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エオリアン

 秋の空の色をそのまま映したような薄藍色の湖がある。スカイラインを縫ってたどりついた山の奥にひっそりとたたずむ湖。 

 由香里の目の奥にわななく光の色は、その湖の薄藍色に似ている。誰も寄せつけようとしない淋しげな色。由香里はその湖が好きで、悲しい気持ちになると私に連れて行ってとせがむ。

 その湖の本当の名前を二人は知らない。数年前に由香里とスカイラインをドライブ中にわき道に迷い込んで、偶然見つけた湖だった。二人のあいだでは、その湖をエオリアンと呼んでいた。彼女がそう名づけ、私もそう呼ぶことにした。湖の上を通り過ぎる風の音が、エオリアンハープの音のように聞こえるからと彼女は言う。

 由香里は湖の前に立ち、目をつぶり、湖の上空の風の音を耳澄まし聴く。私も隣に立ち、同じように風の音を耳澄まし聴く。私はそれまでエオリアンハープという楽器の存在を知らなかった。エオリアンハープの音を知らない私でも、その風の音が好きだった。体の中に窮屈に閉じ込められた魂が、解放されて広い空へ舞い上がったような気持ちになれる澄んだ風の音だった。

 由香里と初めて出会った時、彼女はピアニストで、ショパンを演奏するのが得意だった。世界的なコンクールで賞を取ったこともあった。しかし、不慮の事故で右手を失い、ピアニストとしての地位も失った。ピアノを弾けなくなり絶望の淵を覗きこんだ彼女は、決して人前では泣かなかった。失いそうになる誇りを保つために、あらかじめそう決めてあったかのように。

 しかし、その強さを保っていたのは長い時間ではなかった。人生をかけて向かっていたピアノの前から離れてしまった現実を次第に認識するに従って、その強さはくじかれ、子どものように人前でも泣きわめくようになった。悲しみに暮れ、人の心を試すように無理を言ったり、叫んだり、怒ったり、わがままを言ったりする。それがありのままの由香里と言わんばかりに。そして、当然のように人とぶつかり、人間不信になり、ひきこもりがちになっていった。

 私は以前のピアニストの由香里も好きだが、今のわがままな由香里も好きだ。ピアニストとしての彼女は、人間性をピアノで表現していた。そして今は表現する手段を失っているだけに過ぎない。由香里そのものの人間性は、なんら変わっていないと私には思える。

 湖の周辺には、駐車場も危険立ち入り禁止という看板もトイレもない。湖の手前には、来る者をこばむように草原があり、秋には腰丈の草の錦をかき分けていかねばならない。車は草原の前にある車三台分ほど停めることができる小さなスペースにいつも停める。

 車を停車させると、由香里は車のドアを閉めずに奇声を放ちながら、わき目もふらず、草原の中へ飛び込んでいく。いましめをとかれて自由になったと言わんばかりに。それは自分自身からの解放なのかもしれないし、周りの心無い目からかもしれない。

 私は運転席側のドアを閉め、そして助手席のドアも閉め、先に走っていき数十メートル先の草原に消えた彼女のあとを追っていく。

 紅葉した草原が乾いた音を立てて風に遊ばれていく。

 こうやっていつも由香里のあとを追っていく。彼女がピアニストの頃は、憧れの眼差しでいつも見つめていた。リサイタルのときは、一番前の席から見ていたとしても、遠い存在だった。彼女が右手を失ってから、そばにいることが出来るようになった。しかし、愛する気持ちをぶつけると、するりとかわして逃げる。こうやって出かけると手を繋いだりすることもない。私が手を繋ごうとすると、どうして?という顔で私の顔をのぞきこむ。そして、私より先へ先へと道を急ぎ、一緒に並んでは歩かない。私が由香里を追いかけて追いつくと、するりと手から逃れる。そして再び追いつくとまた、するりと手から逃れていく。彼女はそうする事を楽しんでいるかのように思える。私はもてあそばれているような気さえするが、ふとしたときに見せる彼女の悲しい顔が、私をひきつけて離さない。

 追いかけてくる私を草原の中から見つめている由香里。私が見つけると、またどこかへ走り出していく。私はそうされて追いかけていくごとに由香里を手放せなくなる。

 消えた先へたどりつくと、彼女は地面にうつ伏せに寝転がって声を殺して泣いていた。心配になって肩を叩くと、待っていたように私の方を振り向いて、騙されたでしょ?と笑う。私はそうする彼女の心中を思うと淋しい気持ちになる。

 私はふてくされて隣に寝転がり見上げると、草のあいだに鰯雲がゆっくりと流れていた。由香里の頬の辺りにリンドウの花が咲いていた。しばらく草原のなかで二人寝転がって、空を流れていく鰯雲を見ていた。二人言葉は交わさなかった。車の中では助手席で饒舌に話し、笑い、怒る彼女なのだが、ここに来ると二人黙り込んでしまう。彼女は普段の生活での疲れや悲しみをここで癒やしたいのだろうと思っている。普段の生活の中では、常に自分と闘っている。四六時中。きっと寝ているときでさえも。

