【知性とは】、【非存在とその存在について】感想文


 今回は鷽月茜氏の【知性とは】と【非存在とその存在について】についてかたります。【知性とは】は令和元年の2月に出版され、【非存在とその存在について】は同年3月に出版されたものです。ここでは哲学書として扱います。

 哲学書って難しそうだし、一生縁はないよね〜と思いながら生きてきたんですが、本の紹介をしている番組でたまたまハイデガーさんの回を見て(『存在と時間』についての解説がなされていました)、ちょっと面白そう!と思ったのとその番組で「常に死を意識しながら生きろ(ざっくり意訳)(※先駆的決意性のこと。死に直面すると本来の自分が出てきて、受け入れがたい死というものの正面に向かうことにより、それまでの自分を振り返って“ふさわしい”生き方をするようになる……死ぬ間際に覚醒して強くなるみたいなもんかなとわたしは解釈しました)」みたいな話もありまして。

 そういうのを抜きにしても人間はいつ死ぬかわからないし、興味を持ったときにやっておいたほうがいいな!と思い直してやりたいことをしてみたわけです。

 まずは【知性とは】から。

 全く知らない著者で(日本に哲学者があまりいない?のと、女性で哲学をやってるのがなんかちょっと珍しいというか少数派だから見かけてこなかったのかも……というのはありつつ)、でもタイトルが直球で気になったので読んでみました。

 このタイトル見て惹かれないインテリ見習い(インテリ見習い?)はいないと思うんですよ。自分の実際の知能の高さに関わらず、やっぱり賢く見られたいじゃないですか。これを読んだら賢くなる秘訣とかわかりそうじゃないですか?そういうやましい気持ちですね。そういう気持ちを持って生きています。

 さて、【知性とは】では、タイトル通り【知性】とは何を指すのか、ということについて語られています。

 このご時世、私自身よく「何が【賢い】ということなのか」と考えることが多くて、ネットでもニュースでもそれなりに地位のある人が信じられないような発言をしたり、身近なところでも話が通じると思っていた人が実はそうでもなかったり……ということがまあまああるな〜という……。

 そういうときに「人の持つ【知性】って何なんだ?」あるいは「私が持っている“これ”は知性なのか?」と考えてしまうことがあったんですが、鷽月さんはわりとざっくりとした3つの点をあげて「知性とはなにか」を論じていました。

 知性に必要とされるもの(あるいは知性を知性たらしめるもの)、それは【傾聴】、【検討】、【計画】。この3つなのだとか。


 【傾聴】→聞くこと。

 【検討】→考えること。そして決断すること。

 【計画】→考えたこと(たぶん理想とか目的とか、叶えたいものみたいなそういうやつ)を実現するために取る「手段」のこと。計画そのものではない。(計画しても実行しないなら意味はない)


 ざっとまとめると各ポイントについてはこんな感じ。これだけ見るとあんまり知性感はない(知性感?)(もうすでに知性ゼロみたいな文章ですね)

 ニーチェさんとかハイデガーさんとかの日本語訳の本がやたらめったら難しくて副読本必須!みたいな感じだったので(扱う語彙が難解すぎて日本語なのに読めない、意味がつかめない)、あ〜これも日本語では書いてあるんだけどよく分からないんだろうな〜!と覚悟しながら本を開いたんですが、わりと読める。

 後述の【非存在とその存在について】でちょっと触れられていたんですが(※125ページ6行目、「難解な語彙は説明の対象となる存在を非存在たらしめる傾向にあり〜」)、鷽月さんは他の人の哲学書を読んだときに「難しすぎて訳わかめ」みたいな感じになったことがあるらしいです。(哲学書はやっぱり読みづらいものなんだなってちょっと親近感わきました)

 それもあって「出来るだけ伝わりやすい言葉で書くことを心がけました」と【非存在と〜】に書いてありました。だからちょっと読みやすいのかな。それでも言葉が難解ではあるんですけど。読めなくはないなーと思います。

 話をもとに戻すと、鷽月さんの考える【知性】は、【傾聴】、【検討】、【計画】なしには成り立たないものだそうです。

 人の話を聞かずに自分だけの考えで何かを成す、深く考えることをしない、また理想に向かって手段を講じることがない……。

 この3つが揃うと最悪ですみたいなことが書いてあって、3つ揃ったらたしかに役満ですわと思いつつ読み進めていたら「どれか一つ欠けても知性的態度とは言い難い」とも書いてあって心にダメージを喰らいました。私は人の話を確かに聞かないので……(【傾聴】の欠如)。たまに考えるだけで終わっちゃうこともあるし……(手段を講じないので【計画】の欠如にあたる)。

 具体的な例はのってなかったんですけど、個人的解釈としては「人の話を聞き、深く考え、それに向かって何らかの手段を講じる」のが【知性的態度】、すなわち【知性】に当たるのかな?という感じ。

 確かに人の話を聞かずに突っ走るのはあまり賢くはないのか?と思うし(人の話を聞かないほうがうまくいく人もいるだろ〜とは思ったけど、そういう次元で話してないのかも)、検討しないのはたしかに論外。

