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偶然を受け止め、映す

ドレスデン出身、1960年代に旧西ドイツに移って今なお存命で精力的に制作活動に取り組んでいる、ゲルハルト・リヒター展に行ってきた。なんと日本では16年振りの回顧展だそう(東京では初)。

生まれは1932年、昨年亡くなった私の祖父とほとんど同い年。第二次世界大戦、そして冷戦と激動の時代を経た彼の作品は、ガラスやフォトペインティング、あるいは抽象画という違いはあれど「目の前に立ち現れた偶然を一期一会の出会いとして」大切に写し取っている印象を受けた。彼の大事にしている価値観かもしれないが、刻々と状況が変わる時代に青春、壮年期を過ごしてきた背景も大きく影響している気がする。

「アブストラクト・ペインティング」

ただ、ここが芸術家としての昇華の仕方だと思うが、大切に受け止めつつ、自分なりのフィルターをかけて目の前に提示している。それが「モーターボート」に見られるような、鮮明な写真の線を絵画的にブラッシングしたかのような、ぼやーんとしたフォトペインティングの作品に顕著だ。現実と仮想の境界を曖昧にしながらも、不思議なポジティブさを与える、生き生きした作品だと感じた。

また、特に印象に残ったのが「ビルケナウ」と「9月」。それぞれ、ナチス・ドイツの強制収容所、また9.11同時多発テロをモチーフにしている。WW2から時が経つほど、痛みが薄れていく我々に警鐘を鳴らしているようだ。

「ビルケナウ」
「9月」

今日は、広島に原爆が投下されて77年。ウクライナ情勢、台湾の対中武装化が仄めかされるようなペロシ氏の訪台、訪日など、世界は反核とは逆の方向に向かっているような気がする。万が一、再び戦争が起きてしまったら「ビルケナウ」に描かれたような惨状を我々は目にするだろう。泥臭いけど、すぐに人間の心は変えられない。武力衝突を回避するために、落としどころを見つける対話を続けることしか突破口がない気がする。技術は発展しても、同じ過ちを繰り返したら結局同じ悲惨さが出てくるのは変わりないのだから。



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