 そうやって寝転がって言葉なくとも二人は会話しているようにも思えた。互いに何かを訴えているように思えた。そう心の中で考え事をしていると、彼女は先に行っているよと私を置いてきぼりにして、湖の方へ向かった。

 私は彼女の頬があった場所に咲いているリンドウの花を見た。由香里が好きな花だった。この季節にしか見られない花。長い草と草の間を縫うようにして茎を長く伸ばして咲く花姿が好きだと以前に話してくれた。

 私は両手を頭の方へ大きく伸ばしてあくびをした。そして、むくりと起き上がり枯れ葉や土をはたき落とし、ゆっくりと彼女の向かった方へと歩いた。

 草原を通り抜けると、湖が見えてくる。全てを見透かしたような冷たい色の湖。由香里はその湖の色が好きだと言う。湖の水面の色を見つめていると、嫌なことも忘れると言う。

 私がこの湖が好きな理由は、彼女の眼差しの色に似ているからだ。

 由香里は湖の縁にしゃがみこんでいる。湖面に彼女の姿が映っている。湖の漣にはかなげに揺れていて、今にも消えてなくなりそうに思えた。掻き毟られるような心の痛みを覚えた。彼女はもうどこか遠くへ行ってしまうか、自殺してしまうのではないかと思った。由香里のために何かしたいと思ってきたが、自信が持てずにいた。彼女はずっと一人で苦しんでいる。何が分かると誰も寄せ付けずにいた。

 昔、由香里が私のために演奏してくれたピアノの音色を今でも鮮明に覚えている。私の体の中に眠っている音楽を揺り動かしてくれる魂の囁きだった。ピアノを弾けない今の由香里は、ピアノは弾けないけれど、まだピアニストのままだった。彼女の目が、失った右手の痕が、身体が語っていた。

 湖の縁でしゃがみこんでいた彼女に追いつくと、ほほ笑んだ。ほころびのない完璧な笑顔だったが、地面にうっすらと落ちる、影は嘘をつけてなかった。

 由香里の左手を握って、湖の縁を歩いた。ひんやりとした手は冷たい汗でしっとりと濡れていた。由香里はふっと私の手から逃れて、また先へと走っていった。

 追いかけないとしたら、由香里はどこまで行ってしまうのだろう。私はその場に足を止めて、ゆく先を見守っている。

 由香里はゆるやかなカーブを描いた湖の縁を歩いていく。そして、湖のちょうど反対側の縁でしゃがみこんだまま動かなくなった。私に追いかけてきてほしいと言わんばかりにぴたりと止まったまま。

 しばらく時間だけが過ぎていった。ふたり湖を挟んで、無言のまま。無言のままだけれど、語り掛け合いをしているように感じた。風は湖の上から上空に向けて駆け上がっていた。その風はいつものエオリアンハープのような優しい音色ではなく、烈しく強い風だった。空にはうろこ雲が速いスピードで流れ、延々と続いていた。飛行機が一機上空を渡り過ぎていった。

 湖の反対側にいる由香里は、そのうち戻ってくるだろうという甘い期待。駄々をこねる子どものような彼女に怒りに似た感情も湧きあがってくる。ふたり足並みをそろえて歩いていけたら、どんなに私も同じ苦しみの中で幸せだろうか。心に湧きあがってくるわだかまりをぬぐえないまま、反対岸から彼女を見つめていた。わだかまりは時間とともに烈しい感情に変わっていった。

 それは怒りからだったのか、それとも愛情からだったのか分からない。怒りも悲しみも愛情も、あたたかいものも冷たいものも、きれいなものの汚いものも混じった感情が心の底から吹き上げてきた。

 私は突き動かされるように、靴を脱ぎ、服を脱ぎ、下着だけで冷たい湖の中に入っていった。由香里は向こう岸で、驚いたように立ち上がって直立不動で、湖を泳ぎ渡る私を見つめていた。私はそんなに泳ぎが得意ではなかった。華麗にとはいかなかった。本当なら格好よく泳ぎ渡りたかった。男なら誰でもそう思うかもしれない。水を飲みながら、半分溺れている状態で湖を泳いでいた。

 深まる秋の午後、水は事の外、冷たかった。頭の中は真っ白になっていた。しかし、どこかで冷静な自分がいて、上空から自分の泳いでいる姿を俯瞰しているようにも思えた。彼女の立っている地点まで夢中で泳いだ。泳ぎ着き水から上がると、ガタガタと歯が鳴って震え始めた。

「何馬鹿な事してんの」

 由香里は顔色を変えて怒った。ポシェットから小さなタオルを取り出し、私の体を拭いた。しかし、全身びしょ濡れで、小さなタオルでは拭ききることが出来なかった。彼女は濡れてびしょびしょになった小さなタオルを地面に落とし、ポシェットを逆さにして、ハンカチを取り出した。そして、テイッシュまで取り出して、私の体を水を拭き取った。それでもずぶ濡れのまま震えていた。