 たとえば一見すると検討をしてなさそう(※決断が早すぎる)な『即断即決』もどこかには「検討」のフェーズがあるはずで(即決するにしても「検討」しないと決められないから)。

 そこをふまえるとその後に詳しく語られていた【検討しない=他人に流される=考えない、知性的態度ではない】になるのかなって。他人に決断とか検討とか任せちゃうのは楽だけど、他人に流されるのは楽だけど、それって考えてないもんなあ。

 検討は自己あってこそ、そして検討の積み重ねで自己は作られていくから、【知性】に誠実でありたいのなら【検討】を重ねて自己を磨け、という話でした。多分。私が解釈する限りでは。

 哲学書って結局誰が読んでも同じなはずなのに解釈がまるきり変わりそうなところが怖いですね。

 【計画】が個人的にはピンとこなかったんですけど、計画そのものじゃなくて手段のことだよって言われたらなんかまあ、わかるかもしれないなー。くらいのかんじ。

 必要なのは『計画を立てることではなくて計画を実行すること』だそう。

 完璧な計画を立てることは難しいから、実行して間違うこともあるはずだけど、その時の間違いの振り返り?フィードバック?を【傾聴】して、次どうしたらいいかを【検討】、そしてまた【計画】していくのが知性的な在り方と定義していて、トライ・アンド・エラーのことねなるほど!と読み進めていたら納得できました。

 フィードバックを元に考え方の精度をあげよう!みたいな話はビジネス書か?と思ったけど、ビジネス書でたまに哲学的なことに触れる本があるし、哲学とビジネスの食い合わせは案外いいのかも。

 個人的にちょっと希望がもてるなあと思ったのが「知性と知能は別のものである」という部分。

 知性(頭の働かせ方)と知能(頭のスペック)はもう別物として考えたほうがいいですっていうのはかなりドライな考え方だなとも思ったんですけど、腑に落ちる部分でもあったり。確かにかなり賢い人(知能の高い人)でも頭の働かせ方で変わってきちゃうよねというのはあるし(偽物の薬を売りつけてくる医者は真に賢いと言えるのか?みたいな例が出ててちょっと笑っちゃった)(医者として知性的ならそんなことはしない)。

 すごく乱雑な言葉を使うと馬鹿でも知的に誠実な態度は取れるはず、っていう話なのかなあ。

 知能は生まれ持ったものかもしれないが、知性はこれから鍛えることができる……というのはちょっとした希望に思えました。

 フェイクニュースとかもそうですけれど、全く疑わずに全部受け入れちゃって(【検討】をしない)、他人の「それ違うんじゃない?」を無視して(【傾聴】をしない)嘘を嘘のまま広めちゃったりとかもあるし。

 あるいはやりたいことがあって計画は立てたけど実行には移さなかった(【計画】をしない)、みたいなのも悔いが残るし。十分に周りの話を聞いて自分でも考えて、それから実行に移してみよう!っていうのは現代で使える考え方だなあと。

 まずは人の話を聞き入れてみて、自分の内側で考えてみて、それから計画を立てて実行する。簡単だけど実行に移すのが難しいのも哲学っぽさがありますね。

 お次は【非存在とその存在について】。

 この本は簡単に言うと『存在しない』は「存在しない」というような内容でした。トートロジー(※ある事柄を説明するのにその事柄と類似した事柄、あるいは同じ事柄を繰り返すこと。“寒いっていうのは寒いということだ”。)みたいなことになってるんですよ。

 【知性とは】がわりとわかりやすかったのに対してこちらは哲学の本領とでも言うようなわかりにくさ。バチバチに【概念】について触れていて楽しかったけどわけが分からない……。シラフで読まないと意味はわからないけどシラフで読んだら気が狂いそう。

 内容の大半を占めるのが【非存在(『存在しないもの』)】の存在を認めることはできるのか、という話です。

 前提として鷽月さんは「存在しないものは『存在しないこと』そのものを認知できない、つまり『存在しない』は存在しない」というスタンスらしく。

 簡単に言うと、

 『りんご』という概念そのものが存在しなかったら、わたしたちはそもそも『それ(りんご)』が存在しない事自体を認知できない。

 つまり①極めて物理的な部分、物質界において『存在しない(りんごという“物質”の存在がない)』とは概念界におけるりんごの存在を否定しているものではないということで、②概念上(つまり概念界)における『りんご』の『存在しない』を証明するものではない、と。

 知覚可能な『モノ』として存在している時点で概念上の存在もまた認知されるため(①)、知覚不可能、すなわち観測不能ではない(②)。ということかなと解釈しました。何回読んでもわからないけど多分こういうことだと思う。

 りんごが物質的には存在していなくても、りんごの概念そのものは存在しているというべきか……。りんごという概念がなかったら『りんご』がないことはわからないっていう。本当にトートロジーじみた話だったんですけども。

 理解を深めるためのもう一つの例として載っていたのが、

 ①この世に物理的に存在しないもの(神話上の生き物とか本とか、物語とか、でっちあげみたいな……)が存在するテイでかたった場合、それは②物理的な形で存在することはなくても概念として存在し始める、と。

 これはドラゴンっていう生き物は実際にはいないけど、みんな知ってる概念だよね〜、そこに“ドラゴン”という概念で存在してるよね〜。というふうに理解するとわかりやすいと思います。さっきのりんごの逆みたいな話?

