消せない炎を見たことはあるか、という話

厨二心を忘れた瞬間、人は死ぬ。たとえどんな環境にいようと、何を目にして生きてこようと、誰だって絶えず燃えている炎がある。人はそれを夢だとか志だとか、目標だとか、そういう分かりやすい言葉に変換して使う。けれど本質は、ただの莫大なエネルギー、僕にはそれが炎に見える。

バカげた妄想と人に笑われる類のものかもしれないし、冷静な夜には自分のことを殺したくなるくらい恥ずかしくなるかもしれない。それでも、自他から浴びせられる叱責や羞恥の風雨に晒されてもなお、それらを糧にしてさらに燃え上がる、そういう消えない炎を飼っている人がいる。

厄介なもので、この炎は普通に生きていると火力が弱まるし、かといって燃やしすぎれば己の身すら焦がす。だというのに管理された火ではないから、火加減なんて甘っちょろいこともできない。自分の意思すら超えたところで勝手に燃え、熱を持つ。

僕はときどき、この炎を飼っている人に出会う。というより、己の炎を自覚している人に。みな一様に「冷めた人間ですから……」みたいな顔をしているし、本心を明かそうとはしない。一見すると、特段何かを考えながら生きている人だとは思えない。

しかし、対面すれば、分かる。炎は見えずとも、静かに揺らめく青い炎が発する、身震いするような熱を感じる。そういう熱に僕は弱い。もう身を焦がすほどの熱を持ちたくないのに、勝手に熱を受け取った僕の炎が、燃え上がる。消したくても、弱めたくても、消せないし、弱まらない。

なんでこんなことを書いているかといえば、今の僕がまさにその状態だからだ。少し前までは都市から離れて隠居生活でも送ろうか……などと老衰手前の爺みたいなことを考えていたのに、今の僕は愉しんでいる。自分の中に眠る青さを、青い火が燃やし尽くす。限界を超えて漏れ出た熱が身体を震わせる。

現実的にどうこう……などというロジカルな考えがチンケに思えてしまうほどの強い力が、背中を突き飛ばす。立ち止まったり、恐れたりしていた僕を、不思議そうな目で見る僕と出会う。思い出す。僕はこういうやつだった、と。

根拠なんて何もないのに、すべてが思い通りになることを疑わない。理屈も道理も持ち合わせていない。頭で考えるんじゃなく、進みながら考える。そうして手に入れた未来は、確かにかつて思い描いたものと部分的に被っているし、見方によっては、完璧に理想を叶えているとも言える。

頭が良いわけではないのに、動けばいいのに、動かず、頭で考えたがる。自我と納得が、ずれた歯車のように耳障りな音を立てるときがある。それはきっと僕が僕に向けて送っているサインだ。
さも歩を進めているかのような顔で小難しい言葉や概念を学んで、確実な未来を描こうとしている僕に、「何してんの?」と冷めた目を向ける僕が送る、ファックサインなのだ。

思考も理屈も炎の前には無力だ。逆に言えば、炎を携えずに思考や理屈だけで辿り着ける場所なんてたかが知れている。僕が望む景色はそれじゃない。

熱に任せて目の前のすべてを切り結び、邪魔な悪意をねじ伏せ、同じ炎を灯した人間と出会いながら歩み続けたその先に、きっと欲しいものなど何もない。

それでも、その景色を見なければ、その絶望を経なければこの炎を消せないなら、身体が燃え尽きる前に望まなければならない。今ある道の先にある、揺らめく陽炎のような景色を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?