見出し画像

チョムスキーとの対話 9いよいよオークション

 講演の次は自由行動。壇上にスクリーンが張ってあって、レジストの40年の歴史を振り返るスライドが上映される。ケンブリッジを拠点にするというニューオリンズ風のブラスバンドが繰り出してきてとてもにぎやかだ。会場の後方のテーブルには「レジスト40周年記念」とデコレーションした長方形のケーキがあって、スタッフによるケーキカットのあと小さく切りわけられたものをめいめいで取って食べた。壁にはレジストの活動内容を紹介する展示もしてあって、よく考えられたセットアップだ。

 いくつか用意された丸テーブルに自由に座ってご歓談くださいということだが、パーティに一人で来ている人はほとんどおらず、みんな知り合い同士で仲良く話しこんでいる。私は普段あちこち一人で出かけて人と話すほうなのだが、今回はオークションのことが気になって知らない人と口をきこうという気になれない。

 まず9時ごろにオークションをチェックしに行くと、チョムスキーの値段は440ドルまで上がっていた。ここらでひとつ、私も参加してみるか。入札金額は20ドルきざみなので、ちょっと張り込んで480ドルと書く。すると私のすぐ横にいた品のいい老婦人が「チョムスキーと何を話したいの?」と聞いてきた。

「まだ決めていないんです」

「あらそう。じゃあ私がいただくわよ」婦人はすかさず500ドルと書き入れた。

 うわあ、なんて露骨な意地悪。でも、こうも思い切り嫌味なことをされるとかえって小気味よいくらいで、ちょっとサキの小説に出てくる登場人物のようだ。嫌いではないな、こういうおばさん。しかし、どうせすぐ釣り上げられるなら460ドルにしておけばよかった。

 なにしろオークションは数年前に生まれて初めてやったボストンバレエの「ダンサーと過ごす一日」以来初めてのこと。しかもあのときはオンラインだったから、今回のライブ形式は勝手がわからない。締め切りの11時までのあと2時間で何が起きるのだろうか。

 とはいうものの、ずっとオークションテーブルに張りついていても仕方がない。またホールに戻ってうろうろしていると、スタッフの一人らしいおじさんと目があったので話をしてみた。60年代にMITでチョムスキーの授業を取っていたそうで、長年レジストでボランティアをしているという。「先生は本当に教育熱心ですばらしい人ですよ」と褒めちぎっていた。今から考えれば現役時代のチョムスキーの話を聞ける貴重なチャンスだったのだが、バンドの音が大きいのと緊張しているのとで話に身が入らず、早々に切り上げてしまった。

 またオークションを見に行くと、20ドル上がって520ドルとなっている。思ったより値上げ幅は大きくない。会場にいるはずのライバルは一体どの人だろう。あまりちょくちょく見に来るので、担当者が「競争は激しくないよ」と声をかけてくれた。

 家を出て早3時間以上が経過した。こんなに子供と離れるのは初めてで、母乳で胸が張ってきた。家に電話をすると、幸い子供は機嫌よく寝てくれたらしい。お母さん一世一代の踏ん張りどころだ。寝ているところを悪いけど、もう少ししたらお父さんと迎えに来ておくれ。

 会場に戻って手持ち無沙汰に壁の花をしていると、近くのテーブルの中年夫婦が手招きをしてくれた。同席させてもらってしばらく話をする。ご主人は学校の先生で、奥さんはアーチスト。ケンブリッジに住んでいて、イラク戦争開始直後からビジル(もとは宗教用語で「寝ずの行」のこと)と呼ばれる、静かな反戦デモを主催しているという。いやがらせなどを受けなかったかと聞くと、最初はそういうこともあったけれど、今はないということだった。

 ご主人は昔グアテマラで教えていたこともあって、当時は反体制的な発言をしていた同僚が突然姿を消すことがあったと話していた。二人もオークションに出ている絵画に入札していて、最後までねばるという。お互い希望のものが手に入るといいわねと言っているところに夫婦の友人がやって来て話をはじめたので、私はそっと席を離れた。

