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落ち込む時には、1人で、静かに、ぼんやりと

2024年2月23日、三連休の初日。

今日は独りで過ごす1日。
そして、明日は三連休の真ん中だけど会社に行く日。

天気は朝から雨。とても寒い。
夜には雪が降るらしい。

きみたちはそんな中、横浜に向かってニコニコ出かけて行った。

ここ最近、自分がなにをしたいのか、なにをするべきなのか、よくわからない。

どこか遠い場所に行きたい。そういう、ぼんやりとした気持ちだけがある。

こういう時には、しっかりと、丁寧に、ゆっくり落ち込んだ方がいい。そんな気がする。

守りを固め、ある程度の身だしなみを整えつつも、攻めるようなこと、新しい何かを始めるようなことはしない。知り合いにも会わない。

ただただ、その下向きのベクトルに身を委ねて、川に放り込まれた石が、やがて川底にどすんと落ちるように、「何かの底」に辿り着くのをじっと待つ。

空腹に向き合い、孤独に向き合い、自分の小ささに向き合う。

チバの声を聴く。

たぶんまだ、チバを失った悲しみをうまく消化できていない。

本当の悲しみは、いつも、自分が思っているよりも少し後にやってくる。

ふと見た電柱のざらっとした色や、焼きたてのパンの匂いや、一人で過ごす家の空気で、突然そのことを思い出したりする。

冬の寒い日には、チバの声がよく似合う。

声には季節も温度も天気もないはずなのに不思議だ。

夏よりも冬、晴れよりも雨、朝よりも夜、喜びよりも悲しみ。
チバの声には、そういう印象がある。

モノレールでは、隣に座った外国人の男性が、生まれて半年くらいの子を抱っこ紐でかかえ、自分の上着でくるんであやしている。
とても嬉しそうに、この世の幸せを全て詰めたような笑顔で、目を細めながら子供を見つめている。

僕はその隣で、ただただチバの声を聴く。

冬の高校生のようにマフラーをぐるぐると巻き、首元をしっかり暖めながら。下を向いて、塗装の剥げた傘の先を見ながら。スニーカーの濡れたつま先を見ながら。

知ってる曲を聴き、知らなかった曲を聴き、最近の曲を聴き、昔の曲を聴く。

ただゆっくりと、下へ下へと落ちていく。

きっと、それは悪いことではない。自然なことなんだ。
そこで無理にとどまろうとすることのほうが、もしかしたら悪いことなのかも知れない。

今日は知ってる人には会わないようにしよう。
蕪木へコーヒーを飲みに行き、ゆるやかに川底へ沈み込もう。
沈みきったら、川底でエリックサウスのごはんを食べて、ビールを飲んで、ぼんやりしよう。

少し前に、幡野さんの2回目のワークショップに行った。

前回、一年ほど前に参加したワークショップは、ただただ大きな扉が開かれるような場で、自分の衝動をうまく動かすためのスイッチをオンにするような、プラグから火花が飛んでエンジンがかかるようなワークショップだった。

自分の現像。みんな大好きGRⅢ。チバが死んでから、チバの愛機でもあったことを知った。
幡野さん現像。何かが明らかに違う。

僕はそれから写真をたくさん撮った。
たぶん、それまでスマホで撮ってきた枚数より、この一年で、新しいカメラで撮った写真の方が多いと思う。

今回の、2回目のワークショップは、ハンドルというかアクセルというか、場合によってはブレーキというか、1回目で火がついた衝動をどう育てて、コントロールして、自分のものにしていくか、という場だった気がする。

僕は、衝動だけで撮る写真に少しだけ行き詰まりを感じていたので、そのワークショップを通じて自分の向かいたいところ、撮りたい写真をチューニングするつもりで臨んだ。

そこでは幡野さんから、具体的なレンズの選択肢まで含めたレンズ交換の提案をもらい、僕はそこで学んだことを振り返りながらレンズを買い替え、ついでにストラップも替え、ついでのついでにグリップも付けた。

