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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第8回 キエフ・モスクワ・サンクトペテルブルグ

キエフ(1989年,旧ソ連時代)

 1989年にキエフを訪れたのは,国際ユネスコセミナー・3Dホログラフィーに出席のためであった。初めての社会主義国訪問に期待と緊張を覚えた。ソ連では,当時すでにペレストロイカが始まっていたが,その2年後(1991年),まさかソ連崩壊の事態が起こるとはまだ誰も想像できない時期であった。ソ連では,ディスプレイホログラムは博物館の記録として研究されていると聞いていたので,それらのホログラムを見るのも目的の1つであった。
 キエフへのアクセスは,西側からは週1のみパリから直行便が運航し,これを利用した。パリの空港の待合室でセミナー参加のニック・フィリップス(イギリス,ラフボロウ大学教授,感光材料の研究で多くの反射型ホログラムを制作)と一緒になった。待っている間,ビザの確認をしているうちに,あることに気付いた。セミナーは明日から始まり1週間の予定だ。ところが,ビザの許可の期間は明日からちょうど1週間になっていたことにそのとき初めて気づいた。そういえば東京のソ連大使館で申請のとき,セミナーからの招待状を提出し,特に期日指定をしなかったことを思い出した。発給後も確認を怠り,パリの空港に着くまで重大な失敗に気づかなかったのである。これは非常にまずい事態だ。しかし,今さらじたばたしても始まらない。キエフ到着後,心配は現実のことになった。やはり,入国審査に引っかかってしまった。セミナーの正式招待状を見せ,明日からの会議に出席のために来たと説明したが受け入れられない。ニックは心配して私に付き添い,あれやこれや説得してくれたがまったく聞く耳を持たない。1時間以上押し問答をしたが,埒があかなかった。ほかの入国者全員は,とっくに審査を終えて,窓口には我々2人だけを残し,周囲は閑散となっていた。もしニックが一緒にいてくれなかったら,どんなに心細かっただろう。しばらくどうしたものかと途方に暮れていたら,窓口の向こう側からにぎやかに人の話し声が聞こえ,数人が顔を出した。何とその中に辻内順平先生がいるではないか! 始めは事態がよく呑み込めなかった。実は,この会議の主催者のウラジミール・マルコフ氏たちが1日前に現地入りしていた辻内先生と一緒に私たちを迎えに空港に来てくれていたのだ。到着予定の時間が過ぎ,しかし待てど暮らせどゲートに出てくる気配がない。とっくに到着しているはずなのに一体どうしたのかと心配し,入国審査場内まで問い合わせに来てくれたのだった。こうして私のビザトラブルは解決し,無事入国することができた。到着最初の厳しい洗礼は,マルコフ氏からの歓迎の1本の赤いバラのプレゼントですべて帳消しとなった。
 セミナー参加者にはユリ・デニシューク(デニシュークタイプホログラムの発明)を始め,アメリカからスティーブ・ベントン(ベントンタイプホログラム発明),アナ・マリ・クリスタキス(パリ・ホログラフィーミュージアム館長),ニック・フィリップスのほか,ハンガリー,中国,日本など多彩な顔ぶれであった。図1および図2はホログラム博物館の展示風景である。マルコフ氏の研究グループは,博物館の宝物類をホログラムに撮影し,実物の代用として展示することを目指していた。高解像度の銀塩の反射型ホログラムであった。会議の演題はほとんど技術系で,私のホログラフィーアートという異色の発表は,ソ連の参加者にどのように理解されたかはまったく不明であった。
