと聞きますが,おかかわりはどのようなものだったのでしょうか?

武田:学会活動としては,課せられた役は逃げずに一応はやってきたつもりです。しかし,マネージメントはあまり得意ではありません。人の上に立ってリーダーとして何かやるのではなく,例えて言えば監督よりは選手の役が好きなタイプですね。職場でも同じような状況で,職務上,学科長なども勤めましたが,「長」の付くような役どころはあまり好きではありません。

聞き手:日本光学会の幹事長などを歴任されて,多くの成果とともに相当なお時間も使われたと思いますが。

武田:確かに引き受けた以上は責任を感じ,多くの時間をそのために使いました。自分で言うのも変ですが,わたしは比較的まじめに誠実に取り組んできたと思っています。しかし,非常に不器用で,マルチタスクを上手にこなせる人間ではありません。一つ仕事を引き受けてしまうと,その期間中だけは周りに迷惑をかけないように一生懸命やろうとするので,本人も疲れるし,サポートしてくださる周囲の方をも疲れさせて,ご迷惑をおかけしてしまっているのかもしれません。この3月で日本光学会の幹事長の任期が終わりますので,ようやくホッとできるのではないかと思います。

聞き手: お気持ちがよく分かるような気がします。

武田:どうも,自分の良くない性格の告白話のようになってしまってすみません。今日はかなりがんばってインタビューにお答えしていますが,実はこういうインタビューなどで雑誌に掲載されるのは苦手です(笑)。特に困るのは,読者のために“成功談”を語ることが期待されているようなインタビューです。自分では「それほど成功していないのに……」,「まだマズいところだらけなのに……」との思いが常にあるので,それを正直に話せないと苦しくなり,途中で逃げ出したくなるからです。まさか,このインタビューではそのような“成功談願望”の心配はないのでしょうね(笑)。
大学では基礎教育が大切

聞き手:最近の学生について何かご感想はありますか?

武田:わたしはこれまでずっと情報系の学科に所属してきて,光学のような自然法則に従う“物の科学”と情報やコンピューターなどの“事の科学”の交じり合う世界を住み場所にして,学生たちにはそれらを融合した光計測や光情報処理を研究テーマとして与えていました。わたしの研究室の卒研では,成績の良い順に学生を採ることはせず,面接して面白い学生を採っていました。このため,わたしには無いいろいろな能力と個性を持った学生と出会え,彼らから学ぶことが多くあり,楽しかった思い出がたくさんあります。学生のことで深刻に悩んだり苦しんだことはあまりありません。彼らの若いパワーのおかげでいろいろな研究ができたので感謝しています。研究ではペシミスティックですが,学生については案外オプティミスティックです(笑)。

聞き手:大学における光学教育の現状はいかがでしょうか? 企業内教育が主体になっていると聞きましたが。

武田:すでに確立した技術の継承を目的とする専門性の高い光学教育については,社内教育にゆだねるのは,ある意味,やむを得ないことだと思います。光学教育に力を入れることを特色とする宇都宮大学などの少数の大学以外では,幾何光学や光学設計をちゃんと教えているところは無いでしょう。大学の研究の場合は,これから生まれてくる夢のある未知の技術や萌芽(ほうが)的な技術に期待が集まりますから,研究予算もそういうところに集まります。幼い嬰児(みどりご)には未来の夢を託して乳をやり,大人になったらお小遣いをあげないのは,世の道理です。

 一方,大学の教育は教室の授業だけではありません。大学院では,教育の主要な部分が学生の所属する研究室での修論や博論の研究を通じて行われ,その際に学生の研究テーマは指導教員の獲得した研究予算のテーマに連動します。このようなわけで,技術の継承がどんなに重要な分野であっても,研究費を獲得しにくい成熟した技術分野からは教員が離れていきますので,その教育を大学で行うのは難しくなってしまいます。
 ですから,光学設計や光学加工の分野の非常にレベルの高い技術は企業の中で蓄積と継承が行われていて,大学には存在していません。しかし,「成熟した技術」を「成長が止まった技術」と考えるのは誤りだと思います。生きている産業を支える技術は,成熟してもなお常に進化を続けています。半導体のリソグラフィー技術などはその典型です。高度な複合技術の中にあらゆる新技術の要素が入っていて,生命力のある古木からは新芽が芽吹いてきます。そのような新芽に気付き大事に育てるのは,企業の現場における実践的な教育の役割が大きいと思います。
 一方,大学の講義ではあまり流行に流されずに,新しい分野と成熟した分野双方の基礎となる物理や数学,工学の基礎科目に重点を置いて,学生には基礎をきっちり理解させて卒業させていくのが良いのではないでしょうか。

聞き手:アメリカでは昔からアリゾナ大学などが光学教育・研究の拠点になっていますね。

武田:そうですね。アメリカではアリゾナ大学,ロチェスター大学,セントラルフロリダ大学などいくつかの強力な光の拠点が存在しています。日本ではこれまで光分野の活動が比較的分散していましたが,最近,大阪大学や宇都宮大学などに特色のある光の研究教育拠点が新たに生まれてきていています。これらについては,将来の発展が楽しみです。

聞き手:若い人たちに向けて何かお言葉をちょうだいできますでしょうか。

武田:わたしは,自分のやっていることにあまり自信を持てないタイプで,その都度,迷ったり悩んだりしながら進んできたので,若い人に「こうすると良い」などと言えるほどのことはありません。ただ,わたし自身のことを振り返ってみると,学部の時に専攻していたことと大学院の専攻が違っていたことはとても良かったと思っています。学部では電気や通信を勉強し,大学院では光を中心とする応用物理を学びました。“double major”という言葉があるようですが,あまり一つの専門にとらわれなくても良いのではないかと思います。
 川から流れてきた真水が海の塩水と混じり合う“汽水”の領域ではいろいろな魚が多くいるのと同じように,分野の混じり合っているところには面白そうなテーマが多数あるように思えます。一つの道でうまくいかなくても,別のところにチャンスがあるかもしれないので,あまり分野を狭く考えない方がいいのではないかと思ってこれまでやってきました。しかし,若い人にわたしのように汽水を好む“ダボハゼ研究者”になる道を勧めて良いのかどうか,物理一筋や情報一筋の世界を経験していないのでなんとも言えないところがあります(笑)。

聞き手:本日は興味深く楽しいお話を聞かせていただき,ありがとうございました。

(OplusE 2012年4月号(第389号),肩書などの情報は掲載当時のものです)


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