私はまあちゃん

(この文章は、2015年に1年間通った大阪文学学校という小説教室で提出した作品になります。私にとって、初めて最後まで書き上げられた小説でした)


 私の名は、まあちゃん。

 生まれてから四十八年、そう呼ばれてきた。

 本名は小橋雅子という。でも、「小橋さん」「雅子さん」と呼ばれたことは、数えるほどしかない。誰もが中年の私を、まるで五歳の子どもに接するときのように、まあちゃんと呼ぶ。

 別におかしなことではない。実際、私は、五歳の子どもよりも幼いのだから。

 それに私は、「まあちゃん」という言葉の、やさしくて丸い響きが気に入っている。

 私は、まあちゃんとして生まれ、まあちゃんとして生きてきた。いずれそう遠くない未来に、まあちゃんと呼ばれ続けた生涯を終えるのだろう。

 これまでの私の人生は幸せだったか? そう聞かれたら、多くの人がそうであるように、私も返答に詰まる。

 でも、「お前の人生は無意味だった。この世に生まれてこないほうが良かったのだ」と他の人から言われたら、それは違う、と小さな声で、反論したくなるのも確かだ。

 いったい神様以外の誰が、人の意味や価値を決めることができるというのだろう? 私は私に与えられた時間を懸命に生きてきた。これはその、ささやかな記録である。

 

 私がこの世に生を受けたのは、北関東の内陸部にある石塚町という名の、人口一万人にも満たない小さな田舎町だ。冬の寒さのきびしい地域で、とくに私が小さな頃は今よりずっと寒かった記憶がある。両親が暮らしていた小さな借家のとなりにはゴボウ畑があり、冬になるとその一面が霜柱に覆われた。

 田舎の小学校の教師だった母は、毎朝五時半に起き、朝食の支度をして、やはり別の小学校で教員として勤める父を家から送り出すと、歩いて学校まで通った。その年の立春を過ぎて、学校まで続くあぜ道の両側にタンポポやアザミの花が咲き始めた頃、母の腹は目立って膨らみはじめ、私は母の胎内でやがて来る出産のときを待ち焦がれた。

 母は、出産予定日の一月前までふだんと同じように教壇に立ち、雀の群れのようにうるさい一年生たちに、ひらがなや数字の書き方を毎日教えた。

 休み時間になると、好奇心旺盛な子どもたちは母のそばに寄ってきて、「先生、お腹さわってもいーい?」と聞いた。にっこりと笑った母が、「どうぞ、優しくね」と腹を差し出すと、子どもたちは、母のふくらんだ腹を、小さな手でおそるおそる撫でた。そのタイミングに合わせて、私がこっそり腹のなかから子どもたちの手を蹴り返すと、子供らはきゃっきゃと言って驚き、母も「赤ちゃんがあいさつしたね」と笑ったものだった。

 その日の朝、母がトイレに行くと、少し出血があった。ちょっと気にはなったが、予定日まではまだ一ヶ月もある。母はいつもと同じように出勤し、教壇に立ち、四時間目までの授業を終え、職員室に戻ったところで、産気づいた。

 異変に気づいた教頭先生が車を出してくれ、母を近くの病院へと運び込んだ。それから八時間にもおよぶ難産の末に、母は私を出産した。

 へその緒が付いたまま、羊水にまみれ、ぐったりとしていた私を取り上げた医者は、ゴム手袋をはめた手のひらにすっぽり入る私の姿を一目見て、マスクの奥で「いかんな」とつぶやいた。

「おめでとう、女の子です。ちょっと元気がないから、先生が様子を見ますね」

 看護婦は憔悴しきった母と付き添いの父に、そう告げた。母は、生まれたばかりの私の濡れた髪を、愛おしそうになでてくれてから、看護婦にそっと手渡した。

 医者は看護婦に、当時普及が始まったばかりの保育器のなかに私を入れるよう、指示を出した。そうして人よりも弱く生まれた私は、すぐに母親の柔らかいおっぱいから離され、ガラス箱のなかの生あたたかい空気の中で、二十日間も一人で生きることになった。乳を飲む力の足りない私は、お湯で溶いた粉ミルクを喉の奥にピペットで注がれながら、黄泉の入り口と現世の境を行ったり来たりした。

