東京タワーの思い出

僕は東京生まれ東京育ちで、亡父も東京生まれ東京育ちだ。父方の祖父は鹿児島生まれ鹿児島育ちで東京に移住してきたので、残念ながら完全な江戸っ子というわけにはいかないが、父方の祖母は東京生まれ東京育ちなので、準江戸っ子だとは思っている。

よく東京のものが意外に行ったことがない場所として挙げられるひとつに東京タワーがある。

まあ、そんなにしょっちゅう行く場所ではないとは思うが、僕の場合、片方の前足の指で数えられるくらいは行っている気がする。記憶にある限りのいちばん最初は、おそらく小学校の社会科見学だったと思う。何年生の時かはおぼえてないが、学年3クラスでバスに乗って行ったのではなかったか。

その後は、たぶん大学時代に例のすごいアパート

で知り合った同級生たち(皆、地方出身者だった)といっしょに1回だけ行ったのと、その後、2回別々の女性とそれぞれ1回ずつ行ったのがすべてのような気がする。

合計で4回だ。

ただ、観たことがある回数を数えれば、それこそ何十回にもなるだろう。周辺に出かけることもあったし、政治家の選挙事務所でアルバイトしたこともあったし、夜の首都高をぐるぐる走ってライトアップされたのを二輪や四輪の中から観たりということもあった。

ちなみにスカイツリーはまだ一度ものぼったことはない。工事中から何度も観てはいるが。

そんな東京タワーが完成して披露の式典が行われたのが今日、12月23日ということらしい。マスコミへの公開は12月7日にすでに行われており、一般への公開は翌24日9時からだったそうな。そこからしたら12月24日が「東京タワーの日」でも好かったんじゃないかとも思う。

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さて、僕は4回だった東京タワー登頂記録(笑)だが、亡父はどうだったのだろう。

着工以前から東京にいたわけだからその完成までの道程も目撃していたわけだし、それでいえば僕がスカイツリーができるまでを観ていたのと同じようなものだろう。スカイツリー完成からもう7年と10ヶ月が経っているが、いまだに僕はのぼったことがない。

僕は変わり者だが、亡父も頑固者で変わり者。流行には見向きもしないふうに思っていた。子供の頃の記憶にも、上野動物園には何度か連れて行かれた思い出があるが、東京タワーにいっしょに行った記憶はない。だから、亡父は東京タワーになど興味もなくのぼったこともないだろうと僕は思っていた。

2007年の11月に父が亡くなった。その頃、父は祖父の残した鹿児島の土地に家を建て引っ越していたから、そっちへ出向いて遺品の整理などをしていた。その後数年こっちと鹿児島を移動していろいろやることになるのだが、その年は1ヶ月ほど滞在していたと思う。さすがに鹿児島といえども12月になればそこそこ寒くはなる。

そろそろこっちへ戻ろうという時、父の着ていたコートが出てきた。焦げ茶色の分厚い生地のもので、今のような作りではなく中綿の入ったようなずっしりと重いものであった。葬儀の時には長居するつもりはなかったので僕は真冬の服装ではなかったため、ちょうど好いと思って、そのコートをもらっていくことにした。父は僕よりも背が高く着丈としては膝くらいまですっぽりあるような感じだったが、その重さといい僕はとても気に入って帰ってきた。

さすがにオートバイに乗るにはそのコートじゃ無理なので、いつものライディングウェアを着ていたのだが、それ以外の時はお気に入りのためにしょっちゅうそれを着ていたわけだ。

間抜けな話だが、そのコートを手に入れてからしばらくの間、まったく不可解なほどに不自然だったのだが、一度もポケットに手を入れたことがなかった。なぜだったか、いまだに理由が思い出せない。

そんなある日、何かの偶然でコートのポケットに手を入れた時、中に何かが入っているのに気がついた。

それはなんと、東京タワーの入場券だったのだ。それも2枚。日付が入っていて、それはタワー完成からまもなくのものであった。僕が生まれる前、母親とデートでもしていた時のものであろうと推測される。母は鹿児島生まれ鹿児島育ち。地方出身者を連れて行くには、当時完成したばかりの東京タワーは格好のデートスポットになっていただろうと想像に難くない。あんな無骨で変わり者で流行に背を向けるようなタイプの父が、完成間もない人気スポットにデートに行ったとか、なんか笑えてしまう。

しかし、なんでそんな昔のものがポケットに残っていたのか、いまだに謎である。もちろん母にはそんなこと聞いてはいない。無粋だからね(微笑)。

ここまで御注視いただき、ありがとうございます。まだ対価をいただくほどの作品を挙げていないのですが、ご好意はありがたくいただきます。