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『一度きりの大泉の話』(萩尾望都)の衝撃

今日は冬至前夜です。今年も残すところあと少し。

今年の私的10大ニュースを記そうとして……しまった、やり残したことがあったと気がつきました。備忘録として書こうと思います(実は、途中まで書いてやめていた文章があったので)。

2021年にいちばん心揺さぶられたことは、萩尾望都先生の本『一度きりの大泉の話』(河出書房新社、2021年4月)を読んだことです。その衝撃は2ヶ月ほどは続いたかも。

1970年代初頭の2年間あまり、萩尾先生と竹宮惠子先生は大泉(東京都練馬区)にある借家で同居していた。そのころのことを書かれた本でした。

わたしの長年の疑問—なぜお二人は同居し、のちに別居して袂を分かったのか—へのこたえが、赤裸々に書かれていて、胸が締め付けられ、哀しい気持ちになりました。いろいろな想いが次々と湧いてきました。

いろいろ想ったけど、言葉にできないので、こんなことをしてしまいました。


この本を出すきっかけとなったであろう竹宮先生の本『少年の名はジルベール』(小学館、2016年1月/文庫版は2019年11月)は、すでに5年ほど前に拝読。竹宮先生は、今年3月にも読売新聞の連載をまとめた『扉はひらく いくたびも—時代の証言者ー』(中央公論新社、2021年3月)を出されていたことを知り、『一度きりの大泉の話』読了後、すぐに本屋に飛んで行って、買って拝読しました。

……そして、以後、四六時中、ぼぉーと頭の一部で、萩尾先生や竹宮惠子先生のことを考えている、という状態になりました。

ですけれど、今や昔のことすぎて(ほんの半年ほど前のことですけれども)、なにを考えていたのか忘れかけている……。忘却する前に書いておこうと。

ひとつは、竹宮先生にしろ、萩尾先生にしろ、表現者なのだ、しかも一流なのだ、とひしひしと感じたこと。とくに萩尾先生の表現力は、巨大爆弾級だ、と。表現することは、どのような覚悟が必要か。創作とはいかなる作業か、自分の好きなことやりたいことを通す、ということはどういうことか。筆一本で生きていくとはいかなることか。自分に正直であること、ほんとうの幸せとはどこにあるのか……そんなことを考えてしまいました。

また、「花の24年組」「大泉サロン」など、少女まんがの世界では常識と化している言葉や出来事に対して、当事者としてご自身の言葉で語られたこと。竹宮先生がその先鞭をつけた。そのことが、すんばらしい!と思ったのでした。竹宮先生はほんとの革命家だ、と思います。

もうひとつ、多くの書評やAmazonのレビュー記事を拝読。わたし同様、心揺さぶられたかたがたが少なからずいらっしゃった。そのことが、うれしかった。

アマゾンのグローバル評価数は、今日(2021年12月21日)現在、1067個。レビューは250あまり。長い長いレビューも多く、追記もされていたりします。ともかく、レビューがあついっ! 


また、萩尾先生の情報を網羅し、発信し続けているサイト「萩尾望都作品目録」には、[*「一度きりの大泉の話」書評まとめ]という特設ページが登場し、20名以上の著名なかたがたが新聞雑誌web等に書評を発表していることがわかります。


どれも、なるほどな〜と興味深く拝読させていただきましたが、そうこうしているうちに、わたしの中でもやもやと生まれた想いがありました。それは、なぜお二人は同居したのか、同居せざるを得なかったのか問題、です。

名物編集者といわれる山本順也さんや木原敏江先生が反対したのにも関わらず、お二人は同居された。同居に至る経緯は、お二人の本に詳しく書かれています。

そこ?と思われるかもしれませんけど、「同居せざるを得なかったこと」が、わたしには身に沁みます。

1970年、地方在住の若い女性が上京し、東京でひとり暮らしをする、そんなこと世間さまが許さんかった。そんな時代。萩尾先生は21歳、竹宮先生は20歳の頃。

わたしは9歳のお子さまでしたので、当時の世間さまのことはよくはわからないのですが、1981年に20歳になり、ひとり暮らししたくとも、絶対に親が許さなかったことを思うと(大学通学に往復6時間かけていた)、二人の偉業(ここでは上京してひとり暮らしならぬ、二人暮らし)が燦然と輝いて見えます。


