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ジュラ紀の公園

環境を破壊する航空機による旅行に罪悪感を持つべきだという運動や近所を再発見するマイクロツーリズムという思想があるそうで、まあいいんじゃないとも思うし、徒歩圏内を旅するということを無自覚にやってきてもいた
それは旅ではない 単なる散歩だという反論は聴こえるが、では旅と散歩の本質的な違いはなんなのだろうか?
そういった煩瑣な議論は別として、あるさわやかに晴れわたった日の午後、僕は近所のディスカウントストアで惣菜パンとスモーク味の鶏肉のパックとアーモンド飲料を買って近所の狭い公園のベンチに座っていた
その公園は狭いながらも水道が使えるので、買い物かごが触れた手を洗うのに好適だった
ベンチの周辺に吸い殻が落ちていて不快なこともあるが、ここ数日の大雨で流されてしまって綺麗であった
地面をじーっと眺めているとなぜかトリップしそうになった
ぺんぺん草ことナズナとクローバーが生えていた
ナズナは数メートル先に疎らに生えクローバーは10メートルくらい先に白い花を咲かせて群生していた
そよ風に揺れる可憐窮まる白き花々を眺めているとやや気が遠くなってきた
ただきっかけはクローバーではなくナズナだった
ルドルフ・シュタイナーの修行法に植物を内側から体験するというのがあって、植物の種が発芽して葉を生やし花を咲かせ種をつくって枯れていくまでを観想する
そこまで本格的ではないが、それに近いことをやっていたので、植物に対する親和性が多少強まっていたのかもしれない
20年以上前にまだマジックマッシュルームが法的規制を受ける前に、マジックマッシュルームを摂取して近くに神社の御神木(イチョウ)の中に意識を飛ばして、その中に棲んでいる奇妙な存在を幻視するという遊びに耽っていたことがあった
その存在は半透明の薄緑色でグミのような弾力性があり、音もなく哄笑しているが顔がはっきりしなかった
ただその存在が好色そうな笑みを浮かべていることだけははっきりしていた
あまり精霊とか妖精という感じはしなかったが、植物というものは好色でエロいんだという認識は定着した
ナズナに好色なところはなかったが、ナズナを見ていると古の地球へ意識が流されていき、それだったらデボン紀に行けばいいじゃないかと心づもりを決め、今はデボン紀でその光景を見ているということにした
すると十羽ほどの椋鳥が飛んできて、地表の虫をついばみはじめた
椋鳥は汚らしい鳥で鳴き声も醜い
しかしそれは人の主観に過ぎない
椋鳥は人に忖度することなく自前の活動をしていた
彼らは生まれる時代が違えば、恐竜ではなかったか?
最初は、そうだここはいっちょう恐竜だということにしてみるか、それでやっていくかという段階だったが、すぐにあれは恐竜だとという認識に切り替わった
そう思って見てしまえばそれは恐竜以外のなにものでもない
ただ大きさは控え目であった
恐竜にはあまり遊びという概念がなく、虫をとりあって本気の喧嘩をしていた
10分ほどで彼らは飛び去ったが、彼らがいるあいだデボン紀にまだ恐竜はいないかもという疑念に悩まされた
僕はデボン紀という語感が気に入っており、しっくりきていたので変えたくはなかったが、恐竜が飛来した以上、時代をジュラ紀に変えなければいかに妄想といえども整合性がとれない
ただ、一方でナズナはデボン紀の植物であるという謎の確信もあった
僕はその確信を大事にしたかったが、恐竜の飛来という事実は覆すべきではない
ジュラ紀だ
ここはジュラ紀の公園だ
まあそういうことにした
しかし今度は別の疑問が心を占領した
ジュラ紀に人はいないからこの光景はありえない
おのれの行動の虚構性ににっちもさっちもいかなくなった
恐竜の眼を通して見ていることにすればいいじゃないかと思われるかもしれないが、恐竜の視界には落ち着きがなさすぎるのだ
そもそも考えてみればこれは僕がジュラ紀にタイムスリップして、それを見るという体のものではなかった
ナズナをアンテナとして、デボン紀を受信する遊びであった
途中で、時代設定が変わりこそすれ現在に過去を呼び寄せる遊戯であって、過去そのものへ行くという話ではなかった
そして、ナズナに含まれるアセチルコリンをなぜ人体は神経伝達物質として使っているのだろう?
けしにはなぜオピオイドが含まれているのだろう?
人にはなぜオピオイド受容体があるのだろう?
麻にはなぜカンナビノイドが含まれているのだろう?
人にはなぜカンナビノイド受容体があるのだろう?
マジックマッシュルームにはなぜセロトニンに類似した物質が含まれているのだろう?
そういった疑問が心を占有しだして、止まらなくなったので一旦リセットするために別の公園へ向かって旅に出ることにした











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