 キエフでは忘れられない思い出がいくつもある。ここは地理的にもヨーロッパのとなりである。建物や道路,街路樹などヨーロッパの街を連想する美しい街並みであった。ところが,百貨店と称された18世紀風の美しい建物に1歩入ると中の様子は一変した。我々が想像する店舗とはまるで様子の異なった,荷を運び出した後の倉庫といった風情に驚いた。洋服売り場はがらんとした大きなフロアーにハンガー掛けが数台,そこにパラパラと数枚の洋服が下げられているだけだった。食料品売り場のガラスケースには食品が半分も満たされていなかった。街には美しいロシア正教の教会が残されているが,その入り口の階段には乞食が物乞いをして座っていた。ショックであった。共産主義国に乞食がいるなんて! 彼らも公務員なのかしらね。
 エクスカーションはキエフの郊外にウクライナの民族文化の見学ツアーだった。料理はどれもおいしく,特にキノコのクリームスープは有名だ。しかし,3年前(1986年)発生したチェルノブイリ事故現場から(後で知ったのだが)このエクスカーションの地まで100㎞もない場所であった。キノコやミルクは,放射能を濃縮するので要注意ということは知っていたが,おいしい料理に食いしん坊は勝てなかった。
 外国からの参加者は全員同じ(4★とおぼしき)ホテルに滞在した。食事のできるところは滞在ホテル以外になく,夕食は毎朝予約を取っておかないと食べ損なってしまう。ロシア語のできるハンガリー人の出席者に毎日全員(10数人)の予約を入れてもらう。キエフの料理はとてもおいしい。フレンチスタイルのフルコースに準じる。ある日,いつものように全員揃っての夕食会でそれぞれオーダーをして,ウオッカ,オードブルが運ばれ,スープまで進んだ。ところでメインがなかなか出てこない。強いお酒でおしゃべりが弾んではいたが,あまりに遅いのでウエイターに催促。ウエイターは厨房に行き,戻ってきた返事がなんと!「今日はこれでおしまい。料理はすべて終わってしまいました。」。耳を疑う言葉に全員口をあんぐり。後は笑うしかなかった。その時フランス人のアン・マリがバッグから何やら取り出してポケットに入れ,厨房に出かけていった。彼女がテーブルに戻ってしばらくすると,オーダーとは別ものだったが,おいしそうなメインの料理が運ばれてきた。ひもじい夜を過ごさずにすんでホッと安堵したのだった。彼女は持参のフランスたばこを袖の下として料理長に渡し交渉してきたのだ。フランスたばこは人気らしい。「よくあることよ,だから,たばこはいつも多めに用意しているのよ。」とさらりと言った。同じ日,レストランの奥では着飾ったロシア人と思しき人たちがにぎやかなパーティーを開いていたこととは対照的な,我々のテーブルの出来事であった。“もてなす”,“サービスする”という観念が存在しない国なのだろうと思った。
 マルコフ氏はウクライナ独立後,故郷を去りアメリカに渡ってレーザーの会社を立ち上げた。ハンガリー人の研究者は,現在オーストラリアに住んでいる。ソ連崩壊の後,多くの頭脳が流出したのであろう。