 いよいよ入札終了まぎわの10時45分。直前に値段が釣り上がっていたらどうしようとドキドキしながらオークションシートを見ると、私のあとに20ドル増しをした人がいるだけで540ドルだった。よし。夫に11時過ぎに迎えに来てもらうよう電話して、いよいよこれからが勝負だ。

 ここで重要になるのが、最終入札の定義である。11時までに書き終わったエントリーが有効となるのか、それとも11時までに記入をはじめた人が落札できるのか。どちらかによって戦略は変わってくるが、たぶん違いは担当者に聞いてもわからないと思う。といって、あわてて数分前に記入を終えたあとに誰かにさらわれた日には目も当てられない。

 ボストンバレエのオンライン・オークションでは時間を計って終了1分まえに入札したけれど、今回はどちらの方式でも有効にするため、11時ぴったりに書き終わるように最後の入札をしよう。

 ほかのアイテムを見るふりをしながら周りの様子をうかがうが、最後の最後に勝負に出ようと身構えていそうな人はいない。もうパーティーもお開きに近いので、半分くらいの参加者が帰った会場は閑散としている。よしよし、いい感じだ。

 10時50分。55分。胸がぱんぱんに張っているうえに心臓がドキドキして苦しい。

 58分。今だ。ペンを取ってゆっくり560ドルと書き込む。これから、名前とメールアドレスを書き入れるだけの作業に2分弱をかけなくてはならない。昔国会で牛歩戦術というのがあったが、私がやっているのは言わばナメクジ筆法。我ながら姑息なやり方だけれど、ここまで来た以上なりふりかまっていられない。勝つためには何でもやる。

 だれかと目が合って気が散ると困るから、ひたすら時計の秒針をにらみながらペンを握りしめる。しかし、時間をかけることに集中するあまり書き損じがあってはならない。まず名前。それからメールアドレス。幸い私のアドレスは個人名もプロバイダ名も長いので時間が稼げる。あと20秒。10秒。5,4、3、2,1で、最後まで記入し終わって無事終了!

 ここでやっと顔を上げるが、誰も異様だったに違いない私の動向に注意をはらってはいないし、私のように終了間際まで入札用紙に張り付いている人もいなかった。担当者によるカウントダウンもなく、まったくあっけない終わり方だ。

「オークションは終了でーす」
 のどかな声がして、用紙の回収が始まった。すると、知的な感じの中年女性がやってきて「あら、もう終わったの? 私ね、弟にチョムスキーの入札を頼まれてきたの。700ドルまで出すと言われているんだけど・・・」

 「この人が時間内に入札しなくてよかった」と安堵していると、担当者はシートをチェックして私の方を見ながらこう言った。「こちらの方が560ドルで競り落としているんです。交渉したければ、直接どうぞ」。そ、そんなあ。

 主催者側としては差額の140ドルが喉から手が出るほど欲しいんだろうが、私は今までそれ相応の努力をしてフェアに競り落としたんだ。今さら出てきて金額を上乗せするって言われても遅いやい。そう考えているうちにもおばさんは私に話しかけてくるが、極度の緊張がとけて脱力している私には相手の言っていることがよくわからない。

 困ってヘラヘラしていると、おばさんはどうやらこいつには何を言っても無駄だと思ったのか、「仕方ないわね。あきらめるわ」とその場を立ち去った。代理だけあって、そんなに残念そうでもなかったから助かった。必死に食い下がられたら気力の限界が来て倒れていたかもしれない。まだ動悸が激しく打ち、頭が朦朧としているので、本当に失神するかと思った。

 とはいうものの、このままぼんやりもしていられない。気をとりなおして、担当者に自分が落札したことを確認した。詳細はオークションシートに書いたアドレスに後日連絡があるとのことで、レシートも何ももらえなかった。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?