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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第11回 キルギスにて

 初めてキルギスを訪れたのは,2001年国際光学シンポジウムに出席のためであった。これまでまったく縁のないエリアであったが,1991年のソ連崩壊後のキルギス(キルギス共和国)には興味がわいた。辻内順平先生から「旧知の光学研究者(アスカル・アカエフ氏)が,独立後初代大統領になりましてね。それに風貌がまるで日本人みたいでして。」という情報を耳にしたからだ。いつか機会があったら一度訪ね,アカエフ氏に会ってみたいものだと思った。それから10年も過ぎたころ,土肥寿秀氏(コニカミノルタ(株)退職後,OptiWorks(株)主宰)から,9月はじめにキルギスで国際光学シンポジウムが開催されるので,ぜひ石井のホログラフィーアートを現地に紹介したいという誘いが舞い込んだ。同氏はそれまでもキルギスを何度か訪れ,この国に造詣の深い人である。キルギスと聞いて,まずアカエフ氏のことが思い浮かんだ。10年も経ているので,もう座を退いているに違いないと思いながらも調べたところ,なんと三選を果たしてまだ現役の大統領であった。光学の国際会議なので,会える機会があるかもしれない。光学研究者たちにホログラフィーのアートへの応用を紹介する良い機会でもあると考え,出席することにした。
 展示のために,大型のレインボウホログラム草原シリーズ(130 cm×110 cm)2枚(図1)と180 cm×110 cm 1枚(図2)をフィルムのままロールにして,直径10 cm,長さ120 cmの筒に入れ,肩に担いで運ぶことにした。このほかに,野外インスタレーション(図3)用のホログラムグレーティングのオブジェ(直径25 cm,高さ45~55 cm)6~7点も,現地で組み立てられるように素材を持って出かけた。アクリル,照明機材は現地調達である。黒く長い筒を背負った私の姿は,まさか武器を運んでいるようには見えまいが,かなり奇妙な風采に見えたに違いない。

図1. 「草原から」 連作2点
図2 水の波紋と組み合わせたインスタレーション
図3 水上の野外インスタレーション「太陽の贈り物シリーズ」
参考画像「メビウスの卵展」小布施総合公園より

そっくり!

 キルギスは天山山脈の北側,北はカザフスタン,南は新疆ウイグル自治区に隣接した,人口600万強,日本の国土の半分という国である。首都ビシュケクへは日本からはモスクワ経由の便となった。ここへは東京から東に9時間半,接続の悪い待ち時間の後,再び西に4時間戻るという,何とも無駄の多い航路の長旅であった。やっとビシュケクの空港に着いた時は深夜であった。はるばる異国の地にたどり着いたと思ったのは束の間,周りの人々を見て唖然として自分の目を疑った。まるで日本国内のどこかの地方空港に着いたような錯覚を覚えたのだ。周囲は日本人と見まがう顔立ちの人々がいっぱい! この時,周りの人々の視線を感じた。顔立ちは違わないのに明らかにいでたちの異なる我々を,彼らはいぶかしげにジロジロと見ていたのだ。アジアの国々で時々見かける日本人“そっくりさん”が,ここではそこかしこに満ち溢れていた。

星屑

 出迎えを受けて,空港から宿に車で移動。道中はほとんど明かりもない暗い夜道を走る。疲れ切った頭でぼんやりと窓の外に目をやって驚いた。キラキラ輝く満天の星が目に飛び込んできた。星屑とはよく言ったものである。今まで見たことのない密度で星の塵が夜空いっぱいに輝き,自分はその空間の中をただよっているような気分になった。星屑は手を伸ばせはすぐ掴めるようだった。

