ある種のものごと考(2022年10月23日)

 最近考えていることを書き出そうとしたら「ある種のものごとは別のかたちをとる」というフレーズが浮かんだ。これがなんのフレーズなのか、記憶をたぐり寄せて、高校の現代文の教科書に載っていた村上春樹の『レキシントンの幽霊』という短編小説のものだとわかった。もうあらすじをぼんやりと覚えているだけだったのでKindleで購入してさっと読んでみる。
 正しいフレーズは「つまりある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ」であった。高校生当時はよく意味が理解できなかったから、謎として断片的に記憶に残っていたようだ。再読してみれば、何のことはなく容易く理解できた。何も変わっていないつもりで確かに変化はあったのか。
 この小説のこの文脈での「ある種のものごと」の(現時点での解釈における)意味は「愛」だった。冒頭の通り、このフレーズを最近考えていることの分脈に置いてみれば「ある種のものごと」は、禅的「無」や、老荘的「気」といった絶対無分節の「なにか」だと思っていたのだが、小説を読み返して結局それは広義に「愛」ということでよいのかもしれないなどと思った。
 結局のところ、科学も哲学も宗教も芸術も人の営みの目指すところは同じ「ある種のものごと」なのだということ。これ自体はよく言われることだが、最近自分で歩いて辿り着いた。辿り着くまでに歩んだ道のりは私だけのものだから、私事として腑に落ちた。最初からその地点を目指して歩んでいたのではなく、個別の事象に対する些細な疑問を深めていったらどうもそこに行き着くらしいというような形で現れてきた地点。世界の深遠さから考えればこの地点もまだゴールなどではないし、ゴールなどないのだろう。

 最近は自分で書く文章がだいたい似たような内容と形式になることに、また、私があまりにも「私」についてしか考えていないことに、うんざりしている。「私」というスクリーンを通してしか世界を認識できない構造だから意識せずにいたらそうなりがちなのだろう。
 だけどもうそろそろ「私」を超え出てもう一歩外へ広がりたい気がしている。恐らく死んだら強制的にそうなるのだけど、死ぬつもりはないので生きたままやりたい。大仰に言えば、自他の枠線を意図的に超え出て、他の幸福をそのまま私の幸福と感じられるようになりたいというようなことだ。それは悟りと言えることなのかもしれないし、到底至ることのできない領域だろう。それでも書いていて思ったのだが、このような意識の萌しは、ある種のものごとが別のかたちをとり始めている萌しなのだと考えてもよいのだろうか。

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