カケルの『自己犠牲』と高橋大輔の生き方

またしてもとっ散らかっている。
言いたいことは山ほどあるのだがなかなかまとまらないといういつものパターンである。

カケルの『自己犠牲』について考えている。
高橋大輔が「カケルは自分とは違う」「自己犠牲がテーマ」というのが、公演を見ても、もうひとつピンと来なかった。 
下敷きになった『銀河鉄道の夜』でカムパネルラは友人を助けて溺れて死んでしまうが、カケルの死はどちらかといえば自爆だ。『死』は自己犠牲を伴っていない。ではなぜ高橋大輔は『自己犠牲』と口にしたのだろうか。

病気で夢を諦めざるを得なかったユキを放っておけなかった。それは本来のカケルの本質からすれば(カケルのユキへの愛がどのようなものであるか観客は想像するしかないのだが)、ユキの人生を背負う決断は重いものであったのだろうか。
トキオの病的とも言える自分への執着も知らなかったとも思えない。なぜなら婚約のくだりを告げるのにあれほど躊躇うのは、トキオがユキを愛していてそのことをカケルも知っていたか(通常の三角関係ならそっち)、トキオがカケルこそ運命の相手だと思っており同様にカケルがそれを知っていることが前提になければならないからだ。

カケルの死後、後悔に打ちのめされ、肺腑をえぐるような絶叫と慟哭に震え、ついには電車に飛び込んでしまったトキオを放っておけなかった。
あっさり行ってしまわずにトキオを引き戻そうとすれば自分だって未練が残る。よりつらい思いをするかもしれない。でも放っておけなかった。放っておきたくなかった。

カケルは鉱物学者として立ってはいるが、本質はあの無邪気で愛らしいキャラクターなのではないか。身体を失って銀河鉄道の乗客となった時、様々なしがらみから解放されて本来の性に戻ったからこそのあのカケルではなかったか。そのカケルにとって、ユキやトキオを身を捨てて救うことは、本来の姿ではないからこその『自己犠牲』なのかな、と思う。

高橋大輔が何をもって「カケルと自分は違う」と言ったのかはわからない。オンの高橋大輔は、誰も寄せつけないオーラと厳しさと、かなり煩い拘りを見せるのに対し、銀河鉄道のカケルは私たちがイメージするオフの高橋大輔に近い。男4人兄弟の末っ子で甘えたでチャーミング。誰からも可愛がられる素の高橋大輔。「自分でできるんだけど、皆がいろいろやってくれる」と言う天性の世話され体質。高橋大輔そのものに見えるのに『違う』と言うのは何故か。

オンの高橋大輔は自分のために動いているからだろうか?でもそれって当然ではないの?その上、彼はいつもフィギュアスケート全体のことを考える言動が目につく。絶大なる貢献に対して随分と非礼な目にあわせてくれたフィギュアスケート業界。それでも彼は業界を非難する言葉を口にすることはない。それどころか、ジャンプが苦手でも、年をとっても、学生でなくなっても、『スケートで生きていきたい人がスケートをやめないで済む』場を作ろうとしている。単なる互助会仲良しクラブ活動ではなく、プロのパフォーマンス集団として。

私は『パフォーマー高橋大輔』のファンだから、パフォーマンス以外の仕事を正直言ってそれほどしてほしいと思ってはいない。しかし彼にとってそれは単に『やりたいこと』であって、自己犠牲とは異なるものなのだろう。
そこに『自己犠牲というけど、自分がしたくてしてるなら犠牲じゃない』がくるのかもしれない。

そんなことを考えてみた氷艶ロス。


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