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シーン11

Sunny Girl
『夜に照らされて』
M3.シーン11

今回はこの曲についてです。

前置きは長いので割愛。
歌詞と曲とミュージックビデオに触れていきます。

それでは、早速。


ゆっくりとしたテンポから君と僕との愛について語り始めるこの曲。人間は、生きていく上で多くの他者と関わって人生が形成されます。それは"僕"も同じ。その中で自分に大きな影響、それが言葉では"言い難い何か"だったとしても、そういうものを与えてくれる者の存在は大きいです。それが"僕"の中では、君だった。僕の人生の中の主役は君だけで。君が主役だった。
君と僕との間には永遠といっていいほど、まっすぐと、終わりのない愛がそこには存在してた。

君とお揃いのパジャマ、お揃いのグラス、日常で使う様々なもの、日常なんてものだけじゃなくて、いつか僕と君との名字もお揃いにできたら。「お揃いにしようね」なんて笑う君が愛おしくて。
あぁ、二人のこの愛が、いつまでも永遠に続きますように、終わりませんように。
二人を映画に見立てたこの曲は君と僕との愛について歌っています。
「僕の主役はあなただった」
あの時、確かに君は僕の世界の主役だった。無くてはならない、居なくなってしまえば成り立たない存在"だった"

もう一度撮ろう、と僕に言う君。いつでも僕には君が1番で、美しく思えるのに。君と僕にしかわからないあの角度で何度も撮る写真。そんな写真たちで、そんな君との思い出で、僕のカメラロールは埋まっていく。僕の記憶が君で埋まっていく。
君が好きだから、僕の好きになったものも増えていく。君の好きが、僕の好きに。
在り来りで、いつもと変わらない日常、確かにそこに君の存在が散りばめられている。

冒頭を繰り返すサビの歌詞。始まりから変わることの無い僕から君への思い。僕と君が始まったあの時、"僕と君"から"僕ら"になった時、確かに僕らは同じ思いだった。今は、どうなんだろう。君も僕と同じふうに思ってるかな、僕は、君と同じなのかな、
思い出すのは君との普段ばかり。何気ない日常が、僕の幸せだった。笑うとえくぼができるとこ、酔っ払うとすぐ顔が赤くなるところ、ぜんぶ僕だけのものにさせて。僕のそばで笑っていてよ。

きっと僕の長い人生の間で、君以外に好きになって恋に落ちるような存在もできるんだと思う。
でも
僕に愛を教えてくれた君は、君が、僕は忘れられない。君以上に、好きな人はできない。
いつでも、君の存在を探してしまう。

最初から最後まで君と僕との"愛"について歌うこの曲。
幸せな曲のように思えます。
ありふれた日常には、どんどん君の存在が大きくなって、僕の生活には君が必要不可欠になった。
でも、ところどころ使われる過去形から、
もう君は僕の隣には居ない。そう感じられます。
僕の中心だった君はもう居なくて。
でも、残された写真や記憶はずっと君が居て。僕の日常は君色だったから、どこにいても、なにをしても君が居るようなきがして。

少し冒頭の歌詞に戻りたいと思います。
「この映画のエンドロールが流れませんように」
僕と君との話、僕の一生を映画に見立てているというのは先程言った通りです。
エンドロールについて。エンドロールって、例えばスタッフロールとか。映画で言えば、その制作に関わってくれた全ての人への名前や場所などが感謝とともに現れる1番最後のシーンですよね。そんなエンドロールが流れませんように。ここには二人の愛が終わりませんように。という意味も含まれていると思うのですが、映画は、僕の一生。一生で1番最後に見るとされるのが走馬灯。今までの"シーン"が多く思い出される、そんな瞬間らしいです。つまり、エンドロールは走馬灯だと思いました。
映画のエンドロールは大抵、一番最初に主役の名前が出てくるか、1番最後に出てくるか、だと思います。
僕の主役はあなた、僕の走馬灯の最初と最後に流れるのはあなたの顔ばかり。
君がいなくなったら、僕にほかの好きな人が出来るかもしれない。そうしたら僕のエンドロールにはその人も出てくるだろう。
でも、一番最初と最後に出てくるのはあなたに違いない。僕を僕にしてくれたから。僕の中の永遠の主役。
僕の記憶というカメラロールは君でいっぱいで。容量が無くなったら少しずつ減らされていくだろう。全部は覚えていられないのかもしれない。
それでも、君が僕の人生の主役だから。
エンドロールなんてみたくないけれど、それが流れる時君はまた僕に笑ってくれるのかな。

ミュージックビデオは、終始連太郎くんの背中を追うようにして進んでいます。
走馬灯とは自分のことを少し俯瞰して、第三者的に見るものらしいです。(本当かはわかりませんが、、)
だから全くと言っていいほど、こちらを向かない。
全体を通して、まるで何かを探しているような、僕のもとから居なくなってしまった君を、失った君を、探すような、彷徨うような、きょろきょろとする仕草。(ここは他の曲とも繋がってる気がするのでそれはまた今度、、)
半袖と長袖、全く反対の季節感の服がシーンごとにバラバラに出てきます。多くの季節を通して、君のことを探しているのかな、と感じました。
最後に「好きな人は出来ないだろう」と、こちらを向いて微笑む連太郎くん。
君を見つけたのか、はたまた他のものを見つけたのか、それは分からないけれど。
もし仮にこれが"僕"の走馬灯だとして、君のことを探しているのを見ているのだとしたら、
走馬灯は経験したことしか流れないものです。
まだ、君を見つけれていないのかもしれない。
だからこちらを向いたあとが流れない、分からないのかな、と思いました。
君のこと失ってから、まだ僕は君のことも好きな人も見つけられていないけれど、季節が巡っても僕はずっと探すよ。
僕の日常を明るく照らしてくれる君。
この世界で君は、永遠に僕の主役だから。

Sunny Girlは本当に素敵な曲がたくさんあります。
君に彩られたぼくの生活を丁寧に切なく美しく表現している、そんな曲がほんとうにたくさんある。
サブスクにはなくても、形として残る、ミュージックビデオだけ公開されているのはそういう意味もあるのかな、と思いました。


つくづく連太郎くんの描く音楽は、Sunny Girlの音楽は美しいで溢れていると感じます。
言葉を受け取って、言葉以外も受け取って、大切に聞いていきたい。そう思います。


ここまで読んでくれてありがとうございました。
ではまた。

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