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眠れないとき・三


 黒子はただ混乱する。赤司を追って来たらしい男の唐突な出現。そして、自分が何の覚悟も、深い考えすらも無く、赤司に会ってしまった事の二つに。
 赴くままに自転車でここに来てしまったというのは事実だが、それにストッパーをかける事だって出来た。赤司と偶然に出くわすという可能性だって、皆無じゃないと考慮する事だって出来た。
 こういう具合に、色んな物事それ自体を、言葉として租借することに精一杯になってしまう事に於いて、結果、人の気持ちをおろそかにしてしまうのだ、と黒子は落ち込む。
 人とは他人は勿論、自分も含まれている。感情なりが、関係性に因って生じる事からもそう思う。けれど、黒子は己の中に他者を飼うのにどっぷり深いところまで浸かってしまい、混沌に支配されてしまっていた。いや、世界みたいなものに、臆病になり過ぎているだけかもしれない。
 原因はなんだろう。中学、高校時代の方が強く在れていた。実際、周りにもそう思われていた。
 だがそれは、自分にはバスケットがあったからかもしれない。それしか分からない。

 『この男は誰だろう』
 自分が次に何をすべきか途方に暮れてしまい、無意識に赤司を見た。
 赤司は、感情を無くした様な顔をして、男の方に目を遣っていた。


 真田は、結果として赤司を追いかけて来てしまった。そんな自分を恥じている。けれど、それを遥かに凌駕する悦びを感じてもいた。
 何故なら、赤司が自分を直視している。瞳の中に、まさに自分だけを存在させているからだ。
 その表情は彼が社内に居た時とは違い、好意的なものとは決して云えなかった。寧ろ、自分を胡散臭いものとして、いや、何の値も無いものとして見ているのが明らかだった。
 しょうがない、真田は思った。単なる取り引き先の人間がいきなり追いかけて来て、会話の邪魔などをしたらいい気分じゃあ無いのはしょうがない。その事によって、彼が冒涜されたと思っていたとしても、それだとてしょうがない。
 だから、考慮してやろう。
 それにしても。ちらと視線をずらし、真田はもう片方の男を見る。
 なんて気が利かない馬鹿な男だろう。自分の様子やら佇まいを見たならば、彼に用事があるのは明白ではないか。どうしてこの男は強張った顔のまま、そこを動こうとはしないのだろう。

 「…何か用でも?」
 凍った声で、赤司は問いを発した。
 さっき会社に居た顧客だと気づいたからだ。そうでなければ、罵倒していたかもしれない。
 『お前は、何の権利があってこの場に居合わせるのか』と。
 何かはわからないが、とてつもなく大事なものを台無しにされた気持ちだった。
 この状況でなければ引きずり出せなかった『何か』の、たとえば匂いくらいは嗅ぎ取れたかもしれない。何もかもこの男の責任だ。全てを転嫁してやろう。赤司は片頬を歪ませた。
 途端、目を疑った。
 男が、黒子を虫を見ているかのような目で観察している。己が黒子を唾棄すべきなのが、正当であるみたいに。
 ーーー身体の奥から熱が沸き上がった。
 赤司の右手は、躊躇い無く男の頬をめがけて跳ねた。バシイッと、強い打撃音がした。
 真田は放心した。黒子は口をあけ、二人を交互に見た。赤司のとてつもない憤りが伝わってきた。
 学生時代の赤司は、怒りを笑顔で表し隠すことが無く、言葉をオブラートに包むという作業をあまりしない人だった。その直截さ故に敵も多かった。それと同じく、崇拝すらする味方だって数多居た。
 けれど、暴力を行使したことは一度しか、かつての相棒だった火神にハサミを振るった、未遂のあれただ一度だけだったはずだ。
 「あ、赤司君?顔色が真っ青です」
 「なんともない」
 その声音は震えていた。
 「この人は…」
 呆けたまま赤司を見る男を、黒子は遠慮がちに見遣る。
 頬が赤く腫れていた。いわゆるハンサムだったから、余計痛々しいと感じた。そして、背広に全く似合わない表情をしていると思った。
 「とにかく、僕、そこのコンビニから氷とタオルを買って、」
 「馬鹿を云うのは止めろ」
 赤司はこめかみを押さえた。黒子の人の良すぎる愚鈍さに、毎度の事ながら腹を立てた。
 「でも、赤司君の知り合いじゃ、」
 「違う」吐き捨てるように遮る。
 真田は瞳孔を見開いたまま、赤司を凝視し、信じられないものを見るように呟いた。
 「僕を、叩くなんて」
 じり、と足を踏み出し、赤司に近寄る。
 黒子はぎょっとしたが、赤司は動じない。こんなくだらないやり取りには、場慣れしている様にも見えた。
 「彼を蔑んだ罰だ。軽すぎるくらいだ。理解できたかい?」
 
 今まで誰かに手をあげられた経験が真田には無かった。母親にでさえだ。
 それを、一目惚れした相手から、得体の知れない理由に因って、受けてしまった。
 近寄りながら、その顔を穴が開くほど見つめる。
 鋭くて雄々しいが、個性の強い美麗さが際立っている。そして気品に溢れてもいる。やはり自分のものにしたいと思う。
 だけれども。
 「どうして、僕が、君に冒涜されなければならない。たかが、そんな男のために」
 悔しくて涙が出た。泣くのはいつ以来だったかも、真田自身、覚えが無かった。


