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はじまり (つよがり)

僕の工房に彼女が初めて来たのは梅雨が始まったばかりの6月だった。その日も雨が降っていた。 カランと工房のドアベルが鳴り、作業の手を止めてドアの方を見ると男女が立っていた。    背の高い男と髪の長い女。

「こんにちは、ここ、橘ちひろさんの工房ですよね?」と女の人の方が言った。        「はい、そうです。えっと…今日はどういう…?」「結婚指輪を作って頂きたいなと思いまして。橘さんに。」               「あ。はい、ありがとうございます。ちょっとお待ちくださいね、10分ほど、ちょっとそこの椅子にかけてお待ちください、片づけますんで、すみません。」                「僕たちのほうこそ、急に連絡もせず、突然来てしまったから。すみません。」男の方が謝った。女の人はキョロキョロと工房の中に置いてあるものや照明や椅子を見ている。

僕は机の上を片付けて、手を洗い、何か飲み物を出さなきゃなと思い、奥の冷蔵庫にあったストレートティーを注いで、二人のいる一応打ち合わせ用にしている机に出した。         「これしかなくて。すいません」      「全然。ありがとうございます」と二人は言った。                    「3月に銀座のギャラリーで橘さんの作品を見たんです。繊細で凄く素敵だなと思って。私たちの指輪は橘さんに作ってもらえたらなと思って来たんです。ギャラリーの方にこの工房の場所を聞きました。」                  「こんな田舎までわざわざ、ありがとうございます。ご結婚おめでとうございます。お二人のお名前をお伺いしても…」            「青山たつやです。」「桜井ちひろです。」  「あ、僕と同じ名前ですね(笑)」      「そうですね、私ここに来るまで完全に女のひとだと思ってた。(笑)」          「よく言われます、ハハハ」    

これが僕らが初めて会った日だった。彼女と恋人はとてもお似合いだった。 でも、初めて会った時から目の合う回数が他に人より多く感じたのは僕だけじゃなかったと思う。

 二人は9月の末に挙式をすると言った。    「デザインは橘さんに全てお任せします。あなたの作品がとても好きなので。宜しくお願いします。」                   ふたりの話を少し聞かせてもらった。青山さんは都内の商社に勤めていて毎日多忙らしい。見た目は体が大きく、礼儀正しく如何にも仕事が出来そうな人だった。彼は32歳。彼女も都内の会社員だという。彼女は彼の一つ下。歳も僕と同じだった。                    彼は忙しいから連絡は私の方へ、と言って、  桜井ちひろ、080-○○            とメモを残して帰っていった。華奢でとても明るいのにどこか寂し気な人だった。       僕は彼女の可愛らしい文字をしばらく眺めていた。

その日の夜の内にもうデザインが完成した。自分でも驚く速さで描きあげた。描きながら彼女にまた会いたいな。と思っていた。こんなすぐにデザインが完成したとはさすがに言いづらいから、1週間後に連絡をしようと思っていたら、3日後に彼女の方から連絡がきた。

「橘さん、こないだはありがとうございました。あのね、また急なんだけど、橘さん彫金教室をやってるでしょ?習いたいなと思って。わたし。いま申し込んでも大丈夫ですか?」      「はい、大丈夫ですよ。でも場所、都内じゃないですよ。平日だし、通えます?」      「うん、少し遅れてしまうかもしれないけど、時間内にはちゃんと行きます。私、何かを作ることにとても興味があるの。お願いします。」   「分かりました。じゃ、もう来週から。来週水曜日に教室でお待ちしてますね。持ち物は…何もいらないです。じゃまた。 あ!…あのぉ…もう指輪のデザイン完成したんです、実は…」      「え!はっやい(笑)もう?もうできたんですか?3日前に話したばかりなのに(笑) どういうのだろ。橘さんがどんなのデザインしてくれたか早く見てみたい」             「じゃ、水曜日にデザイン画も持っていくので見て下さい」                「はい、楽しみにしています。ありがとう」  たった3分ほどの電話に心が躍った。

水曜日の18時から、、案の定、彼女は時間通りには来れず30分遅れて慌てて息を切らして入ってきた。他の受講者の3人が誰これ。というように見ていた。初めて会った日は白いワンピースだったのに今日はラフなパンツ姿だったので、なんとなく彼女のやる気を感じた。この日はざっと教室でどんな作品が作れるようになるのか、道具の説明と他の生徒さんがどんな作業をしてるのか見学してもらった。20時に終わり、デザイン画を見せたかったので、彼女に待っていてもらった。彼女は待っている間も僕を見ていた気がした。   「お待たせしました。見ます?さっそく見ます?」                  「見ます、見ます(笑)見たいです、見せて下さい」                   「これです」そういって僕の描いたスケッチを見せた。                   彼女はしばらく何も言わずキラキラとした目でそのスケッチブックを見て、うんうんと頷きながら微笑んで                  「青山さんもきっと素敵だって言うと思う。橘さんが表現するとこういう形になるんだね、すごい。」                   「喜んでもらえてよかった。きっと二人に似合うだろうと思ってます。これ、青山さんにも見てもらいたいからコピーしますね」        「…はい、ありがとうございます。コピーいつ渡せるか分からないけど(笑)」        「そうなんですか?」           「彼忙しいの。」              そういった時、彼女の表情が曇ったけど、それをごまかすように彼女はまた話し出した。今は青山さんの話はあまりしてほしくないのかな、とそんな空気があった。彼女は初めて僕の作品を見た時のことを話してくれた。凄く嬉しかった。彼女はここまでバスを乗り継いで来たらしい。もう遅かったからバス停まで彼女を送った。バスが来るまであと10分。ふたりで隣同士並んで待った。  何も話さずに隣にいる彼女の体温を感じて意識した。少しの沈黙があって、彼女が急に早口で言った。                    「あの…バスを乗り継いででもね、橘さんの教室に通いたかったの。どうしても会いたかった。だめなんだけど、橘さんのこと好きになってます」 「だめですよ、ほんとひどいと思う。…でも僕も会いたかった」               「夏まで、夏が終わるまででいいから。」   彼女はそう言った。             引き寄せられるように僕らはバス停でキスをした。キスの途中で「あ、バス来た」彼女が急に言うので二人で笑った。            バスに乗る彼女の後ろ姿を眺めながら、これからどうしよう、とも思ったけど、さっきの唇の感触と彼女の匂いが愛おしくて、どうにでもなるかと考えることをやめた。            名前と歳が同じ、恋人がいる彼女を僕は好きになってしまった。       

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