埼玉にいる私が水俣に出来ること



私がここ最近で心から怒ったこと。


水俣病公式確認の5/1の日、犠牲者慰霊式の後、水俣病の被害者側と伊藤信太郎環境相の懇談で被害者側の発言が制止されたこと。環境省は、団体側の発言中に時間内である3分を経過したためマイクの音を切ったことである。環境省はマイクの音を切ったと認め、「マイクの音をゼロにする運営をした」と説明し、7日に水俣病対策を担当する特殊疾病対策室長が被害者側に謝罪した。


なんでこんなに甚だしく憤りを感じるのか。そこには私にとってかけがえのない夫妻の存在があったからだと思う。


奥さんはすごくパワフルで、私が大学2年生の水俣合宿の時に旦那さんにだけお話を聞く予定が、「私も行くわよ」というかのように化粧をして御一緒にお話を聞くこととなった。しかし、その奥さんは昨年の4月に亡くなられた。それを聞いた時、とても辛くて過呼吸になりそうになり、泣きすぎて脱水症になったのは今でも覚えてる。旦那さんに会いたい、そう強く思った。


その旦那さんが、5月1日に、奥さんのお話をしたのだ。3分間の中でできる限り話そうとして、何度も何度も練習をして、その結果途中でマイクを切られた。「あなた方にとっては、たいしたことではないのでしょう。でもね、患者はみんなこうやって死んでいく。腹が立つを通り越して、情けがない。」そういった旦那さんの声は届かず宙に浮いたという。


このニュースを聞いた時、私は酷く激怒した。それと同時に辛くなった。奥さんの死がまだ私には消化しきれてない。しけれるわけないじゃん。あんなにパワフルだった人が、痛い、痛い、とのたうち回って、死んで行った。それが届かなかった。その夫妻のことを知っていて辛くならない訳が無い。



今の水俣市は水俣病は終わったことにされてるように思う。水俣病の展示で水俣病に関わることがないように。水俣病が無かったことにされてるのが私の感じたことであった。現在の水俣市は水光社があったりと、やはり元チッソに頼りきった生活をしている。勿論、それで家族を養っている人も沢山いる。水俣病は「チッソが全て悪かった。」と言いきれない。その時の社会構造、納税等、その他もろもろあり、「チッソ排水を止めるな」と運動が起こったことは事実だ。チッソ排水を止めることを要請しなかった国の責任もある。


今の水俣市で水俣病の話をするのはタブーになってるような気がする。チッソで働いてる人、患者さん、様々な立場の人が同じ町で暮らしているからである。


じゃあ、埼玉にいる私が水俣の患者さんに、水俣病を伝えるのに、何ができるのだろう。私はうつ病で、親の元でしか今は生活出来ない故、水俣に住むことは出来ない。想思社で働いてる立場でもない。何か伝えられることはないだろうか。展示をしたり教育に水俣病のことを深く取り入れたりなど、学生のうちでも出来ることは沢山あるだろう。今回の事件で「あぁ、私はなんて無力なんだろう」と実感した。それなら、出来ることから始めるのはどうだろうか。埼玉にいる私が水俣に出来ることはなんだろうか。まずは学ぶことだろうか。まだ私は学びが足りないだろう。学びに貪欲になって、学んで学んでそこから滲み出た部分を人に伝えていく。こんなんでいいのだろうか。よく分からないけれど。皆に水俣のことをもっと知って欲しい。そしてもっと水俣のことが知りたい。

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