1968年、四年制大学へ進学する女性は5%、20人にひとりの割合。
1970年、女性の初婚平均年齢は24歳。20代前半の女性は嫁入り前の、どの家にとっても大切なお嬢さん。当時の女性は、20代で8割、30代で9割以上が結婚していました。女性は2、3年仕事をし(あるいは家事手伝いや花嫁修行をし)、良き伴侶を見つけ、結婚して子供産んで幸せな家庭を築くことがアタリマエだった。

そのような時代に、お二人は少女まんが家として親元から離れ、四国・九州からひとりで上京、己の才能と筆一本で生涯をかけた仕事をはじめるのです。

すでに多くの名作まんがが生まれていましたが、駅前に大きな白いポスト、悪書追放ポストというものがありました。子どもにとって有害な(エロ)雑誌やまんがを捨てるためのポスト。70年代初頭ならば、永井豪先生の「ハレンチ学園」でしょうか。どれほどまんがが社会から虐げられていたか。

親たちは、基本、まんがは低俗で下らない、と思っていたはず。

1961年生まれのわたしは、たまたま、まんがを読んでも親に怒られたりしませんでしたが、クラスメートの大半は、まんがを読むことが禁止されていたり、読んでいると怒られたり……。

しかも、1971年、大久保清というシリアルキラーが逮捕されます。10歳だったわたしでも、覚えています、この名前。スポーツカーにベレー帽をかぶって、一見、芸術家風という……。若い女性は、単にひとりで街を歩くことすら、キケン! と思われていたりしました。ましてや、ひとり暮らしなど!

1970年、地方で生まれ育った女の子が、ひとり、東京に出てきて、少女まんが家として独力で暮らしを立てていく……どんだけ、有形無形の社会的圧力がでかかったか。

親の反対は当然。喜んで上京を送り出す親などいやしない。そりゃあ、大阪万博があったりして、人類は進歩で未来でバラ色だったりしたかも、ですが、一方で、三島由紀夫割腹自殺やよど号ハイジャックなどの大きな事件がありました。

なにがいいたいか?というと……だから、竹宮先生と萩尾先生は同居をされたのです。「個性的な作家が同居するなどあり得ない」ということをされたわけです。

それは、同時代の大人気少女まんが家、北海道出身の忠津陽子先生と大和和紀先生が、1960年代末の2年間ほど、同じアパート(東京都中野区)にお住まいだったことからも、どでかい社会的圧力「若い女性が東京でひとり暮らしなんて、あり得ない」ということが、わかります。

でも、だからこそ、少女まんがの世界に豊穣が訪れたという側面があった。「24年組」「大泉サロン」という言葉や出来事が生まれた。竹宮先生や萩尾先生よりも一足早くデビューした忠津先生と大和先生の存在は、少女まんがの世界をより彩深いものにしていった。

……などということに思い馳せておりました。


ジェンダー問題さかんな昨今、女性の大学進学率は50%を超え、30代女性の未婚率は2〜3割という時代になっています。女性が仕事をするのもアタリマエになりました。1970年は今から半世紀も前のこと。そりゃあ、時代が変わるのは当然としても、今年還暦を迎えたわたしにとっては、女性をめぐる社会環境は激変したと感じます。

その間、「表現すること」を仕事として、女ひとり生きていく道を切り開き、体現されていった竹宮先生と萩尾先生の軌跡に、深く深く感謝いたします。(了)


(おまけ)うううー、あれれ、書いてみたら上記のようになってしまいました。竹宮先生の『森の子トール』(「週刊少女コミック」連載、1970年)、『空がすき!』(「週刊少女コミック」連載、1971年)を、9〜10歳のときのわたしは読んでいる。「週刊少女コミック」を買って読んでいたことは忘れていたけれど、この2作品は、いくつかのシーンを覚えているほど、ものすごく好きだった。その後、13歳のときに萩尾先生の『ポーの一族』に出会い、14歳のわたしにとっての聖書になった。いわば、お二人は、わたしにとって、第二の母。当時、お二人の作品を探して、浴びるほど読んだ。お二人の作品の影響は、自己分析不可能な、わたしの自我形成に組み込まれていると思われます。そういうわけで、まだまだ言葉にできない想いがちぎれちぎれになっておりますが……なんだか、どうしたわけか、お手紙風になってしまいました……。
トップの写真は、ゆきのしたの花のドアップ。小さな小さな花ですが、よくよく見ると、ドレスを着た貴婦人のように見えます。初夏、女ま館勝手口のわきにひっそりと咲いています。

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