多面性

人から見える人の性格らしきもの、というのはあくまでその相手に見せている限りの性格である。

ある人は私をこういう性格だと定義づけた。
それは間違っていない。
私はその人にそう見えるように振舞ってきたから。
でもがっかりした。
そう見せられていることに気づいてほしいとまでは言わないが、それを前提として考えることがまず大切だと思うからだ。
そう見せられている、のが当たり前なのだから、私はあなたの性格を定義付けることなどできない。
するとしても、「私に見せている」性格はこういうものだ、という前置詞が必要になる。

それなのに、私のたった一面だけをみてそれを得意顔で定義づけて発表されても、私はガッカリどころか呆れる。
教室という空間ではその一面を大きくして全員に見せることになるから、皆が勘違いをおこす。
多くの人から同じ定義づけを披露される。
他の場所では全く違う私が生きているというのに。
それに気づかず好意を寄せてくるひとなんかは、本当に残念な人間だ。
もっと視野を広くして様々な可能性を考えて普段から生きよう。
特定の偏見や視野を持ってして人を定義づけるなんて、とても傲慢である。

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