名が付く前から俺は俺で、診断が付く前から俺は病気だっただけという話

1/27(土)に診断が下りた。うつ病とのことだったけれど、個人的にはどう考えても双極性障害だと思う。昔から躁鬱が激しかった。今になって、身体が限界を迎えたから病院に行っただけのこと。

名前が付く前から俺が俺であるように、俺は診断を受ける前から病気だったような気がする。学生の頃は環境も環境だったから、俺を病院に連れていってくれる人は一人も居なかった。周りがみんな不健康だったからだろう。目の前にいる人が不健康だと気付けるのは健康な人だけだ。健康な人に囲まれることこそ一番の健康の秘訣だろう。俺は不健康だが、俺の人生もまた不健康だったと言える。

そうなると、病気と言われようが何だろうが、俺の人生は何も変わらない気がする。喪失や欠損と向き合い、知識と体力でそれらを乗り越えようと躍起になっては沈んでいく。その繰り返しの中でたくさんの大切なものを得て、失って、一喜一憂しながら何とか生きてきた。きっとこれからもそうなる。

このところ、沈みはすれど浮きはしない自分の心を眺めて「おやいつもとは違うじゃないか」と自分の心の浮力に疑念を抱いていた。いつもなら少し休めば気持ち悪いくらい元気になるのに、全然ならない。「まぁそういうこともあるか」と気に留めず、年末に引いたおみくじに書かれた「大吉」だけをお守りのように大切に眺めてはそこに記された慰めみたいな未来への暗示を自己暗示に昇華し、真っ暗に見える未来を何とか照らせないかともがいていた。

そんな矢先、胸痛と息苦しさ、思考力の低下に酷い無気力といよいよ身体がヤバくなってきたため病院へ行ったところでこの診断。繰り返しになるけど、特に何かが変わるわけじゃない。俺は俺から逃れられないし、逃れるつもりもない。でも、ただただ怖くて苦しい。

こんな風になるまで俺は何を背負いこんでいたのだろうと振り返ることも増えた。たぶん、俺は俺の欲望に振り回されている。
もっといえば、喪失や欠損を埋めようと辺りを見回す癖が、その癖に従って黒目を動かす俺の中の怪物が、他者や他の環境を羨ましく映すせいで俺は俺を見失っている。本当は自然と家族と楽しい物語だけで満足できるこの人生を、狂わせてしまっている。そんな気がしてならない。

喪失も欠損も、異常も不浄も有って然るべきだ。人間だから、ではない。俺が俺だから。望まない環境で生まれ育ったことも、それを何とか受け入れて生きてきたことも、誰より強く優しくあろうと力を込めて歩いたことも、俺の一部だ。愛すべき俺だ。

自由になりたい。本当は望んでいないのに、喪失や欠損が無理やり俺に望ませるこのおぞましい欲望のるつぼから解放されたい。俺は俺になりたい。泣き虫で弱くて穏やかだった、世界が優しくあればいいと心の底から望んで生きていた、生まれたままの俺の姿に、もう一度出会いたい。

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