 存在しないものについて語り始めると騙られたものが(概念として)“存在”しはじめる、つまり“非存在”たり得なくなる。観測されなければ存在しないが、観測されたならそれは“存在”である、という内容でした。

 本当には開催されなかった二次元系のイベントをレポートの体で書くファンアートとか、あるいは存在していない書物について語る文芸とか(※ポーランドの作家スタニスワフ・レムさんが書いていた『完全な真空』とかまさにそれかなって。実在しない書籍に対する架空の書評集なんですが……)、“在る”ていで話すと“存在”しちゃうっていうのはちょっとした魔法みたいで面白い。妖怪とかもこのへんの感じありますよね。

 タイトル通りに“非存在”と“存在”について話してはいたものの、多分本当に話したかったのって後半部分の“存在”とわたしたち、みたいな部分かなと思いました。なんで無視されることがキツイのかとか、文章として“存在”しているのに読めない(“存在しない”)ように感じられる文章があるのかとかそういう部分。三章の後半に当たる部分ですね。

 無視されるのは自分の存在性(そこにあること)を明確に毀損される(ないものとして扱われる)から辛いんだっていう話はなるほどね!という感じです。

 一方で“無視をする”というのは“無視”している時点で『知覚され、存在性を認めている』ようなものだとも。本当に存在がなくなったわけではないから、まともにやり合いたいなら敢えて存在をアピールしていけみたいなことも書いてあってちょっと面白かった。無視すればするほど意識しているのが浮き彫りになるんだから敢えてアピールしていけ、は過激派でいいなと。結構この著者血の気が多いですね。

 あと個人的に「わかる〜!!」になったのが『難解な語彙とレトリックはその文における本質の存在性を著しく毀損する』。

 “難解な語彙とレトリックは説明の対象となる存在を非存在たらしめる傾向にある。われわれは知覚できるものしか存在を認識しない。すなわち、知覚しにくいもの、難解な語彙などの『知覚を曖昧とさせるもの』は、その文における本質の存在性を著しく損なう”(本文抜粋【非存在とその存在について】125ページ6行目〜)。

 これだけ見るとあんたも同類だよ……って言いそうになるんですけど、その次に

「難しすぎる言葉と言い回しは文章の内容をつかみにくくさせる。それはつまり、文章が“在る”のに“無い”ように錯覚させる。知覚することを阻み、文章の本質を損ねてしまうのだ」(本文抜粋、126ページ2行目〜)

 って書いてあって笑っちゃいました。そうですね。実践で見せていくスタイルか。

 難しい言葉とか言い回しとか、使えば使うほど意味分かんなくなるもんな。わたしも気をつけていこうと思いました。

 余談ですけど『存在しないものを存在しているように語りたい場合は、嘘に真実を混ぜるといい』とかはもうキレッキレで笑ってしまった。ややこしい言い回しと真偽混ぜこぜは優良誤認スレスレの広告でよく見るやつですね。

 結構辛辣なのでところどころ笑っちゃったんですけど、ここで一つフォローも入れてあって、『文章の本質』を正確に記そうとすればするほど語彙とレトリックのツボにはまるとか。自分の持っている概念(哲学と言い換えてもいいのかも)を他の人に伝えるべく、正確に記そうとすると難解な語彙を使う羽目になるのだとか。普段私達が親しんでいる語彙はその言葉そのものへのニュアンスが個人で幅広いから、「わかりやすく」書くと解釈に幅が生まれてしまうと。

 『ヤバい』に「おいしい」「すごい」「不愉快」「かなしい」……などのたくさんの意味が詰め込まれているように、わかりやすく理解しやすい言葉で書くと本来伝えたかった内容とは違うものが相手に伝わる可能性があると。

 存在しないはずの意味が存在し始めてしまうのを避けるために適当(ぴったり当てはまる、の方の『適当』です)な語彙を使った結果、それが馴染みのないものであるがゆえに『知覚』されず、皮肉にも文章はその存在性を著しく損なうことになるのだと……。

 これどうしたらいいんだろうな〜と半笑いで眺めることしかできなかったですね。分かるっちゃわかる。哲学ってこんな身に覚えがあっていいものなんだ……(?)


 





 



 さて、今回は鷽月茜氏の【知性とは】と【非存在とその存在について】について『騙り』ました。【知性とは】は令和元年の2月に出版され、【非存在とその存在について】は同年3月に出版されたものです。

 ですが、令和元年に2月と3月は存在しません。


 存在しない令和元年の2月と3月に出版された架空のタイトルをここでは哲学書として扱います。

 

 “存在しないものについて語り始めると騙られたものが(概念として)“存在”しはじめる、つまり“非存在”たり得なくなる。観測されなければ存在しないが、観測されたならそれは“存在”である”


 ──『【知性とは】、【非存在とその存在について】感想文 より抜粋』

 





 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?