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『萩尾望都がいる』(長山靖生)批判

2022年7月に発売されたばかりのこの本ですが(光文社新書)、例によって発売前に5ちゃんねるで曖昧に予告されてました、長山氏ではなくその友人が5ちゃんねるに書いたのでしょうが……

遠からず大きなのが来るらしいが、まだノートは知らないみたいだなw

【萩尾望都】大泉スレ★2【竹宮惠子】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/iga/1652964184/471

ノートというのは私のことですが、私が知らないのは当たり前です。まだ5月下旬のことでした。それにしてもSF界隈(一部)の仲のいいこと

一読してこの本は、竹宮さんへの悪意に満ち溢れた本だと感じました。なるほど、『SFマガジン』の連載はあれでも本人としては「極力公平な記述を努めた」のだなと思ったほどです。kindleで購入したので、「竹宮」で検索かけてみたのですが、本文だけで131件ヒットしました。タイトルは『萩尾望都がいる』じゃなかったの?と副題でもついてるのか確認しちゃいましたよ

では本書をだらだらとみていきましょう、とくに断りのない限り、引用文は『萩尾望都がいる』からの引用になります

 昭和期には三島由紀夫や司馬遼太郎のような「 国民作家」もいましたが、それ以降、 彼らのように文学の範疇を超えて社会全体に影響力を持つ作家は出ていません。今の時代、みんなが知っている作品があるとしたら、漫画かアニメになるでしょう。しかし手塚治虫や宮崎駿は優れていても、その価値観は一 時代前のものだと感じてしまいます。その理想を私は懐かしく尊く思いますが、一九七〇年以降のリアルとはずれがあります。
  では、この半世紀の現実や私たちの気持ち、新たな理想への模索を代弁してくれるのは誰か。萩尾望都――という名前がここに浮かびます。

のっけからのけぞってしまいました。ここまで大きく出るとは!
いったい、長山氏にとって萩尾さんってどんな存在なんだろう?自分にはこのように感じる人物というものが存在しないので想像もつかないです、ましてそれが萩尾さんとは!

 私事で恐縮ですが、私の家では少年漫画は「 絵が汚い」との理由で禁止(例外は手塚治虫の『リボンの騎士』と『ジャングル大帝』。でもあれも少年漫画ではないか)でしたが、少女漫画はOKでした。そのため小学一年生から『 別冊マーガレット』を読み、やがて『 別冊少女コミック』も読むようになりました。『ポーの一族』には雑誌掲載時の「 メリーベルと銀のばら」(七三年一月号~三月号)から入りました。 

「絵」が綺麗か汚いかで子供に読ませるかどうかを判断するっていうのもあまり聞いたことのない話ですがそれはともかく、ここで疑問なのは長山氏は『別冊少女コミック』を1973年1月号から読み始めたということになります。1972年12月号にも「ポーの一族」は載っていたのですが、これは読んでないということなので

では、その一年前の1972年『別冊少女コミック』1月号に掲載された「あそび玉」を読んだのはいったいいつの話なのでしょう?著者は1962年10月生まれとのことなので、「あそび玉」が掲載された時点では、わずか9歳。「あそび玉」は原稿が紛失したため、長い間、雑誌でしか読めなかった幻の作品です、以下、長山氏が「あそび玉」について書いているのですが

 無駄なコマや文字が一切なく〝絵を読み込む〟とどこまでも 深みが広がる作品。地球を「テラ」と呼ぶことも、私はこの漫画で知りました。

長山氏は地球を「テラ」と呼ぶことを「あそび玉」で知ったと書いてあるので、1977年に「地球へ…」が連載開始される前に「あそび玉」を読んだということになるのでしょうか?まさかSF好きの著者が「地球へ…」の存在を全く認知してなかったということはないでしょう
それでは古い『別冊少女コミック』(1972年1月号は国会図書館にすら置いてありません)をどこからか見つけてきて「あそび玉」を読んだということになるのですが、いったいどうやって?
失礼ですが、著者の記憶が改ざんされているということはないのでしょうか?