 由香里はすべてを放り出して向こう岸まで走っていった。脱ぎ捨ててある私の服を取ってきた。我を忘れたように全速力で走っていた。由香里が走っている姿を初めて見て、その速さに感動した。華麗とも優雅とも言えない、フォームなどめちゃくちゃの全速力だった。呼吸を荒げて戻ってくると、私の前に服を落とし、ズボンのポケットから車の鍵を取り出した。
「ちょっと待ってて。車の中に私が使っているブランケットがあるから、取って来る」
ぜいぜいと乱れた呼吸だった。そして、再び全速力で駆けて行った。由香里はどこかうれしそうだった。彼女の誕生日にアクセサリーを贈ったときも、励ましの言葉を書いた手紙を渡したときも、今みたいに清らかな笑顔ではなかった。

 冷たくなった私の体は思いのほか冷たくなって、震えが止まらなかった。下着を脱いで絞って水気を切った。火があればいいのにとぼんやりと思った。車まで行けばシガレット用の火が取れるということに気がついた。私はまだ少し濡れている下着をはき、服を持ったまま車の方へ戻ることにした。湖をあとにして歩いていると、草原の中で、車から戻ってきた由香里と出合った。由香里は無言のまま、私の体をブランケットで拭いた。
由香里に身をゆだねたまま、彼女の顔をずっと見つめていた。リサイタルの時には、いつも一番前の席でピアノの音を聴きながら、顔を見ていたことを思い出した。私にとっては世界で一番美しい顔だった。

 ブランケットで拭いてくれたが、体の芯まで冷え切っているせいで、体の震えはおさまらなかった。
「車にシガレットライターがあるから暖を取りたいんだ」
「全く馬鹿なことするから!」
私の背中を思い切って三度叩いた。その力は片手だけど強かった。
「それにしても、泳ぎ下手ね。途中で溺れるかと思った」
 私の目を覗き込みながら笑った。その目は母親が子供を叱るときの目のように感じた。
「何であんな事をしたの?」
尋ねられながらも、自分でもよく分かってなかった。衝動的に湖を泳ぎ渡ってしまっていた。泳いで渡らないと、もう二度と由香里に近づけないような気がした。今までのように追いかけていくだけでは、越えられないものがあるような気がした。
「由香里に追いつきたくて」
苦笑いしながら言った。それ以上言うと、全てが嘘になってしまう気もした。
「馬鹿ね」
由香里は怒ったような顔で、でもほほ笑んでいた。いつもの淋しそうな笑顔ではなくて、本当の笑顔のような気がした。

 二人は枯れ草や落ち葉や木の枝を拾って、車の近くにある平地で暖を取った。シガレットライターから、枯れ草に火が移り、集めた落ち葉たちに火が燃え広がっていった。全身が温まるまではまだ枯れ草が足りなさそうだった。
「そこで火に当たっていて!由香里がもう少し枯れ草を集めてくるから」
私が火に当たっている間、由香里はかいがいしく枯れ草や木の枝を拾ってきてくれた。
 火のおかげで、服も少し乾き、ガタガタと震えていた体も少しずつ温まっていった。そのあいだに、太陽は山の陰に沈み、暗くなってきた。
「これだけあれば大丈夫ね」
「そうだね。ありがとう」
「どういたしまして」
もう十分ぐらいは火は燃えてくれそうだった。
「もうピアノは弾かないの?」
 恐る恐る尋ねてみた。
 由香里は燃え盛る火を見つめていた。
「本当はピアノ弾きたいの」
彼女の心のうちから出た魂のこもった言葉のように思えた。
「由香里ならきっと弾けるよ」
真顔で言うと彼女はうつむいた。
「片手でも弾けるよね」
 パチっと音を立てて炎の中で木が裂けた。
「もちろん!前よりもきっとうまく弾けるさ」
 炎に照らされた彼女からは、今までのような深い影が消えて、しんとした静寂があった。私は知り合ってから初めて由香里に近づけたような気がした。
 彼女の眼の中ある灯は、またゆらゆらと動き始めたように見えた。その色は湖の色ではなくて、炎の火影のように、暖かい色に変わっているように思えた。

 暖を取り温まれたので、火を消した。そして、手を繋いで、来た道を戻った。由香里の繋いだ手はひんやりとしていた。ピアノを弾く手なので、そっと握った。足並みにそろえるように歩き、彼女も私の歩みに合わせるように歩いていた。

 日が暮れて、群青色の空に上弦の月が南中していた。由香里は繋いだ手を前後に揺らせて遊ばせていた。無邪気な子供のようだった。
「またピアノ弾いてみようと思う」
 自分に言い聞かせるような口調で話した。不安感も垣間見える決意だった。私に出来ることがあるなら、きっとこれからかもしれない。

 繋いでいる手を放した由香里は、手首から先のない右腕を小刻みに動かし、左手の指先はしなやかに動かし、ピアノを弾く真似をしながら、微笑んだ。
 湖の漣に、月が映り揺れていた。それは生き物のようにうねっていた。秋の虫たちが一斉に鳴いて、風の音すらもかき消していた。

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