 年老いた母はいまも、「あのとき、自分の胸に抱き続けてあげてれば」と、悔やんでいる。そうして私は、重度の知的障害者になった。

 

 私が三歳になったとき、ようやく父と母は、「この子はふつうの人生を歩めない」と、運命を受け入れることを決めた。

 それまでは他の子どもに比べて明らかに発育が遅いことや、いつまで経っても私が片言の言葉も話さないことを、夜も眠れないほど心配していながらも、「いつかはまともに成長してくれるはずだ」と信じていたらしい。

 しかし三歳の定期検診で、私の目をいくら覗き込んでも、そこに知性の光を見出すことができなかった若い医師は、苦渋の表情を浮かべながら、職業的な義務として、両親に「福祉の方向で生きていくことを考えてください」と告げた。それで両親も、現実を受け入れざる得なくなった。

 その日から両親の口数はめっきり減った。母は毎晩、食事を終えると皿を洗いながら無言で涙を流すようになり、父はそんな母の姿を見るのが嫌で、近くの碁会所に通うようになり、ときおり酒を飲んでは、ひどく酔っ払うようになった。

 日中、働く父母のかわりに、私の面倒を見てくれることになったのは、母の母、つまり私のおばあちゃんだった。尋常小学校しか出ていないおばあちゃんは、それまで田舎で野菜づくりと家業の炭焼きの手伝いしかしたことがなかった人で、料理なんかはぜんぜんできなかったが、「かわいそうになあ」と言っては、献身的に私の面倒を見てくれた。

 私はいまも、この世で一番好きな食べものは納豆なのだが、それはこのおばあちゃんが、料理をする手間がいらないという理由で、毎日お昼に、畑でとったたっぷりのネギをかけた納豆を、一パックまるまる私に食べさせたことが理由だ(それに私が生まれたのは、納豆をよく食べることで有名な地域なのだ)。

 食べ物の話で思い出したが、そういえば五歳のときに、飴玉と勘違いして、父の碁石を飲み込んだことがあった。碁石は私の胃を通りぬけ、小腸までは何とかたどり着いたのだが、そこで柔らかなひだの間にはまり込んでしまった。ひとことも言葉を話せない私は、お腹の痛みと違和感を両親に伝えることができず、食べ物を食べ続け、やがて文字通りの糞詰まりとなって、死にかけることになった。

 奇跡的に腸の蠕動運動によって碁石がくぼみから抜け出し、せき止められ腐りかけていた消化物が排泄されたのは一週間後のことで、そのとき私の腹は、大量のガスで破裂寸前に膨れ上がっていた。便器のなかに白い碁石を見つけた母は、父親の頬を一発はたいてから、泣き崩れて私の命が助かったことを喜んだ。

 

 その一年後、私が六歳のときに弟が生まれた。父親は翔(かける)という名をその子に与え、「翔はおれの太陽だ」と言っては、ふにゃふにゃしたほっぺにあごひげを擦りつけ、せっかく寝ついた弟を起こして泣かせた。私も弟ができたことがとてもうれしかったのだけれど、私の脳は壊れているので、その気持ちを言葉で表現することができなかった。その代わり、広告の紙を破いて、耳の脇でぱたぱたと良い音がなるように振りながら、家中に響き渡るぐらいの大きな声で、えええええと叫んだ。

 この紙破きは、私の数少ない趣味の一つで、かなりのこだわりがある。適度な硬さを持つ紙を、5センチ角ぐらいに破り、私の研究にもとづく角度で折り曲げ、耳の脇で振ると、パタパタと心地良い音が鳴るのだ。一度、ちゃぶ台の上に置いてあった千円札を破いて鳴らしたところ、チラシなどよりずっといい音がしたのですごく気に入ったのだが、帰宅した母親に「ああっ!」と驚かれ、あっという間に取り上げられてしまった。それ以来、私の前に、破られてはいけない紙は置かないというのが、小橋家のルールとなった。もう一つの趣味はピアノだ。といっても自分では弾けないので、母の手を引きピアノの前に連れて行って「むすんでひらいて」や「さいたさいた」を弾いてもらう。母は小学校の教師だったから、一通り童謡を弾くことはできて、私は母のピアノを聞いていると、とても幸せな気持ちに満たされるのだった。

 