『ポーの一族』の前半は、エドガーと妹メリーベルの物語であり、後半はエドガーとアランのそれですが、メリーベルが前半で消えねばならない理由も 明らかでしょう。少女/女性は子どもを産む存在で あり 、本質的にバンパネラと矛盾します。

いきなり「子供を産む存在」という話が出てきて、わけがわからず、何か読み落としてしまったか?と前のページに戻って読み返してみましたが、とくにそのような記述もありません。「産む性」かどうかが決定的な差を生じるという感覚は「産む性」である私にもわかりません。その後に続く文章はさらに理解できません

 メリーベルは少女ですが、彼女に恋する男もいるでしょう。男は積極的にプロポーズするし、追い求めもする。彼女の時は一三歳で止まっていますが、あと数年すればふつうに結婚適齢期です。一八、一九世紀には婚約しても不思議ありません。メリーベルに魅了されて真剣に、彼女を永遠に――「わずか数十年程度の永遠」をかけて――愛する男も現れかねないのです。身を潜めて生きねばならない存在にとって、こうした真剣な愛は脅威です。
 少年たちはまだ安全です。一四歳の少年を誰も本気では愛さない。もちろん彼に恋をし、結婚を意識した愛を抱く少女も現れるかもしれませんが、少女の側からプロポーズすることはありません。せいぜい、少年が「男」として自立して自分にプロポーズしてくれる未来を空想するばかり。
 つまり、前者は真剣に愛されることによって孤独であり、後者は漠然とした夢の中の存在であり続けることによって孤独なのです。そんな孤独な時間が、もしかしたら永遠に続く。時間の分だけ孤独は深まり、記憶の滓が重なっていく。

これ読んで納得できる人っているんでしょうか?「結婚」や「プロポーズ」がなぜここで取り上げられるのか?著者にとっての「孤独」とは何なのか?まずそこから定義してほしい。エドガーが言ってる「孤独」ってその程度のことなのでしょうか?

一四歳の少年――萩尾望都の発見、あるいは発明

増山さんのことが一言も書かれてないのがなんとも。「14歳」が増山さんの発見・発明なのかどうかは知りませんが、萩尾さんに「14歳」についての意識を植え付けたのは増山さんですよ?この点は大泉本にも書かれていたじゃないですか

 増山さんと私、のことで少し話せるとすれば、私も増山さんにお会いしてなかったら、甘やかな少年同士の友情の世界に目を向けることはなかったでしょう。
 年齢が14歳ということにも拘らなかったでしょう。

私が大泉本で知って驚いたことの一つは、「ポーの一族」も「トーマの心臓」も増山さんの存在あってこその、あの形なんだなってことでした

 たちまち三○○枚ほどにもなったその作品原稿は、しかし小中学生の女子をメインターゲットとしていた当時の少女漫画雑誌では、掲載の機会が容易には得られず、この時点では同じ問題意識を踏まえた短編「11月のギムナジウム」を発表するのが限界だったことは、第Ⅰ章でも述べました。

「トーマの心臓」に関しての記述です。第Ⅰ章を読んだ時も同じことを思ったのですが、萩尾さんは「トーマの心臓」を商業誌に掲載しようと画策した様子は一切見受けられません。『思い出を切りぬくとき』(河出文庫)にも書いてありますが

「ええ……三年ぐらい前から趣味で描いてたやつで、発表しようと思ってたわけじゃないから、かなり変な話なのですけど……。でも、キャラクターはおもしろいので、一度キャラクターだけ集合させて『11月のギムナジウム』って話をこさえて、発表したことがあるんですが……」

はっきりと「発表しようと思ってたわけじゃない」と語ってます。原稿が300枚というのも、最終的に300枚になったのはいつなのかはっきりしてません。「たちまち三○○枚ほどにもなった」というのは何か根拠があるのでしょうか?『思い出を切りぬくとき』では「六○ページほど、話として読める部分を編集さんに見せた」とあるので、大泉サロンで人に見せた部分も最大限見積もっても60ページほどと考えるのが自然でしょう

