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竹宮惠子さんの「嫉妬」

竹宮さんについては、作品をあまり読んでこなかったせいもあって、あの「風と木の詩」を描いた人という以外の印象が薄い漫画家でしたし、大泉本が発売されても、竹宮さんの人格についてはそれほど興味もなかったので、初期の頃は、その話題はスルーしてました。それでも、二年近くスレにいる間、私の竹宮さんに対する評価は上がる一方だったのです。とくに詳しいわけでもない私が竹宮さんについて語るのもおこがましいのですが、考えたことを書いてみます

竹宮さんは「扉はひらく いくたびも」(中央公論新社)でこう語っています

その『ロンド・カプリチオーソ』は、弟の才能に嫉妬する兄を主人公にした物語で、萩尾さんへの嫉妬や劣等感を叩きつけたような作品でした。

一方、「萩尾望都がいる」(長山靖生)では

目を病んだ萩尾は「小鳥の巣」を描き上げた後、半年以上にわたって漫画を発表できませんでした。(中略)
視覚障害はかなり深刻だったようです。
 おりしも竹宮は『ロンド・カプリチオーソ』(七三~七四)で視覚を失った弟を、兄が「ただの盲目! なんのねうちもない!」と見下し嘲る場面を描きます。

などと一部だけを取り上げて、意図的に読者に悪印象を与えたいのだろうか?と思わせる書き方ですが、「ロンド・カプリチオーソ」全体を通して読むと、決して弟を「見下し」、「嘲る」のではなく、兄の深い苦悩、弟への愛情、嫉妬、その他もろもろ、兄の弟に対する複雑な心のありようが丁寧に描かれているのが読み取れます

そんな「ロンド・カプリチオーソ」に、竹宮さんから萩尾さんへのメッセージが込められていることは、竹宮さんと萩尾さんが疎遠になり、萩尾さんの目の状態が良くなかったことを知っている人ならば、誰でも気づけたと思うので、当然、これを読んだなら城さんにもわかったはずです。少なくとも、ロンカプを読んだ後だったなら、佐藤さんから「竹宮さんの嫉妬」について注意されても、驚くことはなかったでしょう
(以下、大泉本より)

 で、その嫉妬の話を聞いた時、「ええ? 嫉妬!?」って驚きました。私から見たら竹宮先生は自信たっぷりに暮らしているように見えたし、アシスタントへの指示や指標ひとつとっても、萩尾先生よりよほど合理的でわかりやすく説明できる方でした。(中略)
 そんな風に二人は全然違うタイプでしたから、竹宮先生が萩尾先生に嫉妬してるだなんて、そう言われるまではまったく思いもしませんでした。

ということは、佐藤史生さんが城さんに「竹宮さんの嫉妬」について注意したのは、ロンカプ連載が開始される直前あるいは直後なんじゃないかと思います。佐藤さん自身はちょうどロンカプのアシスタントをやっていたので、竹宮さんの嫉妬をいち早く作品から理解したのだと思います
(以下、大泉本より)

「竹宮先生が萩尾先生に嫉妬して大泉が解散した」ということを最初に言ったのは私ではなくて、佐藤史生さんなんです。史生さんと一緒にアシスタントしていた頃、下井草や岸さんちを行き来していた時だったかな? 「ケーコタンがモーサマに嫉妬して大泉を解散させたんだ、ケーコタンに同調してモーサマを苦しめるんじゃない」との注意でした。

1972年 大泉解散
1973年 「ポーの一族 小鳥の巣」掲載
1973年 下井草での絶縁   
1973年 「ロンド・カプリチオーソ」連載・佐藤史生さんが城さんに「竹宮さんの嫉妬」を伝える
1974年 「トーマの心臓」連載