 さてそんなわけで、弟はすくすくと育ち、私はそれなりに育っていった。

 私の知能は一歳ぐらいで成長を止めたが、体は大きくなって、ときおり母の手にあまることもあった。家事をしている合間に私を一人にしておくと、そこらじゅうの紙を破いたり、冷蔵庫を開けて中の食べ物を食べ散らかしてしまうため、いたしかたなく足首に3メートルほどの浴衣の帯をまいて、片方の先を柱にしばり、私が台所のほうへと行けなくすることもあった。家に来る人はその姿を見るとぎょっとしたが、母が苦笑いしながら、「まあちゃん、賢くなっちゃって、こうしないとどうしようもないのよ」と言うと、困ったような顔をしながら、曖昧に頷くのであった。私は私で、足を縛るにっくき紐をほどくことに熱中するようになり、母がどれほど硬く結んでもやがては30分程で脱出できるようになった。母は抜け出して笑顔でパタパタ紙を振る私を見て、「まあちゃんは縄抜けの名人ね」とため息をつくのであった。

 しかしそんなぬくぬくとした陽だまりのようなときは、あまり長く続かなかった。祖母が糖尿病で体調を崩し、一日中、家で私の面倒を見るのが難しくなったのだ。かといって、母が仕事をやめるわけにもいかない。小橋家では、その当時、手狭過ぎたアパートを出て、無理をして家と土地を購入したばかりだったため、両親が共働きをやめるという選択は経済的にありえなかった。

 それで私は八歳のときに、うちから片道二時間ほどかかる障害児の養護施設に預けられることになった。平日はそこで過ごし、週末や連休になると家に戻るのだ。父母にとっても私と離れて暮らすことは、身を切られるほど辛いことだったが、仕方がなかった。といってもそういう事態を私が理解したのはずいぶん後のことで、私はあるよく晴れた土曜日の午後、父母とともに滅多に乗らない電車に乗って、バスを乗り継ぎ、突然見たことのない白い建物に連れて行かれたのだった。その建物は周りが塀で囲まれ、庭にはいくつかの遊具と運動場があり、プラスチックの窓が入った木のドアが玄関と建物内部とを仕切っていた。そのドアにはカギがついていて、職員以外には開けられないようになっている。

「まあちゃん、今度の土曜日になったら、迎えに来るからね。いい子でいてね」

 目を真っ赤にして母は私を抱きしめ、それではお願いしますと保育士の女性に菓子折りを渡し、何度も振り返りながら、父とともに施設をあとにした。

 保育士は父母の姿が見えなくなると、私にほほえみかけて手をにぎり、「まあちゃん、こんにちは」と言った。そしてテレビの置いてある大きな部屋へと引っ張っていき、「先生、晩御飯の用意しなきゃならないの。ここに友だちがいるからね。仲良くしてね」と言って、私をそこに残し部屋を出た。私は急に一人ぼっちになった。その部屋には、私と同じような子どもたちが何人もいた。それぞれ一人ぼっちでゆらゆらと体を動かしたり、頭をかきむしったり、虚空をぼーっと見つめていたりした。

 私はここで、これから一人で生きていくのだ。そう思うと、急に寂しくなって、不安がこみ上げてきた。私は眉を八の字にして、顎を突き出し、右の手の甲で自分の顔を打った。不安なことがあると、私はそうやって、たまに自傷行為をしてしまう。

 急に肩を掴まれたので、後ろを振り返ると、頭にラグビー選手がつけているようなヘッドギアをかぶった、髪の短い、私より少しばかり年齢が上に見える男の子が立っていた。その子は焦点が合わない目で私を見ながら、「いーいー」と口から音声を発して、

(やあ、僕はすすむ。よろしく)

 と、私に心で語りかけてきた。

(私はまあちゃん。初めての場所でちょっと怖いの。よろしくね)

 と、私も心で返事をした。

 すすむくんは、私より二つ上で、もうずいぶん長い間、この施設にいることがあとでわかった。

(うちの親は、りこんしてるんだ。ぼくがずっとちいさい時に、一生しょうがいしゃだとわかって、お父さんが家を出ていった。それから帰ってこない。お母さんはすなっくで働いていて、いそがしいからあんまりむかえにきてくれない)

(そうなんだ……)