 愛されるのが最高の幸福なのではない。愛することこそが真の幸福である。ユーリはトーマの犠牲を通して、そのことに気付きます。だから、彼は、神を愛しすべての人を愛するために神父を目指すのです

『トーマの心臓』についての考察ですが、「愛することこそが真の幸福」だとユーリが考えたなんていったいどの部分から読み取れるのか?
ユーリは「ええバッカス……神さまは人がなんであろうといつも愛してくださってるということがわかったんです」と「愛されること」については語ってますが……もちろん長山氏が個人の感想としてそう思ったというならそれはそれで構わないのですが、こうも断言されてしまうと……だって全くそんなことを思わせる描写はないんですよ?

神父を目指すことについても、萩尾さんは藤本由香里氏との対談(『少女まんが魂』白泉社)で「シンプルな言い方をすると、『トーマの心臓』の場合はユリスモールは聖職者になるんですが、ジェルミのほうは、修道院に逃げなかったキャラクターの話です。」と語り、これに対して藤本氏が「えっ、ユリスモールが修道院に入ったのは、あれ、逃げたっていう話なんですか?」と尋ねると「どうしていいか、わかんなかった。」と答えてます。
とても「神を愛しすべての人を愛するために」神父を目指したとは思えないのです

大泉のアパート生活解消後、竹宮は下井草のマンションに移っており、そこに増山も同居していたので、増山もその場にいて、「いいのよ、どうなのか、ちゃんと言って」などと竹宮側に近い発言をしたようですが、後年の発言からみると増山は、竹宮が何を怒り、何を言っているのか十分に理解しておらず、友人同士の喧嘩に居合わせてしまった程度の認識だったようです。

いや、さすがにそれはないのでは?大泉本に載ってますが、増山さんは城さんに電話で「あ、あなただけは、ケーコタンのことわかってくれると、味方だと思ってたのに」と語ったそうなので、「なんだかよくわからないけどケーコタンの味方しちゃおう」って増山さんが考えていたとはとてもとても思えません、増山さんはそういう節操のない人じゃないと思います。対外的にはあえて理解していないふりをしていただけなのではないでしょうか

 萩尾の『大泉の話』は衝撃的で、書評や、両者の“大泉問題”に関する記事はたくさん出ましたが、二○二一年の時点で映画『悲しみの天使』はDVDなどで容易に視聴できるにもかかわらず、それすらせずに曖昧な書き方をしたものがほとんどだったのは残念です。

すごいなあ、よくこんな自分にブーメランがいつ飛んでくるかわからないようなことを平気で書いてしまえるなあ。長山氏なんて数千円も出してDVDを買わなくても簡単に調べられることすら調べてなかったりするのですが……

それに、竹宮さんのクロッキーブックの話もきちんと書いてくださいよ、「先を越されて錯乱した」(この書き方もどうかと思うけど)とだけ書かれたら、何も知らない人が読んだら、まるで竹宮さんが頭のおかしい人みたいじゃないですか

 もうひとつ思い出したものがありました。雑誌によくある著者アンケートです。『別冊少女コミック』七二年八月増刊号の「フラワーちゃんのおしゃべりサロン」コーナーで、マンガ家各氏が「暑い夏をイカニシテのりきるか」という質問に答えているのですが、二人の回答は次のようなものでした。
 竹宮惠子「まずクーラーがある友だちをみつけるの。それで遊びに行って、ひとりで鍵をかけてはいるの!」
 萩尾望都「大型冷蔵庫(シモーがな~い!)を買ってはいろうカナ?」

よくまあこんなくだらない話を取り上げたものだと思いますが、ここで疑問なのが「もうひとつ思い出したものがありました」というくだりです。1972年の『別冊少女コミック』しかも増刊号をいったい著者はどこで読んだのでしょう?長山氏が9歳の頃ですよ?上でも書きましたが、長山氏が『別冊少女コミック』を読み始めたのが1973年1月号ということになってるようですが?