ハードワーク

 翌日,朝から,次の日のオープニングのために担いで行ったホログラムの展示準備にとりかかる。まず,アクリル工場と照明器具の買い出し。市場に行くと,どれもこれもMade in Chinaだった。日用品を含めほとんどの物品が,中国からの輸入で賄われていた。アクリル工場では,建物内に入るだけで,パスポートの提出を求められた。まるで企業秘密が盗まれては困るといった体である。素材がそろい設営に取り掛かった時には,午後も遅くなっていた。
 ホログラムの設営には時間がかかるのが常だ。とにかく本日中に完成させねばならない。照明工事の電気工はここでは珍しく片言の英語を話した。本人の口から自分はジューイッシュ(ユダヤ教徒)で,いろいろな土地で仕事をしていると話していた。キルギスも多民族の国であることに気づかされた。設営作業は土肥氏をはじめ会議に出席の研究者を巻き込んで深夜までかかった(図4)。これ以降,「石井につきあうと徹夜作業につきあわされる」といううわさが流れているらしい(笑)。
 作業は不自由な英語でコミュニケーションをとりながら進めた。ところが,夜も遅くなり疲れてくると,私はいつの間にか無意識に日本語をしゃべっていたらしく,たびたび注意され笑われた。疲労がたまると不自由な外国語で話すのはしんどい。日本人そっくりの人々と働いているうちに,ふと外国にいることを忘れ,無意識に日本にいると錯覚して日本語をしゃべっていた自分に笑ってしまった。深夜作業が終わり,夕食を取りそびれたことに気づいて,食べ物を求めて外に出た。しかし,レストランも店も何も見つけることができず,キルギス初日は空腹のまま就寝に着く羽目となった。
 翌日オープニングで予期した通り,大統領のアカエフ氏が出席した(図5)。あいさつに,「日本は日(ひ)出国(いずるくに)であり,キルギスは中央アジアの中で,地理的に日本に最も近い国である。これからもっと日本との交流を深めていきたい。そして将来キルギスを中央アジアにおけるサテライトオフィスの役割を果たすような国にしたい」と述べていたことが印象に残った。その後,私は展示したホログラムを紹介し,一緒に撮った記念写真は貴重な思い出である。

図4 レインボウホログラム展示風景
図5 アカエフ大統領(左)とデニシューク氏

イシク・クル湖

 大型ホログラムの展示は1日限りで大急ぎで撤去し,国際会議のメイン会場は,ビシュケクからバスで半日移動したイシク・クル湖に移った。標高1600 m東西200 kmに広がる,琵琶湖の9倍の広さのこの内陸湖は,塩分を含んでいるため,冬も凍らないという。湖畔の景色は,まるで海岸の砂浜のようであった。旧ソ連時代の幹部の別荘地があり,外国人の立ち入りが長く禁止されていたため,「幻の湖」と言われていたと聞く。会場はその特別地区の一角にあった。宮殿のような建物こそないが,ホテルやコンベンションホールなどの施設があり,周囲はベルサイユ宮殿の庭を模したという,植生こそ異なるが幾何形体に整えられた植栽と幾何模様にデザインされた庭園が広がっていた。面白いことに,植栽の一部には花や果実をつける木が植えられていた。
 講演会は翌日から2日間なので,到着早々,私は水に浮かべる屋外用のオブジェ(太陽の贈り物シリーズ)の組み立てにかかった。2時間ほどで完成し,インスタレーションの設置場所を選び,翌朝,実際の太陽の下で設置することとして,この日の作業は終了した。
 会議参加者はキルギスの研究者のほか,ロシアのサンクトペテルブルクからデニシューク,ノボシベリスクの大学や,隣国のカザフスタン,ウズベキスタンなどの研究者たちが参加していた。発表の言語は英語だけでなく,6割以上がロシア語であったことは少し残念であった。
 この日は参加者全員による晩さん会が催され,その後は宿泊するホテルの前に広がるイシク・クル湖のプライベートビーチに皆で出かけた。月明かりで私のホロのオブジェをぜひ見てみたい,できれば湖に浮かべて見てはどうかなどと話が勝手に盛り上がって,それではということで,私は完成したオブジェ2個を貸し出すことにした。砂浜では二次会の宴会を始めるグループ,夜風に吹かれ砂浜に寝そべる者,湖で泳ぐ者など,それぞれ自由な時を過ごした。参加者2人が各自ホログラムのオブジェを持って湖に泳ぎに出ていった。我々のいる湖畔からは月の位置は逆光となり,月光を反射するオブジェを見ることはできない。泳いで湖に出た者だけがそれを体験できるのである。
 私は昨夜の星屑の体験を思いながら砂浜に寝そべって,360度広がる満天の星空をながめていた。そこには天の川が大河のように横たわっていた。夜もだいぶん更けたころ,そろそろホテルに戻ろうと,オブジェを探して周囲を見渡した。ところが,泳いで出た人たちはすぐ見つかったが,オブジェが見当たらない。持って出たホログラムはどうしたのかと1人に問いただすと,まったく悪びれもせず,「湖に浮かべたまま泳いでいたら,気がついたらどこかに流されてしまった」と言う。なんですって! 耳を疑った。あれは私のアート作品だ。どこかに流されてしまったとは何事か! それもビーチに戻ってきてすぐに私にそれを報告しゴメンナサイと謝るでもなく,問いただすまで知らんぷりとは・・・。もう1人もまったく同じ過ちを犯し,その後の態度もまったく同様なことに,とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。「あなた方は人から物を借りて,なくしても謝るでもなく,そのうえ知らぬ顔の態度はあきれて言葉もない。あなた方はアートとアーティストをまったくレスペクトせず理解もしていない」と,流ちょうではない英語で,彼らを皆の前で非難した。それでものらりくらりの彼らの態度からは,ゴメンナサイの一言も返ってこなかった。埒もあかないのでとにかく部屋に戻ろうと, 1人で歩き出した。敷地内であるから,ビーチから宿までは目と鼻の先であるが,その時,さりげなく参加者の1人が,エスコートのつもりか,一緒に宿の方に歩き出した。ウズベキスタンかカザフスタンからの参加者で,英語をまったく話せない人であったが,私の怒りの原因を理解していたことは顔の表情でわかった。予期せぬ優しい心づかいに,私の怒りも少しおさまった。
 翌朝,ホテルでの朝食で,会議に参加する女性研究者たちが,片隅の1つのテーブルに皆固まっていっしょに食事をしているのが,私の目に留まった。私もその席にまぜてもらうことにした。女性同士まとまりやすく,少し遠慮がちな態度は,欧米の女性たちの振る舞いに比べ,ひと昔前の日本人のそれに似た感性を感じた。私は昨夜あった出来事を話したら,彼女たちも一緒になって憤慨してくれた。昨夜の出来事(私への態度)は,女性の社会的地位とも関連があるのかな?とうがった考えが浮かんだ。

