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創業から1年経ったし振り返ろうと思ったら過去の自分に煽られてお金の哲学に行きついた

4年くらい自営業として生き抜いてしまったワ

合同会社BreakRoomという会社をやっている。融資も受け(られ)ず、出資も受け(られ)ず、結局無借金のまま創業から一年が過ぎた。

もともと、フリーランスでライター業を始めたのが2018年だから、自営業になってから実に4年の月日が経過した。もう5年目になるし、僕も25歳から26歳になる。紛うことなき立派なおっさんである。

おっさんになったらやりたかったことがある。「過去を振り返ること」だ。小洒落たバーでウイスキーグラスをからんからん鳴らして、意味深な表情を浮かべながらため息をひとつ。これまた渋い顔のマスターに「悩み事ですか?」なんて聞かれるワケ。あえてそれには答えずに「昔のこと、思い出しちまってな……」とだけ言うと、一気にウイスキーを煽って、「この店で一番強いヤツを出してくれ」とか言っちゃうんですね。

そしたら店の奥から見知らぬ中国人が現れて、俺に言うわけ。


「お前、路上でもケンカできる奴なんか?」

そっちの「強いヤツ」ではない

などとくだらないことを書き連ねているが、今回の主旨は「振り返り」だ。チョンツーウェイさんは関係ないし、俺が路上でケンカできる奴なんかどうかも関係ない。啓之輔さんが言ったようにブレイキングダウンは最高なのだけれど、ここらで本旨に戻ろう。

回顧と変遷、変わらぬ陰キャ道

お金に余裕が出てきたからか、はたまた幼児退行の兆候なのか、最近はよく昔のことを思い出す。ボロボロの団地で母親と暮らしていた時代。高校へ行かなくなって、未来に絶望し、朝方までネトゲをした後に外に出て、通学する小中学生の姿をボーっと眺めて自己嫌悪に陥ったり、同級生の父親(中華系のヤクザ)に紹介された土建屋のバイトに勤しんだりもした。

(その時代に仲良くなった売人との青春物語。もし良ければ読んでください)

あの頃に比べたらずいぶんと幸せな景色に囲まれて生きている。けれど、中身はあの頃と何も変わっていない。収入はアルバイト時代の10倍、正社員時代の5倍くらいになったのに、心は変わらず陰鬱としている。
今さらパリピにもなれない。お高いバーで夜景を見ながら乾杯……とか、シャンペン入れてうぇーい、とかもよく分からない。でもコーヒー豆だけはいいものを買えるようになったから、たまにサイフォンで淹れて飲んでる。
今だって、喫茶店の一番端っこの席に座って、みんながオシャレして楽しく会話を弾ませているというのに、パソコンを開いてカタカタと陰気な文章を書いている。

なんというか、昔からずっと「こうするのがいいんだろうな」っていう風潮とか常識みたいなものに上手く乗れなかった。
以前はそれが貧乏とか田舎民だからだと思ってて、「俺もお金があったら派手に遊ぶんだろうな」とか「東京に行ったらパリピになっちゃうんだからね」とか思ってた。全然嘘。お金があっても都市部に住んでも、なーんにもしない。結局家でGTAとかテトリスやってるし、出かけるのは人の居ない場所ばかりだし。

近くの波止場で釣り。人が少ない。最高。

もう言い訳は効かない。俺、ガチの陰キャで草。

当時の俺は今の俺を見て、なんて言うんだろう。

あの頃――というのは俺がヤクザの手先として土建屋のバイトをしていた頃のことだけれど――とにかく何もかもが上手くいかなくて、上手くいく予想すら持てなかった。自分には何もないし、金もないし、才能もないし。このままどこぞで野垂れ死ぬんだろうなぁ、なんて考えながらラッキーストライクを吸って、友達に向かって「緩やかな自殺」なんて嘯いていた。幸いなのは、友人がそのくだらない冗談を嘲ることなく、一緒に笑ってくれたことだった。俺もあいつも死にたかったんだろう。

厳密に言えば死にたくはなくて、生きていたいんだけど、生きるには苦しすぎる状況が強いられたりとか、どうしても目に映る他人の人生の華々しさと比較して「嘘……私の人生、鬱すぎ…!?」って落ち込んだりとか、そういう「精力をそぎ落とす要因」が多すぎた。「生きたい」という熱量を大きく上回る「死にたい」が身体を取り巻いていると、それらが見えない靄みたいにまとわりついて、思考や行動に水を差してくるのだ。この感覚、今の時代ではめちゃくちゃリアルなんじゃないかと思う。