時系列でいうとこのようになるでしょうか?
おそらく、城さんはその後にロンカプを読んで、佐藤さんの語るように、竹宮さんの嫉妬が大泉解散理由であることを受け入れたのでしょう。ロンカプを読んでいなければ、あれほど自信を持って竹宮さんに「大泉が解散したのはあなたの嫉妬のせいでしょうが!」とは言えなかったと思うのです。
しかし、なぜか大泉本ではロンカプの話題は一言も触れられていません……
で、不思議なのは

 山田ミネコさんには、イギリスから帰ってきてしばらくして会いました。
 (中略)
 ささやさんのアパートで会って、夜、並んで寝ている時、ネコちゃんが聞いたんです。
「あんなに仲が良かったのに、どうして竹宮さんや増山さんと別れたの?」

と、大泉本に書かれている点です。萩尾さんがイギリスから帰ってきたのが1974年2月なので、ロンカプ連載はほぼ終わっていた頃でしょうから、山田ミネコさんは、ロンカプに描かれた「嫉妬」には納得していなかったということなのでしょうか?
この時、萩尾さんは「もう……ちょっと離れましょう……とか言われたから……。」と答えています(大泉本)

1975年に山田ミネコさんは再び

「大泉が解散したのは城君と佐藤史生さんのせいだってね、竹宮さんからそう聞いたよ」

と電話で城さんに語っています(大泉本)

 山田ミネコさんは、私が曖昧なので、竹宮先生に聞いたそうです。「大泉のみんなは友達じゃあないの、なんで?」と(ここはささやななえこさんの話)。
 そして、「大泉が解散したのは城さんと佐藤史生さんのせいだ」と竹宮先生に言われ、で、ネコちゃんは城さんに聞いたそうです。

おそらく、山田ミネコさんは、「城さんと佐藤史生さんのせい」という理由にも納得しなかったのでしょう、でなければ、わざわざ当の本人に向かって、こんな発言をするとはちょっと考えられません
つまり、山田ミネコさんはロンカプで描かれた「嫉妬」にも納得せず、「城さんと佐藤さんのせい」という説にも納得できず、当時の萩尾さん側の事情に詳しい城さんに直接話を振って反応を伺ったということなんじゃないかと思うのです。これは1975年ということで、1974年に「トーマの心臓」が描かれた後の出来事だという点も興味深いです。山田ミネコさんが実際何を思ったのか不明ですが、竹宮さんが温めていた「風と木の詩」との類似を感じ、原因は本当はここにあるのではないかと考えるのは萩尾さんや竹宮さんの周囲にいた人たちにとっては自然なことだったと思いますので

1973年週コミ44号から1974年週コミ13号 「ロンドカプリチオーソ」
1974年週コミ19号から52号 「トーマの心臓」

萩尾さん自身は、下井草の絶縁以後は竹宮さんの作品が読めなくなったと言っているので、「ロンド・カプリチオーソ」を読んでないとしても、城さんは読んで、おそらく、その内容を萩尾さんに伝えたのではないかと思います。しかし、萩尾さんへのメッセージを込めたロンカプ連載終了直後に「トーマの心臓」の連載が始まってしまったわけで、竹宮さんにとってはこれはなんとも堪らない出来事だったことでしょう

竹宮さんは2016年の「少年の名はジルベール」でも、大泉解散の原因を自分の嫉妬によるものとしています
(以下、「少年の名はジルベール」より)

「それぞれスープの冷めない距離でやっていこう」というような形になって、私が実はもう下井草(東京都杉並区)に部屋を見つけていることを話すと、萩尾さんも「じゃあ、私も近くにしようかな」と言った。「それはいやだ」という言葉が頭をかすめる。萩尾さんが遊びに来れば、また焦りや引け目を感じるに決まっている。本音が言えないまま、「うん、そうだね」。私にはことが運んでいくのをどうしようもなかった。

