#0 私が小説を読むようになったわけ

短編小説を読みたいというラザニアに、彼女の好きそうな小説を偉そうにいろいろと紹介した。彼女に合っているかどうかはまだわからない。読んですぐによいと思うものもあるだろうけれど、時間が経ってからよいと感じるものもある。読むことは他人の考えを知ることだから、わからないのが当たり前だし、時間がかかるのもしょうがない。わかることなんて重要ですらない。何度も読めばいいし、わからなかったら諦めてもよい。引っかかる何かがあればよい。ストーリーでも、文体でも、文章の一節でも、漂う雰囲気でも。感想も的確でなくてよい。気になったところを書き出すだけでもよい。自由に読めばよい。間違っていたら著者に謝ればよい。謝りたくなければ謝らなくてもよい。でも、伝えたいことが何かしらあるから小説にしているんだということだけは知っていたほうがよい。それはなんだろう、どういう風に伝えているのだろう。そうやって楽しく読む。読んだら感想を述べる。そうすると身になる。人生経験になる。体験したことと同じと言ってもよい。豊かだ。

前置きが長くなった。私は18歳まで本を読んでなかった。高校を卒業してすぐに就職した。周りは大学や専門学校へ行ってしまい近所に友人もいない。実家で暇そうにしている私に父は「暇なら本でも読め」と言って宮本輝の『螢川・泥の河』を渡した。なんとなく字を追うのが楽しくて読み終わってから父に次は何を読もうかしらとたずねてみた。父はにやりとして「他の宮本輝の作品やその周辺を読むか、始めっから読むかやな」と言った。始めから読むとは何かと聞いたら日本なら古事記、西洋ならギリシア神話とかだと言う。私はそれまで何の勉強もせず、大学にも行くつもりはなかったのだが、高校三年間遊び尽くした後ろめたさもあり、同級生たちに追いつこうと本を読み始めた。家にある岩波古典文学体系をゴリゴリ読み始めた。辛かったけどなんとか読んだ。会社を辞めて上京して大学へ行こうと思った。大学は五年通い、そのあいだずっと本を読んだ。世界が広がるのは楽しい。自慢したくなる。実際自慢した。多少嫌われもしたと思う。けれど、そうやって小説の楽しみを知った。知ったからにはやめられない。元来のお節介な性格もあってラザニアに短編小説を紹介したくなったのだ。小説は楽しい。知ることは楽しい。わかんなくてもなんか楽しい。世界は広くて狭い。豊かだ。

次回以降、短編ごとに記事をわけて感想を書いていく。ラザニアの読書の一助と私の備忘録として。

(大虎)