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象と象使い

「わかる」ということは突き詰めれば感情である。岡潔と小林秀雄の対談本か何かだったと記憶しているけれど、1+1=2とわかるのも感情だということを言っていて、大学時代に衝撃を受けたのを覚えている。それまで自分の中にあった靄が少し晴れた気がした。「わかる」ということそのこと自体には究極的には理屈などなく、最後は感情だというのだ。高校受験の時も、同級生が「はいわかったー」やら「完璧にわかった」などと口にするのを聞いてどぎまぎしていた。その当時の私には、何をもってして「わかった」と言えるのかがわからなかったからだ。もちろん今では、自分なりの意味付けはできてはいるけれど。

音楽を聴きながら

結局「わかる」ということは、対象のものを自分の言葉に落とし込んで人に話すことができる、ということだと思う。人に説明できるということは、自分以外の人間にもわかる言葉で話すということだから、実は対象のもの自分との間でどんな距離感をとっているのか把握することが大切になってくる。音楽を聴きながら作業をすることは多くの人が実践していることだと思うけれど、あれは注意を分散させることで、取り組む作業との適切な距離を調整してるのだと思う。その作業に適切な音楽を選び、適切な音量で私たちは作業をすすめていたりする。

「本当にわかってる?」

最近、中途採用の子が悩んでいる。何をもってして「わかった」のかわからず悩んでいるその子を見て高校時代の自分を思いだしていた。上司の「本当にわかってる?」という問いに対して、「私、わかってるのかなぁ…」……その気持ちめっちゃよくわかる(笑)。「本当にわかってる?」という問いは、『「わかる」ってこういうことだよね』と定義できていない人には地獄の問いなのだ。先の言葉を借りれば最終的には感情の問題なのだから。とりあえず、さしあたり自分なりに「わかる」ということを定義してあげないと深みにハマっていく。

「わかる」ことの不確かさ

きっと「わかる」ということそのこと自体をめぐって悩んだことのない人も多くいると思う。無意識的に「わかる」を自分の中で定義できている人がそうだ。高校時代の私はそういう人がうらしやましいと思っていたけれど、今は別の思いをもっている。「わかる」ということについて意識的に定義していく人と、そうでない人がいるということを認識することが大切だと思う。きわめて理性的な行為っぽい「わかる」ということは、つきつめればどこにもその理はない。それはとても不確かなことだけれど、そういう不確かさを認めることが想像力の始まりなんだと思う。

こんな内容を、もっと伝わりやすい形にするためにnoteをはじめようと思います。noteを重ねていくたびに、もっと素敵な表現が見つかりますように。

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