#5 幻談/幸田露伴

幸田露伴「幻談」(岩波文庫『幻談・観画談』収録)

閑職に追いやられた侍と船頭に起こった釣り場でのこわい話。それは恐ろしいことが起こるというより本人たちの罪悪感に根差したこわい話である。よくあるこわい話なのだが、本書の読みどころはこわい話よりも、本題に入る前の釣りのよもやま話である。

釣りを知ってる人も知らない人も楽しめてしまう語りが魅力だ。ぐいぐい引き込まれ、釣りの用語や種類に詳しくなった気になれる。おもしろい話とはその内容も確かにそうなのだが、語り手の話術によるところも大きい。内容が同じでも語り手が違うだけでおもしろさが変わる。本編はまさに最高の語り手による釣り怪談話である。

アルプスの登山隊の話からはじまり、釣りの話へうつり、長々と釣りの話をしたあとに気付いたら本題へうつっている。なかなか魚が釣れずに諦めるかと漕ぎ出すと、何かがある。とにかく描写がすごいので引用する。

客はすることもないから、しゃんとして、ただぽかんと海面を見ていると、もう海の小波のちらつきも段々と見えなくなって、雨ずった空が初は少し赤味があったが、ぼうっと薄墨になってまいりました。そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込むようになって、反射する気味が一つもないようになって来るから、水際が蒼茫と薄暗くて、ただ水際だということが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。客はなんにも所在がないから江戸のあの燈は何処の燈だろうなどと、江戸が近くになるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上から押すのですから、澪を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るというと、暗いというほどじゃないが、よほど濃い鼠色に暮れて来た、その水の中からふっと何か出ました。

出てきたのは釣竿。しかも、「お客さん」付きである。この釣竿が一等素晴らしいものだったのでつい拝借し、魚が釣れ出すのだが……何も釣れない方がよいのです。

36ページほどで約3分の2はよもやま話だ。前振りが長いほうがオチが効く。語りのお手本のような小説である。

(大虎)