セロリ

 小学生の時からこいつとは相容れない。こいつを知ったのはは幼稚園のバスの中で、同級生がピーナッツバターをつけてニンジンやセロリスティックを食べてるという話を聞いて、こいつの存在を知った。その時、直観的にその野菜に対していいイメージを持てなかった。

 幼稚園の時に、セロリの食べた経験はおそらくない。おそらく私は、小学生の時の給食でセロリに邂逅したのだと思う。あいつは…そう、ボルシチの中にいた。ボルシチは給食の献立としてたまに姿を現す。ボルシチの味自体は大好物だった。黒糖パンをボルシチの中に浸して食べると、トマトの酸味を黒糖パンの自然な甘さが柔らかく包み込み、口内をじわじわと幸せが満たしていく。そこまではよかった。そこまでは。
 ふと、私はスプーンを使用してボルシチを食べた。本来はこれが正しい食べ方だ。口の中にボルシチを運ぶと苦みを感じた。私は苦みの原因を隈なく調べた。豆、ニンジン、牛肉、玉ねぎ・・・・全ての食材を一つずつ食べ、私は苦みの原因を確信した。そう、セロリだ。確信した私は愚かな行為に出た。セロリのみを別皿に取り、苦みの無いボルシチを美味しく平らげた。セロリは残した。この時、私の苦手な食べ物No.1としてセロリはインプットされてしまった。

 それから数年たち、私は歳を重ねて味覚が大人になったせいか子供の時に食べることが出来なかった食材を美味しく感じるようになった。
そう初めて思えた食材は茄子だった。茄子は昔から食感と味があまりしないという点が苦手だった。しかし、高校生の時に茄子の天ぷらを食べ美味しいと感じた。茄子のほのかな甘みを感じ取ることが出来た。茄子は味がしていないわけではなかった、如何様にも調理できるような万能な味を持っていた。その他にもピーマンや椎茸、空豆など現在では大好物となった。しかし、セロリだけは月日が経っても和解出来ないままである。

 セロリから遠ざかっていた私は、成人し、酒を飲むようになった。酒を嗜むようになり、酒の肴の味を知っていった私。そこでウドに出会った。鈴木ではない。山菜のウドだ。今まで食べたことがなかった私は好奇心に身を任せ口に運んだ。すると、懐かしい味が口いっぱいに広がった。
・・・・・セロリだ。
決して食べれないわけではない。しかし、好んで口に運びたい味でもなかった。やはり、あいつとは相容れないことがわかった。

 お酒を嗜むようになり、ある程度味覚も変化したが、あいつを美味しいと感じる味覚には変化しなかった。あと何回味覚が成長すれば、あいつのことを心から迎え入れてあげられるだろう。そして、今後あいつに匹敵するような存在と出会うことがあるのだろうか?予想はつかないが、多くの食材を美味しく感じる人生のほうが楽しそうだ。いつかそんな日を夢見て今日も私は食事をする。


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