ここまで竹宮さんの「嫉妬」を中心に書いてきましたが、私個人は嫉妬は大泉解散の主な原因ではないと考えています

まず、城さんが佐藤さんに「嫉妬」と聞いて驚いていること。私は城さんの判断力を高く評価しているから、城さんが驚いたのなら、そう考えるだけの状況があったと思うのです

次に、山田ミネコさんも「嫉妬」説に納得してなかったのではないかと思われること

第三に、木原敏江さんが「あなたね、個性のある創作家が二人で同じ家に住むなんて、考えられない、そんなことは絶対だめよ」と語っている点です(大泉本)。萩尾さんは木原さんの友人ですが、この発言は徹底して「中立」的なものの見方です。どこがどう「絶対だめ」なのかを具体的に語るわけでもありません。仮に木原さんが「竹宮さんの嫉妬」を主な原因だと捉えているなら、こういう言い方はしないと思うんですよ。「二人の力量が同じくらいならいいけど、片方が抜きんでてると難しいわね」というような言い方になるんじゃないかと思うんです

四番目の理由として、萩尾さんは表現の優れた漫画家だとは思いますが、竹宮さんの目指す方向性ともちょっと異なるように思うのです。幻想的な雰囲気マンガを描きたい!という漫画家が萩尾さんに嫉妬するのはまだ理解できるのですが……、なんというか萩尾さんっていろいろ異質すぎて、「とってもヘンな人」ということで嫉妬の対象にならないような気がするんです。それに、竹宮さんは、誰かに嫉妬するより「風と木の詩」を一刻も早く描きたいという想いが強かったようにも思えます

最後に、これは最近知ったのですが、竹宮さんは小学館の竹宮恵子作品集の「ファラオの墓」(作品集13巻目、1979)に、「少年の名はジルベール」で書かれたこととは明らかに矛盾することを書いているのです

昔、まだ比較的“自分の時間”を持てた頃、雑誌に載せることとは全く無関係に、自分の楽しみのため、あるいは友人を喜ばせるために、いろいろと作品を描いていましが、「ファラオの墓」も、そんな作品のひとつでした。
たまたまその未完成の原稿が、編集者の目にとまり、世に出ることになったのです。

「少年の名はジルベール」では「ファラオの墓」について、「風と木の詩」を連載するには、次に描く作品がアンケート1位を取ればいいと編集者に言われ、増山さんに相談し、「貴種流離譚が、いいよ」とのことで、出来上がった作品ということになっています

つまり、どちらかが嘘ということになるのですが、おそらく「未完成の原稿が、編集者の目にとまり、世に出ることになった」という記述が嘘なんでしょう。これは「記憶違い」などというものではなく、意図的な嘘としか考えられません

私はそれまで、増山さんに関すること以外で、竹宮さんがこういった嘘をつく人だとは思ってなかったので驚きました。さすがにお年のせいもあって、記憶違いと思えるものは多少見られますが。
その時点では既に竹宮さんへの信頼が出来ていたので、これには何か理由があるに違いない、と嘘をついた理由を考えました。以前も書きましたが、竹宮さんは「ファラオの墓」連載前の1973年9月に、週刊少女コミックの「一ページ劇場」で、風木を描きたいとの熱望を書いているんですよ。その後に連載されたのが「ファラオの墓」なので、連載中から、なぜ風木ではなく「ファラオの墓」なのか?という読者の疑問が竹宮さんや編集部に多く寄せられていたのではないでしょうか
そこへ、「アンケート1位取ったら風木を連載できると言われて描いた」なんて当時は本当のことは言えなかったんじゃないかと思います。編集に抗議が向かうでしょうし、「ファラオの墓」ファンに対しても失礼な話です。ひょっとして、そんなに無理して風木の連載化にこぎつけたのに、萩尾さんが先に同じモチーフで描いてしまったという批判を生じさせない意図もあったのかもしれません
何も語らずに黙っているという選択もあったと思うのですが、竹宮さんが「一ページ劇場」を書いてしまったことで、そりゃファンが疑問に思うのも当然ですから、何か書かなくてはと思ったのではないでしょうか

