2022年10月10日
ここのところ孤独感が強く、おそらくそのせいで常に頭痛がしている。セロトニンの不足から脳の特定の部分になんらかの損傷が始まっている気がする。かなりキワキワの瀬に立っている気がするが、薬に頼れば良いか、それとも己の創意工夫により耐えることで何かの境地が拓けるのか分からない(拓けた先は統合を失うという境地なのかもしれない)。医学的にはきっと薬を飲んだ方が良いのだろう。明日にもあの軽薄な薬物売人のような医師のいる心療内科へ駆け込むべきなのだ。それでも薬で脳を麻痺させてしまうのはどこか勿体無いような気がして躊躇している。この現在地点の状況も、恐らくは私の人生の規定プログラムであり、真正面から引き受けてなんらか意味を見出す必要があるのだろうから。こういった思考には宗教性を見つけることができる。私は特定の何かの宗教に帰依しているわけでは決して無いのだが、「宗教者」的な属性の人間だという薄らした自覚がある。
SNSなどで得る雑多な断片情報によって思考が細切れとなり遷移させられることに邪魔されながらも、断続的に己と対決することで暫定的に見えているものは、「自己」なるもののイメージの二つのあり方だ。一つは行住坐臥体内を貫く一本の鋼鉄のような軸芯、もう一つは靄のようなものの塊だ。この軸芯には常時真っ直ぐに頑強に貫かれているという身体的な感覚がある。靄の方も同じく心臓の辺りに燻るように存在しているという感覚がある。この二つの身体的感覚の根源は本来同一のものだが、それが二方向に二種のやりかたで同時に表出しているのだ。以前は「自分探し」と言われるように、己というものが身体のどこかに確固として存在して隠されており、探し出すものだと思っていたが、現時点で掴んでいる感覚としては、己とは不定形かつ不安定な靄のようなものの塊であり、常に時間の経過環境の遷移に触発されてその色形を変化させていっているに過ぎないようだ。しかし、靄が凝固しかけているような一部分もあり、それが軸芯のような感覚を与えている。外界からの刺激が無ければ己は立ち現れてこないし、「成形された己」どこかにあるというのは間違いのように思う。靄のようなものの色形は刻一刻と移ろいゆくのでそれを捉えて置くのは難しく、その都度スケッチしていかないとすぐに霧散してしまう。だから当面はなるべくこの心にうつりゆくよしなしことを書きつけていくことに努めたい。それが他者にとっての何の価値もないチラシ裏の落書きのようなものであったとしても、私にとってはプラトンの言う「魂の出産」に違いないのだから。
今日は遠藤周作の『死について考える』というエッセイを読んで、「生活」と「人生」は異なるという概念を得た。遠藤周作の言葉を要約すれば、人生とは世間や他人にはかくす自分の心の奥底に関するもの。それに対し生活はこの生を維持するのに必要なものだが、自分の心の奥底にあるもの、自分の人生の核になっているものを無視、軽視することで成立する。というようなことだ。その理論で省察すると、「人生」を常に主眼に置いていきたいという欲求が強すぎるので、本末転倒的に生活を煩わしく感じ、この矛盾に吐き気を感じているという構造が浮かび上がってきた。
今年を通して考えていることは、孤独感と資本主義経済といかにしてうまく付き合っていくかという2点につきるのだが、今日はマルクスの『労働と資本/賃金・価格・利潤』に手をつけてみた。価格と利潤と賃金の関係など、私には難解なのでふわっとしか理解できていないのだが、読み進めるうちに嫌でも自分がいかに搾取対象の奴隷として徹底的に教育をされて、不都合な真理は隠されてきたということに気づかされるのでだんだんと世界に対する不信が募り恐ろしくなってきた。しかし、マルクスの視点から一枚世界の皮をめくってみることで世界のグロテスクな肉づきと骨格を見ることができるのでエキサイティングな感覚がある。
このように最近は本の著者の語りに耳を傾けることで孤独を解消するよう努めているのだが、このコミュニケーションは一方的で、読者である私は受動に徹する他なく、著者に対して自己を物語ることが出来ないという深刻な欠陥がある。(自己を物語ることが「自己の存続」に必要不可欠であるということは、精神医学において指摘され、治療に取り込まれている。)自己を物語ることは取り組まねばならぬ急務だ。その一環としてこのように雑文を書くということもやっていこうと思っている。