図1 ホログラムによる博物館 キエフ 1989
図2 右から ニック・フィリップス,スティーブ・ベントン,ウラジミール・マルコフ3氏 キエフ1989

モスクワ訪問

 キエフ訪問から20数年後(2013年),モスクワで開かれたHoloExpoに作品展示のため招待された。作品はハンドキャリーだが,航空券宿泊代すべて先方持ちの招待に二つ返事で出かけた。突然の招待におどろいたが,実はその前年(2012年),キルギスの光学セミナーに出席したとき出会ったロシアのノヴォシビルスク大学の教授が,ロシアではまだ見られないホログラフィーアートを紹介したいと考え推薦したと聞いた。知る人がほとんどいない会議かと緊張して出かけたら,イギリス,フランス,ギリシャ,キルギスからよく知る顔ぶれを見つけ安堵した。そのとき,1人のロシア人の研究者が親しげに声をかけてきた。「あなたとは前に会っている」と言うが,まったく記憶にない。人違いではないかと返事をしたら,あのとき(キエフの会議)発表したプロジェクトのプランは実現したのかとたずねられた。それは,当時名古屋の野外プロジェクトで,公園を流れる小さく浅い(水深10 ㎝程度の)人工の小川の川底に20 ㎝角の鯉のホログラムを数枚設置するというものだ。太陽光で画像が再生され,水の中で揺らいで見えるという演出である。計画段階を私は講演で紹介したらしい。その後,実現したと答えたが,よほど印象深かったらしく,20数年後に私を見つけ,声を掛けてきたのだった。彼はデニシュークの弟子の研究者であった。それ以降,何度もホログラフィーの国際会議で一緒になり,今は親しいホログラフィーグループの一員である。
 展示作品は110 ㎝ ×85 ㎝と50 ㎝×60 ㎝の2枚のフィルムホログラムをロールで持ち運び,現地でアクリルや照明機材を準備してもらった。図3はCG からのイメージで,視点を水平移動すると像が動くアニメーションホログラムである。図4 は展示風景である。会期は短く2日間の展示であった。
 モスクワのビザ申請では十分の期日を確保し,ロシア文豪ゆかりの地やトレチャコフ美術館,プーシキン美術館などを堪能した。街は物とサービスにあふれ,キエフの体験からは想像もつかない変貌ぶりに隔世の感があった。

図3 CG からのアニメーションホログラム,HoloExpo モスクワ 2013
図4 展示風景 HoloExpo モスクワ 2013

サンクトペテルブルグ

 エルミタージュ美術館を訪ねる機会はモスクワの2年後(2015年)に巡ってきた。長い間訪ねてみたいと望んでいた街である。ISDH(International Symposium on Display Holography) がサンクトペテルブルグで開催され出席した。北のベネチアと言われるとおり,カナルが街中にはりめぐらされ,何本もの美しい開閉式の橋で結ばれている。会期中の夏のシーズンは白夜の真夜中,イルミネーションの飾られた橋が一斉に開く光景は,観光のハイライトだ。
 ここはデニシュークが2006年に亡くなるまで生涯の活動の拠点の地であった。デニシュークのメモリアルルームがあった(図5)。ソ連時代ホログラフィー研究,特に高解像度の感光材料の研究は軍事技術の研究に抵触するという理由で,研究を禁止される不遇の時期があったと聞く。それでも彼はひそかにバスルームを改良し,研究を続けていたという。メモリアルルームは,そのゆかりの部屋とのことであった。生前デニシュークが力を注いできたホログラフィーミュージアム(図6)はなかなか見ごたえのあるコレクションがそろっており,一般にも公開されている。貴重な宝物類が,大型で深度の深いクリアな像としてホログラムに記録されている。
 ISDHについては あらためて別の機会に述べるが,カンファレンスと並行してホログラフィ展,Magic of Light(図7)が開催され,私のパルスマスターのホログラム(図8 ,図9)も展示された。この年,サンクトペテルブルグでは,インペリアル・イースター・エッグのミュージアムが新しくオープンした。そこの貴重な一連のコレクションがフルカラーのホログラムに撮影されて,この展覧会に展示された。宝物の美しく精巧なデザインと実物と見まがうクオリティーの高いホログラム像は多くの観客の目を引いた。ギリシャのHIH(Hellenic Institute of Holography) が制作したもので,この展覧会を企画し,展示はその後,ツアーエキシビションとして各国の都市を回っているようだ。今(2019年春)は中国の上海で開催され,入場に長蛇の列をなす観客の様子が伝わってきている。私のホログラムもHIHのコレクションになったが,一緒に展示されているかは関知していない。私の手元を離れた作品は私の知らない世界中を旅しているのかもしれない。
 やはり世界は小さくなったようだ。

図5 ユリ・デニシューク記念コーナー サンクトペテルブルグ 2015
図6 ホログラム博物館 サンクトペテルブルグ
図7 Magic of Light ポスター サンクトペテルブルグ 2015


図8 Magic of Light 展示作品 サンクトペテルブルグ2015
図9 作品と筆者

(OplusE 2019年3・4月号(第466号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
ご所属などは掲載当時の情報です)

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