#6 隅の窓/E.T.A.ホフマン

E.T.A.ホフマン/池内紀編 訳「隅の窓」(岩波文庫『ホフマン短篇集』収録)


「ねぇ、君、ぼくはもうだめだな!ぼくって人間は、ほら、下絵を塗っただけのキャンバスの前にすわりこみ、だれかれのみさかいなしに傑作を仕上げたばかりだなどと得々として吹聴している頭のいかれた老画家ってものだねーもうあきらめるよ、いのちあふれた創造のいとなみ、ぼくの手のなかで姿をとって出ていって、この世と友情を結ぶあのものさ。わが精神には蟄居閉門を申しわたすよ!」

悪性の病いのために両足を失った従兄弟は、天井の低い屋根裏部屋に引きこもってしまった。彼の家は首都にあってとびきりいい場所にあると描かれてる。屋根裏の窓からは広場が見渡せるようになっている。主人公が市が開かれた日に広場から彼の家の窓の方を見たときに、元気だった頃彼がいつも頭にのせていた赤い帽子が見えた。広場から手を振る主人公に従兄弟も気が付き再会する。

窓から見える広場の風景について、二人の妄想を語らうやりとりがひたすらに続く。もの書きでもあった従兄弟は今までもずっと窓際に座りあたりを観察していたのだろう、窓の枠はスクリーンであり、彼の語りとともにそのスクリーンに映る人ひとりずつクローズアップされていく。その描写は、とても細かくて仕草ひとつからどんどん内面を掘り下げていく。広場での現実が窓を通すことでフィクション化するのが面白い。

「この広場はまるきり人生の縮図じゃないか。店じまいのさまがまたそうだ。あわただしい生の営みがあり、刻々と時をきざんで群衆がさんざめいていたかとおもうと、にわかにあたりはひとけない。にぎやかにとびかっていた声はたとえ、あとに残された荒寥たる風景が時の経過を告げるみたいだ」

従兄弟が話したあと、鐘が鳴る。それは広場にもこの部屋にも同じタイミングで聞こえている。鐘はスクリーンを解体し、彼らを現実に戻す。

窓は、引きこもっている従兄弟と社会を繋ぐ役割をしている。主人公が従兄弟に気が付いたように、知らない誰かも彼を広場から見ているかもしれない。従兄弟は窓越しに見る風景を介してそれを気づき元気を取り戻したのだと思う。

タトエ今ハ酷イトシテモ、イツマデモ酷イママニ続キハシナイ。

そうだ!そうだ!

(ラザニア)