(でも、昔だったら、ぼくらみたいな子供は、ザシキローってところに閉じ込められて、まわりの人に気づかれないうちに、死んじゃってたらしいよ。そう思うと、ここはたいくつな場所だけど、まだマシかな)

 すすむくんはそう言いながらも、やっぱり親が迎えに来ないのが心のなかでは寂しいみたいで、夏休みとかお正月とかの、長期の休みに入る前になると、よく精神が不安定になる。お父さん、お母さんが迎えに来てくれるのを待って、ニコニコしている友だちの髪の毛をむしりとったりするので、保母さんに「すすむくん! だめでしょ!」と怒られて、よくカギ付きの部屋に隔離されていた。

 私が十三歳になったばかりの春休みのことだ。ひさしぶりに家に帰ってから何日か経った土曜日、私は免許をとって間もない母の車の後部座席に坐って、スーパーに買物に行っている母の帰りを待っていた。

 私はそんなとき、ついつい体をリズミカルに動かしてしまうクセがある。体を前後に揺らしているうちに、なんというか、グルーブが生まれ、ノリが良くなってきて、自然と笑顔が浮かび、無意識に、えへ、えへ、と声も出てしまう。そのときも、私は一人でときおり、えええええ、と歓喜の叫びをあげながら、車の中で、体を前後に揺らして楽しんでいた。車も私の動きに合わせて、ゆらゆらと揺れていた。

 すると突然、後部座席の窓ガラスが、ばしっと音を立てて、黒い何かに覆われた。どうやら、泥団子をぶつけられたようだった。何が何だかわからなかったが、窓の外に目をやると、自転車に乗った四、五人の小学生たちの一団が、こちらを見ながらゲラゲラ笑っているのが泥の合間から見えた。

「やべえ、逃げろ」

 そう言って、小学生たちは、自転車のペダルを踏み込み、スーパーの裏側のほうへ走り去っていった。そのいちばん後ろで、口をへの字にしてこちらを睨んでいる翔と目があった。翔は自転車を止めると、涙を溜めた目で私にあかんべーをして、友達の後を追いかけていった。

 いつも帰省しているときは、八畳間に川の字に一本の棒を足したかたちで、私の家族は布団をしいて寝ている。奥の床の間から、父、翔、母、そして私、の順番だ。私は布団のなかでも、眠れないときは母によく抱きついて動くので、自然にそういう順番になった。

 しかしその日の夜、八時過ぎに翔と私の二人が寝床につくと、翔はわざわざ私の隣りに来て、布団のなかで「まあちゃんの馬鹿。なんであんなところにいるんだ」とつぶやきながら、私の腕やほっぺたを思い切りつねった。私は痛かったこともあるけれど、それより翔に申し訳ないのと、自分自身が情けなくって、うーうーうーと大声を上げて泣いた。

 私をからかう友達を見ながら、「あれは僕のお姉ちゃんだ」と言いだせなかったときの翔の気持ちを想像すると、たまらなかった。私の頭が悪くなってしまったのは、私のせいではないのだけれど、私がいなければ、翔に辛い思いをさせることはなかった。そう思うと、悲しくてたまらなくなり、私はこれまでにないぐらいの勢いで、自分の顎を自分の手で打った。

「なんでまあちゃんいじめんだ、この馬鹿たれが。まあちゃんはおめえのお姉ちゃんなんだど」

 茶の間でテレビを見ていた父が、いつの間にか翔の隣にいて、耳を掴んで顔を覗き込みながら、本気で叱りつけていた。翔は涙を溜めながら歯を食いしばり、「だってまあちゃんが」と言いかけた。父は最後まで言わせず、翔の頬を平手で打った。父の目にも涙が浮かんでいた。翔は号泣し、布団から飛び出て台所の母のところに駆けていった。父は自傷を続ける私の手をとり、私の体をきつく抱きしめた。酒臭い息がかかったけれど、父の思いは痛いほど伝わってきて、私はうーうーと唸り続けていた。

 

 それから三十五年が経った。

 翔は中学時代にいっときグレたりしたのだが、その後、このままではいけないと思ったのか一念発起して一浪の末に地元の国立大学に入学し、工学を学んで、東京に本社のある中堅の機械メーカーに入社した。そして営業マンとして真面目に働き、三十五歳のときに、六つ歳下のかわいい奥さんをもらった。奥さんは、翔が仕事で出入りしていた食品会社の総務で働いていた女性で、一目惚れした翔が不器用に口説いたらしい。奥さんは私にも、とてもやさしくしてくれる。

