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シンギュラリティと疑似到達


AIが代替出来るものは増え続ける。
既存の情報を繋ぎ合わせる。その意味での最適化の質は上がり続ける。同時に、AIには無かった問いを生むような原始的創造は出来ない。しかしながら、それと思わせることすらも模倣的に成せるようになる。しかし、模倣なのだ。

テキスト、動画、静止画問わずSNSを見ていると、嗜好を読み取り、学習して個人に合ったアルゴリズムを形成し、また修正して走らせ続ける。それが、麻薬的に人の感情や興味をブーストさせ虜にし、延々と見続けるというループ現象が起こっているのは理解できる。

しかし、私個人が経験したのは、その模倣の限界、天井を感じ、一定期間を経たら退屈で物足りなくなり、ループからは脱出することになった。
例えば、80'sのベタな洋楽や邦楽を聴いたりするのは、そういう嗜好を持ってるわけではなくても、人との関わりで不測的に発生した感情や欲求や、気持ちの揺らぎで突発的に聴きたくなったりする時があるのだが、今のところAIはそういうことを理解出来ていないと感じることが多い。一般的にゆるい音楽とか認識されてカテゴライズされているジャックジョンソンのような音楽も、私個人において言えば音のゆるさ故にそれを聴いているわけではない。その音に、どんな先鋭的な音にもない、深淵で秀逸な本質的なものが流れていると感じ、それに心を奪われているから聴くのである。
そういうことが理解されていないのはAIに限ったことではなく、昔からCDショップのレコメンドなどでも目にして来たことでもあるが。そのような的外れな立て分けに基づいて、ゆるい音楽が好きだからそれをレコメンドし続けて、好みを絞って行こうというフレームでは、そもそも最適解を導くことは出来ないだろう。そんなアルゴリズムの天井をよく目にする気がする。

しかし、そういうことも理解出来るようになったのだと錯覚してしまうような時がまたすぐにやって来る。人に発生する揺らぎも、突発的な欲求も、ゆるさの奥にある嗜好への解像度も、直接的理解ではなく、データ学習し続けていくことによって、理解出来るようになったと思える時が来る。

その繰り返しが起こっていったときに、それは模倣の繋ぎ合わせなのだと、言い続けていくことが出来るだろうか。

私がAIの議論において恐れていることがあるとしたら、AIに人間の仕事が代替されるというようなことでは無い。人間の本来の創造性が、予想もしない形で、気づかぬ間に制限されていってしまうのではないか。という恐れかもしれない。

AIや、それに派生する、監視資本主義のようなものによって、人はAIの天井を認識しづらくなる。そのうち天井に気付かぬようになる。
そしてそうなってしまうと、AIの天井を天井にしないように枠に収まった創造性や感性で、満足するようになる。型にはめて作った農作物が、生物として形成するはずであった本来の姿ではなく、人工的な形になるように。

AIと社会がそのように変遷していった時、今言われているシンギュラリティとは違うシンギュラリティが到来するのではないか。(シンギュラリティの疑似到達。)

そして疑似到達であれば、それは既にバーチャルで満足する人においては起こっていることでもあり、それが幸せなのか不幸なのかという別の議論にもなる。ただ、ここで言うシンギュラリティの疑似到達は、社会における多数派の現象であり、同時に社会的正当性も付与される可能性も相当あると推測する。

自ら何かに没入して、シンギュラリティの疑似到達をするのと、社会的変遷や趨勢の波として疑似到達するのと分けるのは、(若干雑な立て分けにはなるが)前者は自ら没入するという意志が働いているのに対し、後者は意志の有無を問わず、無差別に不可避的な波として訪れる。そして訪れたことにも気づかない、という違いによる。

AIが生成するものが、模倣の繋ぎ合わせという一方向から起こる現象という考察においては、シンギュラリティに近づき続けるけど到来はない。という論証もあり得る。
しかし、疑似到達というのは、望むと望まざるとに関わらず、到達点を人間が下げて、それが社会的な現象としてスケールしてしまうとしたら、シンギュラリティは到来してしまう可能性を否定できないのではないかと考える。

追記
私はAIの発達を悲観している訳ではなく、むしろ期待し、どちらかと言えば楽観している。しかし、考えられる限りネガティブな芽は摘んでおくべきだと考えている。

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