実はこの「暑い夏をイカニシテのりきるか」という記事は5ちゃんねるの大泉スレで話題になったものなのです。だから長山氏もそれを読んで言っているのだと思いますが、そんなに「5ちゃんねるで知りました」って書くのはイヤなんですかね?

女性漫画家のSF作品が少年誌を華々しく飾ったのは、一九七七年のことでした。萩尾望都による光瀬龍『百億の昼と千億の夜』のコミカライズの登場です。

これも、『SFマガジン』のほうにも似たようなことが書かれてましたが、『地球へ…』連載開始が1977年『月刊マンガ少年』1月号なので、『百億の昼と千億の夜』より早いんです。まあ、長山氏の独自ルールで『月刊マンガ少年』は少年誌に含まないということなのかもしれませんが

「あそび玉」は、AIが管理する〈善良で豊かなコンピュ―トピア〉で、超能力者がAIの想定外存在として排除される話で『地球へ…』は冒頭の玉あそびだけでなく基本構造がよく似ています。

5ちゃんねるでも「『スラン』に玉を操る逸話はない。その萩尾さんオリジナル部分を真似たから物議をかもした」と不思議なレスをした人がいたのですが、『地球へ…』には玉を操るどころか玉あそびをしている描写もないんですよ。長山氏も本書で

重心が中心にない「あそび玉」を自在に操ることが発覚のきっかけである一方、それ自体が超能力開発の訓練でもあるという設定は、萩尾のオリジナルです。

と意味深なことを書いてますが、SF界隈(の一部)で「地球へ…」には玉を操る玉あそびの描写があるという間違った情報が固定されてしまったのでしょうか?
「地球へ…」の最初の方を読み返してみれば、簡単に気づけたことだと思うのですが

 しかし増山原作が明らかにされると、今度は〈原作・原案がいて、それを再現するというのも、私がはじめちゃったことなんですね。(中略)当時は少女マンガではなかなかできなかったんですよ。原案協力とか、原作出すだけでも、許されなかったんですね〉(「『地球へ…』新装版発売記念インタビュー」)と述べているのは、歴史的事実を無視した不思議な発言だと指摘しておきたいと思います。

これもねー、5ちゃんねるで話題になったことをそのまま考えずに引っ張ってきたんだと思いますが、元のインタビューを読めばわかりますが、ちょうど長山氏が省略した部分で「いまではCLAMPさんみたいに、みんなで分担して描くという形もできてきましたけど」と述べているように、ただの原作・原案についてではなく、複数の担当に分かれて同時に協力しながら作り上げる形式について言ってるんだと思います。まさか竹宮さんともあろう方が、原作つき原案つき自体を自分が初めてだなんて言うわけないじゃないですか

 それでも「死刑」ではなく「永久冬眠」なのが萩尾SFらしいところですが、危険度の高い“セイ”だけは“分解”されてしまう。
 しかし分解されて粒子となっても、彼女はネクラ・パスタや火星や地球に偏在しているのかもしれません。

『スター・レッド』のセイは分解されても意識だけ残って、ヨダカがその意識を取り入れて妊娠して、女の子(ジュニア・セイ)が生まれるという話ですが、だったらセイの魂?はその子に受け継がれているのでは?
そういえば著書は「11人いる!」の白号の軌道計算を激賞してましたが、私はそんなことよりサンシャインの最後の台詞がとても気になって……「火星はもうないんだよ…ジュニア いつもこの時期には見られたんだがな」これ、火星はシリウスみたいな遠い恒星と違って見える時期は一定しないんですよ。私も「銀の三角」に対して、音は真空を伝わらないじゃないかとまで野暮なツッコミはしませんが、このサンシャインの台詞はラストの決め台詞なんですよね