そうした人生を送っていた当時の俺が、今の俺を見たらなんて言うのか、いくつか考えてみた。

「だらけすぎだろ、もっと頑張れや。お? そんなもんか?」
「よく頑張ったなぁって思うけどさ、それってまだ通過地点だよね」
「いまだにゆゆ式は哲学、とか言ってるのお前くらいだぞ、老害」
「なんでその歳になっても服屋に一人で入れないんだよ陰キャ」
「幸せ~とか感じるな、言うな、まだ全然成し遂げてないことばっかだろ」

16~17歳くらいの俺より

想像の中の俺が辛辣すぎる。でも本当にこういうことを思うし、言うんだろうな。ただ、ゆゆ式だけは許せ。

総括すると、当時の俺は今の俺を全然許してくれなさそうだなって思う。当時の俺は、人生まるごとひっくり返してくれるような何かを求めていたし、それが身の回りにないと分かるや否や、未来の俺にぶん投げた。
「今は全部耐えて、必要なものを全て揃えて歩いてやるから、未来の俺がそれを結実させろ」という呪いと共に、たくさんの想いや経験を託したのだ。

そうして歩き切った先で出会うのは、行きつく成れの果ては、今の俺というわけだ。なんとも、まぁ、パッとしない。

逆に、今の俺から当時の俺に対して、何か言うことがあるのか考えてみる。一言だけ言いたいことがあった。

「生きててもいいことはないけど、”それでも”って前に進めば何かが手に入るし、そこで見られる景色があるよ」

当時の俺にとっての救いは「ただ生きる」の先にはないし、蜃気楼みたいに不確実な救いを予知するような気休めの言葉も吐けない。ただ、手に入った何かや覗いた景色を糧に、自分の手で未来を創造することはできる。”それでも”と自分を叱咤して進めば進むほど、創造できる物事の幅は広がっていく。おかげで、俺はこうしてのんべんだらりと暮らしていられるわけで。

結局、仕事ってなんなん?

さて、25歳とか26歳とか、そのあたりの年齢に差し掛かった人の多くは「仕事ってなんだ?」という問いに直面するのではなかろうか。
この問いはきっと生涯で何度か訪れるはずだ。

一回目は小学校の短冊に書く「将来の夢」
二回目は高校卒業後の進路選択でぼんやりと考える「進路」
三回目は大学や専門、人によっては高校卒業時に決める「就職先」
四回目は仕事にも慣れ、ある程度余裕が生まれる「第二新卒世代」

きっと俺と同じくらいの年齢の人は、今、四回目の「仕事ってなんだ?」にぶち当たっているんじゃなかろうか。
ある程度仕事にも慣れ、余裕が出てきたが故に生じる「これでいいのか?」という焦りや不安、夢見た未来や大人像との乖離などなど、理由は多岐にわたるだろうけど、とにかく僕らは再選択をしたくなる。
もっといい道があるんじゃないかと周りを見渡したり、自分の生き方を再設定したくなったりする。そういう年齢なんだと思うのだ。

減ってきたねぇ、マルチの勧誘。

また、年齢もあるんだろうけど、最近は身の回りで「マルチ商法」やら「ネズミ講」みたいな噂を聞かなくなってきた。怪しげな商売に身を投じていた知り合いは、おしなべて現実を直視して足を洗うか、さらなる深淵へ足を踏み入れて音信不通になったか。とにかく俺の視界からは消え去った。

代わりに、会社をやりたいとか、独立したいとか、そういう話が増えてきた。これまで普通に正社員として働いて、俺よりもがっぽがっぽ稼いでいた人たちが、最近はよく相談してくるようになった。ぶっちゃけ相談に乗れるほどの経験も知見もないのだけれど、一生懸命応えるようにしている。
けれど、「再選択」にまで至るケースは少なく、結局これまでと同じ道の上から離れられなかったり、なぜか俺をちょっとディスって「やっぱりそっちの道になんて行くもんじゃねぇな」みたいな納得をしたりして帰っていくことも少なくない。ひどくない?

「お金が一番大事」なわけがなくない?

そういう時に、ふと考えてしまう。仕事やお金は、それほどまでに大切なものなのだろうかと。おそらくだけど、俺と彼らの間で「仕事」や「お金」の重要度や優先度にはかなりの差がある。
会社をやっているくせに、お金に誰よりシビアでなければならないくせに、俺は仕事やお金を人生の至上命題には置いていない。というより、どう頑張っても、置けなかった。だからこそ、仕事やお金に対して、まるでこれが人生の全てだと言わんばかりの勢いで熱弁できる人を見ると、少し距離を置いてしまう。まぁ、もちろんいただいた仕事には全力なのだけれど、それと人生が直結しないのだ。

だってクライアントは「プロとしての小野澤」に頼んでいるのであって、小野澤個人には興味なんてなくていいし、期待もしなくていい。その代わり、プロとしての小野澤は、小野澤個人がどうであってもプロとしての仕事をするし、クオリティに寸分の妥協もあってはならない。でしょ?