結果、ものすごく写真が変わった。

「あ、いい光」と思ってシャッターを切る。影は光を教えてくれる。
少しずつ抱っこが大変になってきたよね。
富士山のチラ見せ

それまでと比べ、とにかく自分の中で、「しっくりくる」写真を撮れる頻度がものすごく増した。

『「つくり手の意図するところ」へ「見る人をすうーっと直に導いてくれるもの」が「技術」』(山口晃さん)
磨くほど透明になってゆくもの。 - ほぼ日刊イトイ新聞

たふん、この一年、衝動ドリブンで撮っていた写真の中で、徐々に『こんな写真を撮りたい』という気持ち、自分自身の、つくり手としての「意図」のようなものが積み上がってきていたんだろう。その気持ちが、自分の外に技術を求めたんだろう。

ヤドカリが背負う貝殻を変えるように、なにか、変えるべきものを、変えるべきタイミングで、うまく変えられたように感じている。

ある意味では『不適切』だった今までのレンズも、自分が『その時は』撮りたかった距離、撮りたかった画角、持ち歩きたいデザインのレンズだった気がするし、そのレンズと過ごした1年、膨大な写真があるからこそ、今回のレンズの「これだ!」というような感覚につながっている。

寄り道や回り道は、引きで見れば必ずしも無駄ではない。

そして、写真に限らず、入り口でいきなり技術を求めるのはとても愚かなことだと思うけど、今より何かを良くしたいと思うなら、やはり技術の類は絶対に必要だと思う。

幡野さんが現像してくれた自分の写真と、自分が現像した自分の写真とを見比べると、なんとも言えない自意識や葛藤、迷いが浮かび上がってくる。

自分はまだまだ、格好つけたり取り繕ったりしてしまう。
人生の後半戦においては、こいつらから、できるだけ手を離していきたい。

自分の現像。迷い、葛藤、自意識を足して1で割ったような色、レイアウト。


幡野さん現像。「そうそう、こうしたかったんです」という気持ち。

この前、YouTubeでワタナベアニさんが幡野さんや田中泰延さんたちと話してる時に『撮るときには衝動があるけど、見返す衝動はないかもね。』と言っていた。

それは、写真家たるものそうあるべき、ということではなく、『自分の衝動が、何に対するものなのか自覚的になろうぜ』ということなんだと思う。

写真に限らず、自分の衝動がどこにあるのか、そして、それをうまく表に出すために必要な技術はなんなのか、そのあたりが、これから生きてくなかで自分が向き合うことなのかも知れない。

ところで、ロックンロールは衝動の音楽であり、怒りの音楽であり、あらかじめ負けを定められた音楽だと思っている。遠くアフリカ大陸から、縁もゆかりもないアメリカ大陸に、人ならざるものとして大量に船に積み込まれ、そして連れてこられた土地では家畜同様に扱われてきた男たちの怒りと悲しみの咆哮。『ここじゃない』という憤りを、ここじゃない場所で叫ばなければならない、やるせなさ。

チバの声が、自分の怒りや悲しみに寄り添ってくれるのは、チバの声がロックンロールだからだ。そこには常に衝動があり、怒りがあり、悲しみがあり、その裏返しとしての愛がある。

ミッシェル解散以降のチバを聴きながら、昔からチバが好きだった友人と『ミッシェル以降のチバは、なんだかいっつも同じことをやっているよね』と、ややネガティブな意味合いで話をした記憶がある。

『いっつも同じことをやり続ける』ことの大変さを、自分は分かっていなかった。

衝動も、肉体も、才能も、やがては衰え、枯れていく。それでもチバは、最後まで叫び続けた。
そこには技術では説明できない、チバの根っこにある何か、譲れない何かがあったんだろう。

チバが生きてる時には、わざわざそんなことを考えなかった。言葉にしなかった。なぜ人は、何かを無くしてからじゃないと、大切なものに向き合えないんだろう。

多くの人は、衝動だけで人生のすべてを生きてはいけない。だから、世の常識に従ってみたり、年をとったふりをして実際に年をとってしまったり、大きなシステムに組み込まれて心を閉ざしたりするんだろう。

きっと、自分はそちら側の人間だ。

それでも、衝動だけで人生の最後まで突っ走った男がいることは、忘れないでいよう。せめて、いつか自分がチバと同じ年齢になった時、自分の何かが、しっかりと衝動を持ち続けていられるように。

技術や、歴史や、アートといった、先人から学ぶべきものたちは、きっと、そのためにある。

そして、身を委ねた川の底でしか、気づけないこともある。

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