「かんがえる」について考えてみる

「かんがえる」と聞いて、皆さんはどのような印象を持つだろうか。
目的地への行き方を考える、子どもの晩ご飯を考える、問題の解答を考える...とたくさんの文末にくっついてくる「考える」という言葉。
日常的にも色々な場面で出てくる言葉であるが、教育分野でもよく聞くというか、自分自身よく言われて(怒られて)きたものだ。
”自分で少しは考えて取り組め!” や ”大町の考えをそのまま書けばいいんだ” だの、何かと言われて学生生活を過ごしてきたと思う。しかも、高校、大学と進学していくたびにその回数は増えていったと記憶する。

では、そもそも「かんがえる」とは何なのか?
以下は、個人的な意見なのでこういった見方もあるのか程度に捉えて頂けると幸いだ。

かんがえるという言葉を改めて見つめなおすと、このnoteを書きながらも、何とも難しい言葉だと気づかされる。先ほどから文章の末尾を”考える”以外でどのように表したものかと頭を悩ませるところにも、いかに普段何気なくこの言葉を使ってきたのかを痛感できる。
「かんがえる」と聞いたときに、私の中ではその種類として
 ・手段、方法
 ・予測、推論
 ・他己、外部的
 ・自己、内部的
の4つに分類できるのではと思っている。

上記2つの、「手段、方法」 「予測、推論」については、
この道具の作り方を考える、どうすれば目的地に行けるのかを考える、これからの経済について考える…
といったような例文が正しいかはわからないが、個人的に調べることが大体可能なことについての「かんがえる」が該当するのではと思っている。もちろん、調べても分からない事はたくさんあるが、多くの場合、すでに発見されている事象や、いくつかの事象を組み合わせたりすることで達成できる事ではないかと思っている。いわゆる、最近よく聞く課題解決力や創造力などに関係する能力になると思っている。

残りの「他己、外部的」 「自己、内部的」については、
相手の気持ちを考えよう、自分自身の強みを考えよう…
といった、簡単に言えば自分と他人の心理的な事象について「かんがえる」ことが該当すると思っている。これは、前半2つと違い色々な学術的な発見や知識を事前に知っていてもなかなかすべてに当てはまるわけではなく、実際に経験しそこからどうするのかをまさしく「考える」ことが必要なものであると、自分自身の経験からも感じている。(私はこの経験することが苦手でどうしても本や文献などの知識止まりで分かった気になってしまう節がある。。それで数多く失敗した。。)つまり言い換えれば、共感や同情といった能力に近いものがあると思う。

長々と持論を書いてきたが、「かんがえる」をわざわざ4つに分類して何になるのかといえば、分類することで教えたり、身に付けたりするときにより効率的に実施できるのではないかということだ。
自分でいうのもあれだが、私は考える事は得意だと思っていた。ここで、過去形なのは、何か新しいことや、何かを組み合わせてること、関連付ける事などは非常に得意で、これが出来たために自分は考える事は得意なんだ、と思い込んでいたことがあった。
言葉とは怖いものである。なので、その当時は安直に語尾に「考える」とつけば自分の得意分野だといわんばかりに出張って問題に絡んでいき、お察しの通り大失敗をした。
そう、自分は「他己、外部的」「自己、内部的」については全くといっていいほど「考える」ことが出来ずに周りに迷惑をかけた。

今であれば、自分の得意分野であるかどうかの判断はある程度できるようになったつもりでいるが、当時は今まで自分の得意だった分野が全然通用しないことにひどく落ち込み厳しい時間を過ごしていた記憶がある。
この時、自分はより一層「考える」や「思考力」などについて調べて、何が足りないのか、そもそも本質的な「考える」とは何なのかと思考を巡らして上記のような4分類に分けることで、自分自身を納得させることに成功した。 

この分類を定めてからは、今自分が関わっている教育分野においても「考える力」を育てていくうえで、考えるにも種類があるのだから、それに適した指導法、教材の提示などあるのではないかと思い、なるべく混合しないように注意している。
また、自分自身「他己、外部的」「自己、内部的」についての考える力はあまり持ち合わせていないので、教える分野としては「手段、方法」「予測、推論」についての考える力を重点的に教えていく方針を取っている。
これらのことについては、また改めて書きたいと思う。

今回、「かんがえる」を改めて考えてみたが、もちろん色々な意見があると思う。その際は気軽にコメントなどで教えていただけると、知識を得ることだけは得意な自分にはとても喜ばしいことなので、どんどん意見を頂ければ幸いだ。


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