萩尾望都の「11月のギムナジウム」
萩尾さんの初期の作品の中でわりと評価が高く、文庫本のタイトルにもなっている「11月のギムナジウム」ですが、大泉本によると、この作品は「肉体の悪魔」(ラディゲ)からヒントを得て作られているそうです
竹宮さんの好きなコクトーの「恐るべき子どもたち」は自分も昔から好きだったという主張を入れてくるあたり、とても萩尾さんらしいなと思ってしまいます
ここでの疑問は「※注」の部分です。竹宮さんは「少年の名はジルベール」で「暖炉」について
こう書いています。本当は「兄嫁」じゃなくて、一緒に育った血のつながらない「義理の姉」なんですけど、竹宮さんって自分の描いた作品の記憶ですら、ちょっといい加減な人だということがよくわかります
で、大泉本の記述だけを読むと、竹宮さんが「暖炉」にとてもよく似た「肉体の悪魔」のことを言いたくないから、そこを伏せて、「死んでもいい」という映画を挙げたと捉えられてしまいそうですが、竹宮さんは、私の知る限り、過去に二度も、「暖炉」について「肉体の悪魔」への感想文として描いたものだと語っているのです。一度目は1976年「ガラスの迷路」(フラワーコミックス)のあとがきで、二度目は1980年「竹宮恵子・萩尾望都 少女まんが家になれる本」(二見書房)。竹宮さんは二度も語ったことを書くのもためらわれて、「少年の名はジルベール」では、刺激を受けた別の映画「死んでもいい」を挙げたのか、単に記憶が混乱してたのかそこはわかりません
萩尾さんはそのことを知らなかったのでしょう。それで、城さんが「少年の名はジルベール」の内容を萩尾さんに語った際に、竹宮さんは嘘をついているとでも思ったのでしょうか?わざわざ、「※注」までつけて、竹宮さんとの記憶の食い違いをアピールしています。それも「編集者の指摘」なんて曖昧な言い方でなく、はっきり「少年の名はジルベール」に書かれていたと書けばいいのに。というか、大泉本の編集者が萩尾さんに「指摘」したことが一度でもあったということに驚きました。あれは完全に放任だと思ってました。これが本当なら、もっと別の重大な点を指摘してくださいよ、山ほどあったでしょうに
大泉本では、他にも「三重ブレ」のシーンについて、竹宮さんが真似したと思わせたいのか?と受け取れかねない「匂わせ」がありましたが(決してストレートにそうは書いてません)、あれも竹宮さんの絵は、逃げていく少年の残像を描いているだけで、「あら、竹宮先生もこんな風にブレて三重に見えたりするんだ、変なわけではないんだ」というような話ではありません。よくまあここまでイヤらしい書き方ができるなと
5ちゃんねるの大泉スレの萩尾ファンは、同じ「肉体の悪魔」から出来上がった「11月のギムナジウム」と「暖炉」では作品の出来が全然違う!と、いつものように「11月のギムナジウム」を褒めたたえ、「暖炉」をこき下ろしていましたが、私から見たら「11月のギムナジウム」ってびっくりするほどおかしな話なんですよ。それに萩尾ファンの言うような「肉体の悪魔」の換骨奪胎でもなんでもありません。単に設定の一部を真似ただけ
よく覚えてないのですが、これを初めて読んだのは多分、小学生か中学生の頃で、いくらなんでも、この母親は自己中すぎないか?って不快だし、ストーリーも暗いし、この話をいったいどう受け止めればいいのだろう?と疑問でした。なんでこれが名作扱いなのか理解できなかったです
「11月のギムナジウム」の主要人物トーマとエーリクの母親は、人妻なのに15歳の少年と浮気して、双子を産み、エーリクは「わたしたちの子よ」と言って夫に嘘をつき、夫婦の実子として育て(「外国から帰った夫は何も気づかなかった」そうだけど、普通なら妊娠時期がおかしいって気づかないか?)、トーマのほうは死んだ15歳の少年の両親へ引き取られ、その両親の実子として育つ……という話です
妻の心は夫にはなく、夫は妻の浮気を疑うわけですが、それに対して
ここまでシラを切り、一方我が子として育てているエーリク(本当は会いに来たトーマ)に対しては
そりゃ、エーリクの父親となって、養育費も稼いでくれる夫は、この妻にとって「必要」でしょうが、そんなことをぬけぬけと語ってしまえる呆れるほどの図々しさ。そういう台詞は、せめて浮気して双子を産んだことを夫に正直に話してから言ったらどうなんだろう?正直に話したら、夫の側はこんな嘘つき妻を「必要」となんてしないだろうし、「パパにつくしている」っていうのも、夫を騙している妻の言える言葉なのだろうか?
しかも、自分で育てることができなかったトーマのことを大して気にかけることもなかったようで、トーマがどこの学校に通っているかも把握せず、エーリクが同じ学校に入ってしまう危険性も認識してなかった模様(まあ、ここを追求すると“物語”が成立しないので仕方ない面もありますが)
そして、トーマは雨の降る日に、実の母親にこっそり会いに行くのだけど、母親の方はこれがトーマだとは夢にも思わず、そっくりなエーリクだと勘違い、一方的に息子に自分の言いたいことをしゃべったあげく、傘もささず雨に打たれたトーマは、なんと肺炎で死んでしまうのです。えーっ、こんなことで殺す?
エーリクからトーマの死を知らされ、この母親は悲鳴をあげることもなく気絶。気絶するような繊細な神経がこの母親にあったとも思えないのですが
一方のエーリクはトーマが自分の双子の兄弟だということを察し、級友のフリーデルもトーマから聞いた秘密をエーリクにペラペラと語ったので、すべてを知ることになり
と極度に美化された思い出に浸りますが、読んでるほうとしては、諸悪の根源である母親が強烈すぎて、そっちに心が奪われ、とても真面目にエーリクに共感する気にはなれません。
トーマとの追憶にふけるより、まずエーリクは自分の母親の人間性に衝撃を受けないのだろうか?今まで実の父親だと思っていた人物がアカの他人だったことのショックはどうなってるの?トーマもあんな酷い実の母親に会いに行ったことで命を落としてしまうなんて、こんな馬鹿馬鹿しい死に方もないだろうに、15歳少年の実家に引き取られたことは、あの母親に育てられるより、トーマにとってむしろ幸せだったのではないか?などなど……印象に残るのは「世にもアホらしい双子の悲劇、かつ、托卵され、真実を知らない夫の悲哀」のほうなんです
萩尾さんとしては、運命のいたずらで引き裂かれた双子の一瞬の出会いと永遠の別れ……といったものをこの上なく美しくドラマチックに描いたつもりで、まさか読者が「脇役の母親に目が釘付け!!!」という状態になってしまうとは想像できなかったのでしょう。あの、意味不明なまでに自己中な母親も、萩尾さんにとっては「普通の範疇」にあるのか、それとも、脇役のキャラ性なんてどうでもいいと考えているのか、多分両方なのでしょうが、そのバランス感覚の無さが怖いです
でもまあ、内容はともかく、表現力も凄いし、雰囲気もいい作品だとは思います。それで当時は一部で「傑作」扱いされたのでしょうが、ド・マニアの中には当然「母親が馬鹿すぎて読んでられない」という当たり前の指摘をする人もいたはずです
おそらく、こういった批判に反論したかったから「城」で高校生とセックスする教師妻のメディーナに「恋したことないのね」って言わせたのでしょう、ほんと、萩尾さんのやることはわかりやすい(ここは妄想です)