シリーズ最終話「シュールな愛のリアルな死」では、再度メッシュの父ホルヘスが、さらには母マルシェも登場し、両親それぞれが抱えてきた家族問題や関係性の困難が明らかになります。そこでメッシュは失望も味わいますが、両親の小ささも知り、完全には理解しないものの、許しの気持ちも湧きます。

これが間違ってるとは言いません、でも肝心の部分をスルーしないでほしかった。「メッシュ」最大の謎は、「エーメには子供ができない ただ一人血のつながった 息子なんだから」という台詞の持つ意味ですよ、ここを語らずして「メッシュ」を語られてもなー
素直に考えると、メッシュの三人の妹はすべて養女でホルヘスと血のつながっているのはメッシュただ一人だから、メッシュはホルヘス(父親)が自分を愛していることに気づいたという解釈になるのですが、本当にそんなのでいいんですか?ここに疑問を持たないで描いてしまう萩尾さんに疑問はないんですか?「ただ一人の実子だからパパは僕を愛してるに決まってるじゃん」なんてラスト、とっても困惑なんですけど

リカ自身、自分が産んだ息子を全面的に愛することができません。しかしここでは、①娘ではなく息子という異性であること、②自身の経験から、あらかじめ子どもを愛せないかもしれないという不安を認識していた、という二つのクッションによって、リカは彼女の母のような強い拒否感を我が子に持たずにすみました。

私も実は「イグアナの娘」のリカの産んだ子の性別を最初は男だと思っていたのですが、実はこれ、息子じゃなくて娘なんですよね。「ママに似た美人だねー」という父方の祖父の台詞があるんですよ。確かに女の子にしてはごついんですが、父親の体形に合わせたのでしょう

しかし、生まれた子が男と女でそんなに感じ方が違うものでしょうかね、長山氏の男女観にはちょっとついていけません、間違いに気づいて娘だと知ったら、また別の理屈を組み立てるのでしょう

親子の葛藤とは、究極のすれ違う愛です。しかもこのすれ違いは、そのまま遠ざかることなく、必ずすぐに戻ってくる。DNAのらせん構造でつながっている親子関係は、決して断ち切ることはできません。自分の半身が遺伝子レベルで溶け合っているのだから。

私の嫌いな文章の典型とも言えるような文章です。
実に「雰囲気」だけで中身がない
「究極のすれ違う愛」…ここでの「愛」ってなんですか?「DNAのらせん構造でつながっている親子関係は」…らせん構造が関係あるんですか?らせん構造って言いたいだけ?「自分の半身が遺伝子レベルで溶け合っているのだから」…血のつながってない他人よりは共通する遺伝子は多いでしょうが、そんなのあくまで相対的なものでしかないのでは?
この文章に限らず、長山氏の記述ってそんなのばっかりなんですよ、「自由」「対等」「自立」「孤独」などなど、この人は何を言っているのだろう?といちいち考えてしまう。まあ、私の理解力の無さが原因の一つであることは否定しませんが

二○一二年、お父様が亡くなります。その年の一二月、萩尾先生の「喪中につき、新年のご挨拶は控えさせていただきます」の葉書にはバイオリンを弾く青年の絵が描かれていました。また二○一八年、お母様が亡くなられました。喪中欠礼葉書には、天使が描かれていました。そのお顔が含み笑いのおばさまのお顔だったので、「あれ」と思ったのですが、お母様の似顔絵なのだと気付きました。

なるほど、長山氏はただの熱狂的萩尾ファンというわけではなく、リアルで萩尾さんと交流のある人なんですね、へー

こうして物語は、平穏な日常景色の中で幕を閉じますが、すべてが片付いたわけではありません。

『残酷な神が支配する』に関する記述ですが、むしろ「サンドラへの告白」以外、何も片付いてないといったほうが正確なのではないでしょうか?
そのもっとも重要な「サンドラへの告白」(お墓のサンドラですが)をどうして取り上げないのか不思議です、ここが萩尾さんにとっては一番大切なポイントでしょうに