そもそもね、お金が一番大切なのだとしたら、その人はどれだけお金持ちだったとしても意味がない。なぜならお金は何らかの価値や対価を受け取るための交換ツールに過ぎないから。お金そのものに価値を見いだしている人は、お金を支払って何か別の価値と交換することが苦痛になるはず。
つまり何も買えない。札束風呂から出られないけど、それが最高に心地いいってことなんでしょ? ね? ですよね???

ゴミとんち一休やめろ

さて、杜撰なとんちを披露したところで、話はもう少し奥へと進む。

つまるところ「お金が一番大切」というロジックはこの世界には存在しない。人も企業も政府も、あらゆる経済主体は何らかの目的をもってこの世で時を過ごすわけだから、その目的を達成するためにお金を使う。
「お金を何かと交換する」わけだが、重要なのは「とお金を交換する」かだ。言い換えればそれは「その経済主体が存在する目的」だし、「その人が生きる意味」だし、「その国がどんな国として存在するか」を指している。

お金って使う方が大切なんじゃね?

お金を手に入れることよりも、お金を使うことのほうに本質が現れるのではないか、と俺は常々思っている。そして、存続している企業の社長の方々や現役の自営業者の方などは、この感覚をとても大切にしている。気がする。

もちろん何でお金を稼ぐのか、という方向にも意識を割いているんだけど、「どう使うか」にめちゃくちゃ苦心している気がする。企業は特にそうで、稼いだお金を効率的に投資しないと、事業も経営も行き詰まる。その投資先は人や技術といったソフト面なのか、はたまた設備や建物といったハード面なのか、多岐にわたる分、意思決定にはかなり神経やコストを使うことになる。

それは人も同じだと思う。自分が何のために生きているのかが分かっていると、お金の使い道がかなり明確になる。芥川賞の受賞作品に「推し、燃ゆ」が選ばれたことは記憶に新しいけれど、近年は配信者への投げ銭やら、クリエイターへの直接送金やら、「推し活」がしやすい環境が整ってきている。このように、誰かの発信を中心に経済活動が生まれることをクリエイターエコノミーと言うらしいが、そんな大層な名前なんてなかった頃から人々はそうやって生きてきたはずだ。

自分の好きなものごとを見つけ、過ごしたい時間を考え、食べたいものを探し、読みたい本を集め、聞きたい音楽を漁り、観たい映画を貪る。そこへの出費に痛みは伴わない。なけなしの三千円を握りしめて銀魂のアニソンアルバムを買いにTSUTAYAへ走ったときのワクワクは何物にも代えられないし、むしろ三千円でこんなに幸せになれるのかと感謝したほどだった。

とかく最近は「社会情勢が不安定で~」とか「終身雇用が崩壊して~」とか「副業も含めて個人が輝く時代が~」とか言われている。不安になる若者も多いし、正直なところ、メディアが必要以上に不安を煽っているようにも思う。ぶっちゃけ個人の能力を高めるか否かなんてのは些細な問題で、本質的じゃない。どれだけ稼げるようになったって、当人が満足できてなけりゃ、幸せになんてなれないのだから。

まず「自分が満足できるお金の使い方を知っている」ということ。幸せの形が多様化した現代社会で、これに勝る軸は存在しないだろう。「高いものだからいい」じゃなく、「安いものだからダメだ」じゃなく。
自分が本当に満足できるものごとを知っていて、そのためにお金が使えること。まずはそこからなんじゃないかな~と。
そのためのお金が足りないなぁ」と思ったときに、初めて「副業」とか「事業」とかが選択肢に入ってくるわけで。

むやみやたらに不安を感じて「このままじゃだめだ!」なんて思わなくても大丈夫。それよりも「使い道にガチになる」ことのほうが何倍も大切なんだということを学んだのが、この1年の収穫です。

これからも色々と面白いことを発表していけたらいいなぁ、なんて思っておりますので、ぜひぜひよろしくお願いいたします。


(なんてことを考えてたり、オフの日にカタカタ書いちゃったりするくらいには俺も仕事に真面目なんだなぁ……。)


こんなことやってます

長々と語りましたが、だいたい5000文字くらいあるみたいです。読んでくれてありがとうございました。
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