 じつは翔は三十歳のときに、別のつきあっていた人と結婚の話が出たようなのだが、私の存在を向こうの家族が知ったために、その話は立ち消えとなり、程なくして二人は別れてしまっていた。

 翔はそのことについて何も言わなかったが、母と父は「たとえ所帯を持ったとしても、うまくいかなかったっぺな。考え方ってもんが違うんだから、しゃあんめえよ」と二人でビールを飲み交わしながら話していた。そのときちょうどテレビで、ある種類の知的障害を持つ子どもは生まれる前に、羊水の検査で判断がつくようになった、というニュースが流れた。母と父はそれをじっと無言で見ていた。

「私らのときにこれがあったらどうだったろうね」母が言った。

「うーん、わかってたらなあ」

「でもまあちゃんはかわいいよ。いつまでも赤ちゃんでいてくれるから」

 そう言って、母は私の頭をなでた。

「そうだな。それに、まあちゃんがいっから、今の暮らしがあんだよな」と、父も頷いた。

 じつは母は翔の前に、一人男の子を妊娠していたのだが、その子が腹に宿ったことを知る前に、うっかり風邪薬を飲んでしまっていた。それで母は、悩んだすえに、その二人目の子を堕ろした。父母は子どもは二人で十分だと考えていたようだから、翔はその真ん中の弟が生まれていたら、この世に存在しなかったはずだ。

 翔の奥さんは、翔と一緒になってすぐに妊娠し、男の子を出産した。私の甥っ子にあたるその子はいま、あのときの翔と同じ、小学校1年生だ。

 今年の夏に、帰省したとき、私がみんなより早くご飯を食べていたら、隣に座っていたその子が急に、ビールを飲みながら高校野球をテレビで見ていた翔のほうを見て、

「ぼく、まあちゃん嫌いだ」

 と言った。

「なんで?」

 と翔が聞くと、

「だって、納豆のにおいが、臭いんだもん」

 と言った。翔は少しの間だまって、甥っ子の顔をまっすぐ見ながら言った。

「そんなこと言うなよ。まあちゃんは、パパの大切なお姉さんなんだ。それにまあちゃんは、生まれてから、一度も誰かにいじわるをしたり、悪口を言ったことがないんだぞ。そんな人のことを、悪く言ったり、いじめるのは、いいことだと思うか?」

 甥っ子はしばらく伏し目がちにしていたが、やがてうなずき、そうだね、ごめん、まあちゃん、と私に謝ってくれた。私は翔がそう言ってくれたことが、とても嬉しかったのだけれど、私の魂と体の間には、何重もの膜みたいなものがあって、気持ちを態度で表わすことが難しい。それで私は、焦点が合わない目で甥っ子を見て、えへえへえへと声に出して笑った。

 すすむくんのお母さんは十年前に死んでしまって、ごま塩頭に相変わらずヘッドギアをつけているすすむくんを園に迎えに来る人は誰もいなくなった。他の子の髪の毛をむしるくせもおさまって、いまは穏やかとなったことから、保母さんたちにも「すすむくんはベテランだからね。新しい子たちの面倒見てあげてね」と頼りにされている。

(ぼくらって、なんで生まれたんだろうね)

(さあ。わかんない)

(かみさまは不公平だよなあ。ぼくの頭がまともだったら、きっと科学者になって、いろんな人にやくだつ発明ができたと思うんだけど)

(わたしもきっと、音楽のせんせいになって、ピアノをひいてみんなを楽しませていたと思うな)

 すすむくんと私は、いつもそんなことを心のなかで話しながら、施設の中庭でひなたぼっこをしている。

 ときおり私は生まれてこなかった真ん中の弟とも話をする。

 弟はたまに春の風や夏の草いきれの中から姿を現してこっちをじっと見ている。私も弟をやさしい目で見つめ返して(もうすぐみんなでそっちに行くから待っててね)と声をかける。母も父も年老いて、帰省したときにおんぶしてもらうのは悪い気がするのだが、「まあちゃんがいるから体を丈夫にしておかねえとな」と言って二人とも健康に気をつけているようだ。

 私はまあちゃん。私は、まあちゃんなのだ。

                                (了)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?