つまり、竹宮さんは、諸事情を考えて丸く収まるような「嘘」をつく人なんだろうと思います

ということで本題に戻りますが、大泉解散の件も、竹宮さんにとっては、自分の嫉妬を原因とすることが誰も傷つけない最良の方法だったんじゃないかと思います。モチーフを真似されるのが嫌だったなどと言えば、萩尾さんにも必然的に批判が向かいますから

本当は、萩尾さんの創作における無神経さに耐えられなかった、それが一番の理由だと私は思います。なにより、当の萩尾さん自身が「嫉妬」を「排他的独占愛」として捉えたことが大泉本で書かれてます

粘土をこねるように何年も「嫉妬とは何か?」という命題をこねていったのです。
 そのうちに、だんだん、こういうことだろうか?と気がつきました。

 彼女たちが、漫画界に画期的な「少年愛新作」を掲げてお披露目をする計画だったのに、先に私が男子寄宿舎ものを描いてしまったら、印象が薄れてしまうと思います。とんでもないことです。私はそうと知らぬままに、無自覚なままに、無神経に、彼女たちの画期的な計画を台無しにしてしまったのです。
 私がやっと気がついたこの気づきは、間違っているかもしれません。確かめたわけではありませんから。やはり、私がダメ人間だから、それで嫌われたのかもしれません。考えると、またよくわからなくなってきます。

この記述の後、「排他的独占愛」の話が続き、

 では私は「あなた方の漫画革命の邪魔をしてごめんね、排他的独占領域に触れるとは知らなかったのよ」と、謝るべきでしょうか?
 いいえ、謝らないでしょう。もし謝ったら、出来上がった私の作品、キャラ、その世界に対して失礼ですから。作品のタイトルも、彼らの名前も、どの会話も、どのエピソードも、どの絵も、全て私のオリジナルなものです。彼らはちゃんとした命のある存在です。そのような作品のテーマと個性は萩尾望都という作家の頭から、私の考え、私の夢、私の幻想として生まれたものです。それは私の側の愛です。

 私は思います。作品はオリジナルなもの。
 だけど、そのジャンル――男子寄宿舎――に踏み込んでしまったことで、あの方たちが深く傷ついたであろうことも想像できます。
 物語の構想を語り合い、いずれ来るであろう革命を夢見る時、二人は幸福だったでしょう。フランス革命を起こした革命家のように、世の中を変えるのだと使命感を持っていただろうと思います。あの幸福な時間はそのまま完成するはずだった。
 萩尾望都さえいなければ。
 本当に私さえいなければ、あの幸福な時間は、完成していたのです。
 私はそう理解します。理解しますけど、謝りません。なぜなら原因は双方にあって、双方とも傷ついたからです。
 理解はしても、解決はできません。そういうことではないかと思います。

この文面からして、萩尾さんの無神経な自己中心性が伝わってきます。それに、今やっと気づいたという体で書かれてますが、少なくとも「トーマの心臓」を描く時点ではとっくにわかっていたことでしょうに

ということで、よく、この人と2年間も我慢して共同生活ができたなというのが私の率直な感想です

もちろん、竹宮さんに「嫉妬」がまったくなかったとは思ってません。それが一番の理由ではなかっただろうと思うだけです。理由は複数あったと思うので。
だから「城君と佐藤さんのせい」というのも、理由の一つではあったんだろうなと思います。山田ミネコさんにそう語ったのは、「嫉妬」を信じない人たちへの説明としては、それがその時点で無難だと考えたからではないでしょうか。だから、例えばヘビースモーカーで匂いが耐えられないとか、そういった本人にも仕方のない理由なんだろうなと思います。山田ミネコさんの言うように

おそらく城君にも佐藤さんにも責任はないと思いますよ

ということなのでしょう
正直、その内容もまったくわかってないのに、「城君と佐藤さんのせい」を執拗に大泉本で取り上げていたのは読んでいて不快でした

結局、萩尾さんは、大泉本を書くことによって、「これでは竹宮さんが離れたがったのも無理はない」という印象を強めてしまったのだなと

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