最後に、「24年組」に関して

長山氏は「24年組」にとても拘ってます、実は彼こそ世界一「24年組」に拘っている人と言っても過言ではないのでは?私は少女漫画を読み始めて数十年、長山氏よりは多くの少女漫画を読んできたはずですが、今まで、いろいろな漫画家に対して、この人は24年組でこの人は24年組に入れるべきではない、などと考えたことはただの一度もありません。そんなことは作品を読む上でどうでもいいことだから。ポスト24年組についても心底どうでもいいですね。私が好きな三原順が入ってようがなかろうが評価はゆるぎないんです。おそらく、大抵の読者は私と同じなんじゃないでしょうか?24年組なんて「昭和24年生まれ近辺の漫画家で少女マンガに新しい影響を与えた人」程度のゆる~い認識ですよ
多分、世界で二番目に「24年組」にこだわっていた?増山さんも、自分流の24年組を紹介しただけで、これぞ「真の24年組」だ!他は許さない!って言ったわけじゃないでしょう。竹宮さんは竹宮さんで、あまり深く考えてなさそうですよ、大泉に招く人についても、『少年の名はジルベール』で以下のように語ってます

「今度も選びに選び抜いたわよ!」と言って、私と萩尾さんがそれぞれ仕事をしているところに、増山さんが手紙を持って入ってくる。私も萩尾さんも「この人はちょっと……」みたいなことは言わない。すべてお任せだった。

 こうしたファンの人たちだけではなく、私たちが読んでいるマンガ雑誌に斬新な作品を描く新人がいれば、そして彼女らと知り合うきっかけがあれば、よく大泉サロンに招いた。
 向こうからの訪問も大歓迎。増山さんは電話魔で筆まめだから、集まる人は徐々に増えていき、わずか半年の間に常時数名が合宿中という感じになっていった。

竹宮さんに、大泉サロンに招く人を厳選しようという意思はあまり感じられません。『竹宮恵子のマンガ教室』(2001年 筑摩書房)でも、長山氏が引用した部分と別の部分で

――その頃の“花の24年組”というと竹宮さんたちの認識には誰が入っていたんですか?
竹宮 岸裕子さんとかそういう同世代のマンガ家さんたち。ちょっと毛色は違うけど、牧野和子さんとか、平田真貴子さんとか。なんかもう自分でマンガ家さんたちを呼び集めるという感じで『少女コミック』それから『別冊少女コミック』に全部私が声かけてひっぱってきちゃった。
「おいでよ、おいでよ」って(笑)。たくさんそういう人がいたほうが、ムーブメントにはなるから。
――そういう人ってどういう人ですか?
竹宮 まだ若くて、でも何か連動して新しい動きを作りたいと思う作家は一緒の場所にいないと。「私たちだって読みたい作品が三本は載ってなかったら雑誌なんて買わないじゃない」とか言って。私たちはまだ、私たちの作品一本で雑誌を売ることはできないけど、ある雰囲気でまとまっていれば買ってくれるんじゃないかと思ったんです。上原きみ子さんなら彼女の作品だけでも雑誌が売れるかもしれないけど、私たちはまだ、そういう存在にはなれないから「みんなでまとまろうよ」という気持ちがあった。

なんと牧野和子さんですよ?『ハイティーンブギ』の作者ですよ?
この人まで含めるなら逆に誰が24年組に入れないマンガ家なんだろう?もう竹宮さんの場合、作風に関しては「世界一ゆるゆるの24年組」観と言ってもいいくらいです

そういうわけで長山氏の言う「恣意的」「ブランド化」「排他主義」みたいなことを少なくとも竹宮さんに感じることはないですね。ノリでしゃべってる感はありますが……

(追記)
『萩尾望都がいる』の装丁って『わたしの少女マンガ史』(小長井信昌 西田書店)にそっくりなんですよ。装丁が同じ人なのかと思ったら別人でした

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