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好きだから努力できるのか、努力できるから好きなのか

普段は漫画しか読まない小6の息子が、珍しく夢中になって読んでいた、ある小説。私も気になって読んでみたら、とても引き込まれるストーリー展開で、一気に読み終えてしまいました。

なかでも、最も心に響いたのは、最初のエピソードの「シロクマを描いて」でした。特に、以下のシーンが、グッときました。

「えらいよな、白岡六花。美術部、ゆるい部活なのに、ひとりだけ毎日スケッチして、先生に意見聞いて。ほかの部員たちに煙たがられても、負けないでまじめにやってる」
 あたしはうなずいて、ちいさな声で言った。
「・・・・・・六花は、絵を描くのが、ほんとうに好きだから」
 だけど、自分の声が、どこかとげとげしてる気がして、いやになった。そしたら黒野のやつ、こんなことを言ったの。
「好きだから努力できるのか、努力できるから好きなのか・・・・・鶏が先か卵が先か、みたいな話だよな」
 あたし、よくわからなくって。どういうことって、たずねたの。
 黒野、笑って言った。
「ほら、好きだから続けられる。だからうまくなるっていうのはたしかにあるけどさ、そもそもある程度うまくないと、好きにはなれないじゃん? 自分でへたくそだなあって思って、人から向いてないって言われて、それでも絵を描くとかさ。ちょっとむずかしいよな。苦手なことに立ち向かうのは、それだけでストレスだろ」
 そんなふうに。
 その言葉が、すごく響いた。なんだろ、いくら走っても、みんなに追いつけない自分のことを言われているみたいに、思えた。
 あたし、なんで走ってるのかな。
 急に、そんなことを考えた。走ることが得意と思ったから? たぶんそう。人よりはちょっぴり、得意だと思ったから。
 ほんとはそれほど、好きじゃなかったのに。
「好きなものがない人は、得意なものがない人は、どうしたらいいんだろう・・・・・・」
 言ってから、なんか、情けないなって、自分でも思った。
 だけど、黒野は肩をすくめてこう言ったの。
「べつになくてもいいと思うけど」って。
 なにそれ、と思って、あたし、食いさがったの。
「あたしは、ほしいよ。好きなもの。得意なもの」
「じゃあ、そうしたら?」
「え?」
「好きなものがほしい。得意なものがほしい。じゃあ、そのために努力すればいいだろ。ちゃんと、それは努力の理由になるよ」
「だけど、努力すれば・・・・・なんとかなるのかな」
 そしたら黒野はさ、まぶしそうに六花のほうを見たんだ。
「白岡六花がコンクールで賞をとったのだって、ああやって努力をつづけているからだろ」

「きみの話を聞かせてくれよ」より一部抜粋

要するに、
「好き」と「努力」は、鶏と卵の関係。
好きなもの、得意なものを手に入れたいなら、そのために努力すればいい。

とてもシンプルだけれど、本当にその通りだと思いました。

実際、覚悟を持って、好きなこと、得意なことに向き合って努力してる人は、意識が違います。上記小説の中でも、絵が好きな六花にとって、「努力とは、好きなことがもっと楽しくなるためのプロセス」とのことでした。

絵を描くのは楽しい。それはとても恵まれたことなのだと思う。「楽しい」と思えることがあるのは、財産だ。だから、私はそれを有効に使いたい。楽しく努力して、楽しくうまくなって、もっともっとできることが増えれば、もっともっと楽しくなるだろう。

「きみの話を聞かせてくれよ」より一部抜粋

一方で、それを阻害するのは、できない自分を卑下する気持ち(自分でへたくそだなあって思ってしまう等)。そういう意味ではメンタルも重要で、昨日偶然見たTVでも、最高のパフォーマンスを出すには「自分が一番」といった、勝つ人の気持ちで臨むことが大事(負ける人の気持ちでいたら負けてしまう)ということを知りました。

好きなことを楽しみ、努力できるというのは本当に幸せなことで、そうやって、楽しみながら積み重ねた努力が、自分を信じる気持ちや結果につながっていくのだろうと思います。

「楽しく努力して、楽しくうまくなって、もっともっとできることが増えれば、もっともっと楽しくなるだろう」
そんな気持ちで、私も好きなことに向き合って、楽しく努力して、どんどん実力をつけていきたいなと思います。