風のいたずら

 講演会が始まる前,数の少なくなったホログラムのオブジェを,予定していた小さな人工池に設置作業していた時のことだ(図6)。天気は快晴,グレーティングは鮮やかな虹色に分光していた。突然,ネイティブな英語で「これはホログラムですね」と話しかけてきた若者がいた。私は予期せぬ観客に驚き,少しうれしくなった。聞くと,アメリカから宣教師として,キルギスにファミリーでやってきて,ちょうど今休暇でイシク・クル湖に来たのだという。私は,このインスタレーションは,本来はもっと数が多い予定だったが,昨夜2個が湖に流され失くしてしまったことを話した。
 講演会が始まっても,昨日の件で気分がおさまらない私は,関係した人物たちにまったく無視する行動をとっていた。ところが,最初のコーヒーブレイクの時,問題の彼らが近づいてきて,昨日は申し訳なかったと詫びを入れてきた。言いわけは,酒に少々酔っていたので失礼したというのだ。いずれにしてもホログラムはあの広い湖のどこかに流されてしまったことに変わりはないが,一応一件落着とすることした。
 ところが,このオブジェについてはまだ続きのストーリーがあった。
 この日の午後はエクスカーションで,湖を船で観光することになった。昼過ぎ,集合場所の船着き場に向かう途中,私は砂浜に広げられたあるパラソルの下に,太陽光で色鮮やかに輝くオブジェが置かれているのを発見した。急いで近づき,パラソルの中で休んでいた見知らぬ女性に声をかけた。その人は,今朝,作品を設置している時に話しかけてきた宣教師のファミリーで,ボートで湖に出たらこのオブジェを発見し,回収してここに保管していたのだという。こんなこともあるものだと驚いた。
 そして,観光船でツアーが始まった(図7)。20 mを越えるという深い透明度の水の美しさを私は堪能していた。陸から離れしばらくして,湖底が見えなくなるころ,初めて視線をあげて湖の周囲の風景に目をやった。すると,鮮やかな色彩の光が突然目に飛び込んできた。湖畔に打ち上げられたオブジェが,太陽の下で輝いているではないか! つまり,流されたはずの2個のオブジェは両方とも,その翌日,無事に私の手元に戻ってきたのだった。こんな結末になろうとは誰が想像できたであろう? 夜間は対岸に向かって吹く風に流されたオブジェが,翌朝は此方の湖畔に向かう風に押し戻され帰ってきたのである。イシク・クル湖の風に翻弄された,忘れがたい出来事であった。
 キルギスでは,人々も自然も実にインパクトのある体験であった。そして,またいつか訪れたいと思った。
 帰路もモスクワ経由。成田到着予定は早朝であったが,運悪く空港は台風に見舞われていた。幸い無事に着陸したものの,電車のアクセスが不通で,数時間エアポートで足止めされた。やっと家にたどり着いたときには,すでに夕刻になっていた。その夜,ホッと一息して久しぶりのテレビをぼんやりと眺めていた時,突然,あのNYの貿易センタービルの衝撃映像に切り替わった。2001年9月11日,キルギスから戻った日は忘れられない日となった。その後,イスラム文化圏への旅は足が遠のき,再びこの国を訪れるのは,それから10年以上も経た後となった。

図6 インスタレーションの設置を手伝ってくれた女性研究者たち
図7  イシク・クル湖の船上にて

(OplusE 2019年9・10月号(第469号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
ご所属などは掲載当時の情報です)


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