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ストーリーテリングの邪魔をするもの

今までnoteを書くことで、自分の中のもやもやを吐き出していた。「刺さる人にだけ刺さればいい」と思いながら、無意識のうちに、自己満足な文章を書いていた。

私がnoteを書き続けているのは、本当はストーリーテリングの力を磨きたいからなのに、それを邪魔しているのは、実は上述した考え方なのだということに、以下のブログを読んで気づかされた。

分かる人に分かればいいと考えてるときは「大体において楽しくない(中略)これを1歩引いて見てみると、「伝えたいことを伝えられない」ことに対する「言い訳」であり、伝えようとしない「怠慢」以外の何物でもない。

ストーリーテリングの力というのは、相手に伝わって初めて生かされる。だから、分かる人には分かるという文章ばかりを書いていたら、本当の意味でのストーリーテリングの力を手に入れることはできない。

今まで、自分の拙い文章を読まれるのは恥ずかしい、こんなこと書いても分かってもらえないかもしれない、といった葛藤を抱きながら、その時々で心に浮かんだことを、自由に書いてきた。

みんなに読んでほしいものはTwitterで共有し、ひっそりと投稿したいものはあえてTwitterに共有しないというズルいやり方をして、いつの間にか、ストーリーテリングの力を磨くという目的を見失い、単にnoteを書くことだけに集中しすぎていた気がする。

こういうズルいやり方って卑怯だよなと感じつつ、見ないふりをしてきたけれど、以前ある人から以下のような話を聞いて、ギクッとした。

●●さんって、自信があることを意見する時は、メールのCcにたくさん関係者を入れるのに、自信がないことを連絡する時はCcに誰も入れずに、直接私だけにメールを送ってくるんですよ。ずるいと思いませんか?

私のnoteの発信も似たようなもの。自信があるかないかだけの判断基準で、発信方法をこんなふうに使い分けるのはダサいよね。

とはいえ、発信方法をダサくないやり方に変えていきたいという思いがよぎりつつも、なんとなく足を踏み出せないでいた。

理由は2つ。一つ目は、読まれなくてもいいと割り切って自分のために書いている記事があるから。二つ目は、フォロワーが徐々に増えてきたこともあり、Twitterで共有したらどう反応されるのか不安がよぎるようになったから。

読んでもらえるのは嬉しい反面、Twitterで紹介すると、自分の想像を超える反響をいただくことがあり、発信すること自体が怖いと、最近思うようになってきている。だから、「読んでもらうこと」と「反響の大きさ」を天秤にかけて、あえて見つからない方が心理的に安全だと感じる時はひっそりnoteに投稿だけするようになった。

話は脱線しますが、そもそもなぜこんな葛藤を抱えながらnoteを書き続けているのかと言えば、昨年末に以下の宣言をしたから。達成するためのノルマとして週に2本程度noteを書くことを自分に課し、今回でなんとか累計135本目。有言実行したい気持ちが強くなりすぎて、数を稼ぐことに意識が行き過ぎ、本来の目的を見失っていたのかもしれない。

そんな中、最近読んだ「ストーリーで語る」に書かれた以下の定義は、とても心に刺さった。

語り手のための「物語」がナラティブ
受け手のための「物語」がストーリー

私が今まで書いてきたnoteの大半は、ナラティブだったのかもしれない。受け手目線で書いてないから、反響が怖かったんだ。

受け手目線で書かれていない、自由な構成の文章は、ストーリーテリングとは言えない。ストーリーテリングとして成り立たせるには、起承転結と受け手を意識することが大事。こういうことをあまり意識せずにnoteを書いてきたがゆえに、投稿した後、誰に読まれるかわからず、不安になってしまっていたのかもしれない。

これからは、前提としてナラティブなのかストーリーなのかを決めた上でnoteを書いていこうと思う。ナラティブの時は自分目線で自由に書き、ストーリーを書く場合には、どんな人に何をどんなふうに伝えたいのかを意識して書くことにしたい。そうすることで、今感じている不安な気持ちを克服し、本来の目的である、ストーリーテリングの力を磨いていきたい。