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志波彦大神とアラハバキ①
いや、旅を続けようと思ってるとかじゃなくて初日のことをだなー(汗)。
相馬野馬追の初日は御繰り出しや宵乗り競馬などがあったがパスさせていただいた次第。
東京駅から原ノ町駅をめざした場合、新幹線に乗って仙台駅経由で戻ってきた方が早く到着する。
だったら仙台駅周辺で見るべきものを見てからにするべえ。
■09:00 鹽竃神社■
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というわけで、今回の旅で最初に降り立ったのは本塩釜駅。まずは一宮にご挨拶だ。
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陸奥国一之宮・鹽竈(しおがま)神社である。
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武甕槌神(鹿島神宮祭神)が左宮に、経津主神(香取神宮祭神)が右宮に祀られている。
両神はいわゆる国譲り神話の立役者であり、武神ということになっている。
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一見して社殿の作りが日光東照宮に似てるよなあと思ったら、けっこう関係あるらしい。
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伊達氏の篤い崇敬を受けたというのがポイント。
鹽竈神社公式HPの御由緒についての記述には、
幕府から日光東照宮の改修を命ぜられた綱村は自らも現地に赴くなどして力を注ぎ、その事業が済むとその職人を呼び寄せ鹽竈神社の社殿以下の造営を行いました。
現在の社殿は4代藩主伊達綱村が元禄8年(1695年)に造替に着工し、5代藩主吉村の宝永元年(1704年)に完成したとのこと。
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一分の隙もない崇敬っぷりだ。さすがは伊達氏。
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塩釜の地名にも関係する塩土老翁神は別宮に祀られている。
猿田彦命っぽいイメージの神さまだが、ここでは塩作りを伝えたとのこと。
この構造からみるに、細々と塩作りをしていたこの土地に大和朝廷が進出し、拠点を築いた。
でも、元いた神さまも大事にしてますよということで、武神たちは一対扱いで左右宮に鎮座した。
征夷大将軍・坂上田村麻呂は侵略者という立場を超えて地元民に愛されている。
土着民(神)に対する敬意を忘れていなかったからなんだろうな。
■09:25 志波彦神社■
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鹽竃神社・社殿のすぐそばにある
ぜひ参拝しておきたかったのが志波彦神社だ。志波彦とは何か。
何かを神格化したからといって、そのモデルとなった人物がいるとは限らない。
もちろん、モデルがいる可能性も否定するべきではない。
志波彦大神についてよく取り沙汰されるのは「志波(しわ)」の意味。
「しわ」とは「端」を意味するもので、大和朝廷の進出によりこの地が領地の端となった説。
「しわ」という地名は岩手県紫波郡などにもあることから、支配地が北上したと考えられると。
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チャグチャグ馬コの回でとりあげる
蝦夷の抵抗に遭ってすんなり平定できなかったのだから、もっと「しわ」があってもよいのでは?
などと現代人の感覚でとらえても腑に落ちる答えは得られないだろう。
単純に、東北進出の拠点となった多賀城の建立(724年)時に「しわ」だった土着神を志波彦大神と呼ぶならば、その成立は坂上田村麻呂が志波城を造営した803年以前と考えられる。
志波彦神社は『延喜式』の神名帳に「名神大社(※)」として破格の扱いを受けている。
(※記載されている2861社の中で名神大社は225社しかない)
つまりは、それだけ朝廷が蝦夷を恐れていたということでもある。
怖いから祀るので守ってね、という御霊信仰にも似たアレだな。
志波彦神社が鹽竃神社境内に遷座されたのは明治7(1874)年。
元宮が冠川の近くにあるらしい。行ってみよう。
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