 いやな感じがした。男の言葉や態度よりも、その存在自体が纏う、空気みたいなものに。
 赤司はこんな人間の相手をすべきじゃあない。まだ自分の方が適している。
 黒子は二人の間に身体をするりと滑り込ませた。
 「赤司君、仕事に戻って下さい」
 男を窺いながらも、黒子はきっぱりと言う。少しだけ緊張した。
 「なんなんだ、君は」
 再び赤司から視線をずらすと、真田はぎろりと黒子を睨む。焦点があっていないかのような目で。
 ねじれている、と黒子はそんな単語を頭に浮かばせた。この男はなんだか『ねじれ』ていて、そのねじれで皺が寄り、たとえば洗濯物だったら洗い流せない様な部分に、赤司を取り込もうとしているのじゃあないか、と。僕ならば、そのねじれには取り込まれないのじゃあないかと。
 それは、たぶん僕には効かない穢れだ。
 「黒子?」
 「知り合いじゃないなら、赤司君は、ここに居る理由はないでしょう。早く」
 確固たる意思を持ち、はっきりと黒子は告げる。
 戸惑ったのは赤司だ。男の異質さなどよりも、黒子の言動に驚く。
 「ちょっと、黒子、何のつもりだ」
 「僕は、彼に暴力を受けた。黙って帰って貰っては困る。困るんだ!」
 赤司の手首をつかもうとした、その真田の掌を制止したのも黒子だった。
 「触らないで下さい」
 両手で真田の拳を掴む。
 自分は貶められても構わない。けれど、どうしても赤司に触れさせたくなかった。放って置いて欲しかった。
 変化するかもしれない何かを、自分は恐れているのか? ーーー何故?
 黒子の自答は、言葉として発せられた。
 「僕たちにかまわないで。そっとしておいて下さい」
 その台詞に赤司は黒子のかたくなさすらを感じて、切なさが込み上げた。激情のまま黒子の両手を真田から引き剥がす。
 肩を引き寄せ、柔い唇を乱暴に塞いだ。
 真田は呆然とし、両腕をだらりと下ろした。

 眼前で口づけを見せられた真田は、怒りが血管中を駆け巡るのを感じる。
 その勢いのまま、口を覆われたまま、放心状態にある黒子を横から突きとばした。
 赤司から離したかった。そして地べたに転がった華奢な身体に馬乗りになる。
 背後で悲鳴とも罵声ともつかない、赤司が発したものらしい音が耳を掠めるが、構いなどしない。
 拳を振り上げ、顔面を殴打する。
 冒涜された屈辱のはけ口は、赤司にではなく、黒子に対する暴力となって噴き出した。手加減など微塵も無く。
 それを止めさせようと、赤司が真田を必死で蹴飛ばし、しがみつくのだが、真田は背中に激しい痛みを感じても、中断する事など出来なかった。理性など、働いてはいなかった。
 どちらの側なのか、肉を打つ鈍い音、周囲の怒声と呻き声、そして荒い自分の息。
 真田の世界はその音だけ。そして、スローモーションの様に飛び散る赤い血。
 くらくらと酩酊した。
 母の微笑みを思い出し、口許さえ綻んでいた。
 「冒涜はゆるさない」
 視界がまっ赤に染まり、真田の意識は飛んだ。



 「…ここは、」
 身体が軋んで、寝返りをうつのに顔をしかめた。頭も酷く痛む。
 真田は辺りを窺う。
 まず目に入ったのは、紺色の制服と白衣。
 やれやれ、警察と医者だろう。と心の中でため息を吐いた。
 しでかした事にきちんと自覚はあった。
 だが、反省は皆無だ。
 後始末にうんざりするだけで、犯罪者として捕まるという危機感も、罪悪感も無かった。
 赤司がどこに居るのかが、最重要な事柄であると焦るだけで、真田は自分の置かれた現実を誤認していた。
 「真田正一、目が覚めたか」
扉が開き、如何にも刑事然とした男二人が入ってきた。
 母親を従えて。


 赤司は、着の身着のまま、手術室前のベンチでうなだれている。
 安い合皮の椅子だ。
 黒子の父親は無言で暗い廊下を睨み、母親は赤司の隣で涙を拭っている。
 真田と同じ病院に搬送された黒子は意識が戻らず、重体の様相だった。
 鼻は折れ、顔が変形し、頭も打っており、脳内の検査も必要との事だった。
 赤司への事情聴取はひとまず終わり、この場所に駆け付けた。
 真田の病室はどうしても明かしてはくれなかった。殺してやろうと、その時の赤司は全身を戦慄かせていた。
 この手術が終われば、また警察へ赴かねばならない。
 二人の刑事が、離れた所で壁に背をあずけ赤司を監視していた。
 真田の意識を刈ったのは赤司である。過剰防衛であると言われたが、あの場では死なせなかっただけである。血塗れになった黒子を眼前にしてしまえば、何よりも大事な存在しか視界に入らなかったからだ。
 ぎゅうと傷だらけの手で膝頭を握り、赤司はこれからすべき事をひとつずつ、頭の中で整理していた。

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