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あこがれ

私の学生の頃あこがれていた人がいたんだ。
好きなことを書いて曲を付けて歌を歌っている人に。学生の頃は勉強や訓練より女の先生と話していることが楽しみで学校に行っていた。女の先生は新卒だから優しくしてくれた。その優しさに付け込んで悪戯をするのが、学校に行く目的になっていた。
まだ手が動いていた頃だったから、夏になれば白いブラウスから、ブラジャーが分かるので手でブラジャーのホックを外したり、スカートめくりをして怒られていた。私の養護学校時代は普通に楽しんでいたなぁ。
勉強は全然だめなのに、中学部までは学校は楽しんでいた。高等部からは教科書が厚くなったり、数が増えて来たので。一応養護学校にも中間テストや期末テストがあるんだなぁ!昭和の養護学校は普通の学校の教科書を使っていた。通信簿はまったく普通の学校と一緒なんだ。私はオール1だった。
たまに2,3があれば「赤飯だ」とお祝いをしなきゃと父が冗談を言っていた記憶がある。高等部3年間は地獄の日々だった。養護学校には特殊な時間があって機能訓練の時間と職業訓練の時間がある。障碍が軽度な生徒は職業訓練、障害が重度な生徒は機能訓練の時間に分けられていたんだ。
教科書の勉強より、そっちの時間の方が好きだった。私はもちろん機能訓練の時間だった。機能訓練の時間にも女の先生がいたから頑張られた。
男の先生なら適当にやっていた。私の人生はそこが基本になっている。

同級生で障碍が軽度な男が女の子に人気があった。あの当時車椅子バスケが人気があった。バスケの選手は養護学校じゃスター扱いされていた。それからギターを弾いて、歌を歌っている奴もスター扱いされていた。私はそんなグループに入っていなかった。だから他の所で注目を浴びようといつも考えていた。でも何もなかった。重度の障害があるから女の子に持てるはずがなかった。それでも服装と髪型は流行りの格好をしていた。長いジーンズを履いて、車椅子に乗っていてはサマにならないのにね。
自分で立って歩ける人達が履けば似合うけれどね。一人で立って歩ける障碍者はやっぱり女の子に人気があった。
私は軽度な障碍者は苦手だった。頭のいい障碍者も苦手だった。
私たち脳性マヒ者は健常者にほど遠い存在なんだ。車椅子バスケの選手は脳性マヒ者はいなかった。障碍者スポーツの選手には脳性マヒ者がいたかな?
私は知りません。いたかも知りません。皆さん、知っていたら教えて下さいね。

養護学校を卒業すれば、家の近くにある通園作業所に通って行っていた。車椅子で一人で通っていた。電動車椅子がまだ無かった頃だったから足で車椅子を動かしていた。今じゃ考えられないだろう。それでも自由を感じていた。一人で外に出ていると、色んな女の子に会えるからね。それだけでも楽しかった。風が強い日が好きだった。自転車に乗っている女の子のスカートがめくれてパンチラになるから。夏の暑い日は良かった。女の子が薄着になっているから。そんな事が私の楽しみだった。シャツのボタンを2つ外していたら胸が見えそうで見えなかった。ドキドキしていたなぁ。
その頃は障碍者も地域で自立生活を始めていたんだ。徳山にもそんな障碍者が住むようになってきた。自立生活をしている障碍者は対等に健常者と付き合っている。私は対等に健常者と付き合っていなかった。そんな障碍者の仲間に入りたかった。私より上の世代の障碍者なので、勉強になったし刺激を受けていた。これまでの世界とは違う世界だったからビックリした。その人達と付き合っていく中で今までと違う考えを教わったんだ。
「人と人の関係では持ちつ持たれつと言う事がある。」と教わったんだ。それまでの考え方は自分で努力して、一人でなんとかこなして、出来なかったら親や家族にやって貰えばいいと言う考え方だった。例えば外で皆と食事会に行ったとき、人に食べらしてもらうのが格好悪いと思い、食事会に行く前に家で食べていた。だから食べらしてもらわなくても良かった。人に食べらしてもらうのは「赤ちゃん」と一緒だと思っていた。私は基本的には格好を気にする性格だった。カッコいい事・カッコ悪い事で物事を決めてしまうんだ。今もそれが残っている。誰かに見られているんじゃないかと思って、生きてきたと思う。でもそれは違っていた。世の中の人は誰も私を知らないし、私を観ていない。別に私が何をしてもどんな格好をしても構わないんだ。と気付いたんだ。それか私は楽になった。

自分の好きな格好と自分の好きな事をすれば良い。
一応私は作詩をしている。友達が曲を作っている。
それだから歌を作ってライブやCDを作ったんだ。
養護学校時代にあこがれていた事が現実になった。
それで私は満足なんだ。

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